第2話・寡黙

君の声音は、誰も聞いたことが無かった。

僕の交友関係の幅は狭い。然し、教鞭を取る立場の人間さえ、彼女の声に触れた経験は無いと聞く。数少ない友人も然り。クラスメイト同士の会話に耳を欹てた結果も変わらない。皆が皆、口を揃えて「聞いたことが無い」と言った。

彼女は、掴み所の無い不思議な存在だった。

だからなのだろう。僕は、摩訶不思議な彼女に惹かれた。人の感情の機微に疎く、謎の介在さえ把握できない僕自身が、明確に『知らない』と断言できる君の心に、強く惹かれたのだ。そして、君の声が聞きたいと切に願った。

それは恐らく、皆々同様なのだろう。言葉の無い彼女は、ただ其処に居る人間だ。感情表現に乏しく、人と会話することの無い彼女を評価する要素は、非常に限られている。君の外見で判断する人が多数を占めるのは、極めて必然で自然な成り行きだ。

麗しい容姿が際立つ彼女に好意を寄せる人間の数は如何程か。思索に耽る必要も無い。指折り数えられる数には収まらないだろう。

君は、そんな君だった。途方も無い存在と感じていた君の心に、初めて触れた日。君が明確に意志を示した、あの刹那。僕は、一生涯に渡って忘れることは無いだろう。

何故、君が僕の誘いを受けてくれたのか。何度も何度も思索を巡らせた結果、要領を得る解答を導き出すことは叶わなかった。

でも、君は確かに、僕の誘いに乗ってくれた。ただ、その事実だけが嬉しかったんだ。

「……」

自室の天井に見る、君の姿。走馬灯の如く、明確な輪郭を持たない虚像は変遷する。

恋情の何たるか。延々と続く人生の十数年間、触れた経験さえ無かった感情が交錯する今、難解な疑問に押し潰されて仕舞えば、安寧は訪れるのだろうか。ただ座って居ることさえ落ち着かない。胸中に抱える想いの八割方は、彼女に係る感情だ。目を開けば君が居て、目を閉じても君が居た。

これが恋情か。

布団を頭から被り、固く目を閉じる。暫くの間、僕は眠れないのだろう。一昨日も、昨日も、今日も、明日も、明後日も同じ。君は、何時も此処に居るのだろう。然して、眠れぬ夜には君の夢を見るのだろう。

思い至る間に、僕は想う。

……気分は落ち着かないが、悪くは無い。

それは、きっと贅沢な苦悩なのだろう。

約束の期日は、もう間近に迫っていた。

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