遅れて行くかもしれませんが
なぜ、金を払おうとするのか。その質問に答えるためには、心詠は刀冴のカメラの事について触れなくてはならない。けれどそれは、刀冴にとって個人的で、とても大事で繊細な問題である事は深く理解しているつもりだ。
刀冴にとって自分は、そこまで踏み入っていい間柄じゃない。ただ、事件の時に数日間共にいた事があるだけの、赤の他人なのだから。だからこそ、心詠はその件について触れられずにいた。
「……一人暮らしで、生活も大変でしょ? 社会に出て、働くようになったら返してくれればいいもの。なんなら、返さなくてもいいんだけど、それじゃ気にするよね? だから、利子も期限もなしで貸そうと思ってるんだけど」
だから結局、こんな当たり障りない事しか答えられない。今までだってのらりくらりと躱してきたのだ。けれど、今日の刀冴はこれでは引き下がらなかった。
「理由になってねぇ。生活が大変な奴なんて他にもいるし、施設に寄付してんならそれで十分だ。個人的に貸す義理なんかねぇだろ」
尤もな意見だ。だけどお願い、もう聞かないで。心詠は祈るような思いで刀冴を見つめ、言葉を返す。
「私が、君に渡したいと思ったから……」
「だから! それがなんでなのかって聞いてんだよ!」
心詠の言葉を遮る刀冴の声量が大きくなる。その声に心詠はビクッと身体を震わせ、硬直してしまった。
「それはっ……!」
──約束したからでしょ!?
その一言を、ギリギリのところで飲み込む。忘れてしまったのは、刀冴のせいじゃない。自分が彼を助けたいから勝手にやった事だ。約束なんかなくても、心詠は動いていた。刀冴は何も悪くない。
だけど。
もう限界だ。想いが溢れてしまう。
「……目の前に、チャンスがあるんだから素直に手を伸ばせばいいのに。それとも何? 金持ちの施しは受けたくないっていうおかしなプライド? 同情されるのはまっぴらごめんだってわけ?」
「……喧嘩売ってんのかよ」
刀冴が不機嫌に声のトーンを下げた。今まで聞いたことのない感情の籠らない声に、心詠はうっ、と一瞬息を飲んだが、負けじと刀冴を睨み返した。ギリリと様々な感情を握りしめた小さな白い拳は、震えていた。
「売ってるよ! そんなくだらないプライドが、何の役に立つ? プライドがお腹を満たしてくれるわけ? それとも生活を潤わせてくれるの!?」
「そうじゃねぇ……っ」
「それとも、心を満たしてくれたの!?」
「……っ!」
わかっていた。刀冴にだってわかっていたのだ。手を伸ばさないのはただの「意地」だという事くらい。けれど、そのために理由を知りたいと思う事は間違いではないはずだ。
知りたいだけなのに、心詠がこんな事を言うなんて。一体、何を抱えているというのか。何を恐れているのか。刀冴はそれがどうしても知りたかった。
「せっかくやりたい事があるのに、少し手を伸ばせばやりたい事が出来るのに……やらないのはただの意気地なしだ!」
心詠の目から、刀冴への気持ちが溢れ、雫になって流れ落ちる。
「いい加減……夢を掴めよ、阿久津トーゴっ……!」
最後にそれだけを叫ぶように告げると、心詠はすぐさま踵を返し、その場を走り去って行く。
『だからトーゴは助けてもらう代わりに、夢を諦めないって約束して!』
あの時の心詠の声が脳裏によぎる。口には出さなかったが、やはり心詠はあの時の約束を守ろうとしていたのか、と刀冴は思う。こちらが忘れていた約束を、あいつだけは覚えていて守ろうとするなんて。もしや心詠はそんな約束の鎖に縛られていたのでは、と刀冴は危惧していたのだ。それを確認したいがために、刀冴はわざわざここに来た。
けれど、たぶんそれだけじゃない。さっきの様子からはそれが伝わった。刀冴は、心詠の後ろ姿が見えなくなるまで、目を離せずにいたのだった。
「……アクツ。私は、あの事件の後、悔しくてたまらなくて死に物狂いで努力しました。一刻も早くコヨミ様をお守り出来る強さを手に入れたくて。……アクツはそうやって、ある目的の為に、死に物狂いで努力した事がありますか?」
残された部屋で、静かに話す束咲の言葉がチクリと刺さる。カメラを失ったあの日に、刀冴は全てを諦めた。後悔は何度も襲ってきたが、今の今まで考えもしなかったのだ。
けれど、束咲の言うように自分は努力などしてこなかった。生活するのに精一杯、というのは言い訳になるのかもしれない。
「努力すれば必ず叶うとまでは保障出来ませんけど……結果に納得が出来ます。納得出来ないというならそれは、きっとまだ努力の余地があるという事です」
お金を受け取れば、確かに余裕も生まれる。努力だって出来る。けれど。
「……それなら余計、腹割って話すべきだろ」
刀冴の言葉に軽く目を見開いた束咲は、ふっと目元を和らげた。
「では、アクツもコヨミ様に、腹割って話さなければなりませんね?」
「俺、も……?」
そうです、と言いながら束咲は扉の前まで進み、そこで立ち止まる。
「思い出したのではないですか?」
「……わかるのか」
「ただの勘ですけど、当たりなんですね?」
ならばそれも込みで全て話すべきでしょう、と束咲は告げる。それから刀冴の方を向き、家まで送らせますね、と声をかけた。
玄関まで辿り着き、送迎の車に刀冴が乗り込む際、束咲は再び話しかける。
「明日から送迎はしません。以前のように自転車で登下校なさってください」
「……ああ」
けれど、と束咲は付け加えた。
「どうぞ、お昼寝はしに来てくださいね。いつも通りコヨミ様はそこでランチを召し上がります。私は少し、遅れて行くかもしれませんが」
護衛が離れるなどあるはずもないのに。刀冴はその言葉に込められた意味を正確に受け取ると、車のドアを閉める直前にありがとな貴守、と言葉を残したのだった。
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