走れ!


 誘拐されて五日目の夕方。この日は日曜日で、男が朝から家にいる地獄のような一日であった。しかし、同時に千載一遇のチャンスが訪れたのだ。


「見ろ。玄関のドア、少し開いてる」


 いち早く気付いた刀冴が心詠の耳元で囁く。言われた心詠がそうっと暖簾から覗くと、確かにドアが開いているのがわかった。暑いから換気のためにほんの少しだけ開けておいたのだろう。しかしその間に寝てしまったというところだろうか。


「で、でもあの人は……?」

「日曜日は特に呑んだくれるんだ。見ろ、あれは当分起きない」


 見れば男は部屋の真ん中で大の字になって寝ていた。確かにぐっすり眠っているように見える。でも、部屋のど真ん中だ。この男を踏まないようにまたぎながら通らなければ、玄関までは辿り着けない。気付かれないようにそっと歩き、音を立てないようにドアを開けて逃げなければならないのだ。しかもあのドアは古いからか、開け閉めの際にキィキィ鳴るのである。

 それでもきっと、男を起こさず脱出する事自体はそう難しい事ではないはずなのだ。でも、数日間の生活で心身ともに疲れている今の状態で上手くやれるか心詠は不安になった。


「大丈夫だ。俺が付いて行ってやる」

「ほ、ほんと……?」


 心配性でビビリだな、と小馬鹿にしたように刀冴が笑うので、心詠は膨れっ面になる。でもお陰で少し緊張が解けた気もする。


「……ね。それならトーゴも一緒に逃げよう? 一緒に家に来たらいいよ。ここにいるのは絶対危ないもん。私の家なら色々子どもには難しい事も、なんとかしてくれるから」


 少し考えてから心詠がそんな事を口にしたので、刀冴は動揺した。正直、家から出ようなどと思った事は一度もなかったのだ。こんなに酷い目に遭っているのに、一度もない。けれどそれは、行くあてがなかったからだ。でも今は、この少女が誘ってくれている。子どもの言う事だからあまり信じすぎるのも良くないだろう。でも、家で養ってもらえるなどとは思わないが、今の環境が少しでも改善するかもしれない。せめて写真は自由に撮りに行けるかも、と刀冴は僅かな希望を持ったのだ。


「……とか言って、一人で逃げるのが心細いだけだろ?」


 けれど、流石に素直に行くとは言えない刀冴は、つい意地悪な事を言ってしまう。頭の中ではしまったな、と思ったが、それは要らぬ心配であった。


「……うん。トーゴがいないと、寂しいよ」


 心詠はそれを素直に認めたのだ。それが本心であったのか、刀冴の捻くれた反応がお見通しだったのか。いずれにせよ、心詠が刀冴と行きたいという気持ちは本当なのだとわかる。


「一緒に行こう? この手を掴んでよ、トーゴ」


 そう言いながら真剣な眼差しで刀冴を見つめ、手を差し出した心詠。刀冴は戸惑いながらも、その手を握る。


「……わかった。一緒に行こう」


 握り返してくれた事に、心詠は嬉しそうに笑う。


「私が、トーゴを守るよ」

「おう。俺がお前を守ってやる」


 二人は握り合う手の力を少し強めたのだった。




 刀冴は家を出るに当たって、ほぼ何も持たずに家を出るつもりだ。ランドセルや服などの持ち物は、いずれ自分が買うと心詠が言ったからである。元々そんなに服も持ち物もなかったが、それでも逃げるには身軽であればあるほど良いだろう、と刀冴もその考えに甘えることにした。

 ただし、カメラだけは首から下げる。これは両親の形見なのだ。刀冴は大事そうにカメラを撫でた。


「よし。行くぞ」

「うん……!」


 二人は小声で囁き合うと、そっと暖簾をくぐった。それから足音を極力立てないように細心の注意を払いながら玄関までの短い距離を歩く。歩数にして十五歩ほどの距離は、男の身体に触れないギリギリのところでまたいで通るために果てしなく遠く感じる。

 時折床に散らばったゴミを踏んでカサリと音が鳴る。その度に男の様子を確認しては安堵の息を吐く。そうしてようやく玄関に辿り着いた。


 玄関に心詠の靴が置いてあったのはこの数日間で確認済みだ。仕舞うのも処分するのも面倒だったのだろう。適当に放り投げられた状態で散らばっていたので、こっそりと目立たない位置に隠しておいたのだ。これから逃げる事を考えれば靴は履いた方が良い。二人はそっと靴を履いた。


「うーん……」


 その時、男が寝返りを打ったのがわかった。二人はギョッとして揃って男の方に顔を向けた。男は手でお腹を掻いているが、まだ起きる様子は見られない。しかし安心は出来なかった。つまり、眠りが浅いかもしれないのだ。今大きな音でもたてれば、すぐに見つかってしまう。

 二人は目を合わせて頷きあい、ゆっくりゆっくり、慎重に玄関のドアを開けた。


 その時だった。


 運の悪い事に、ちょうどその時近くの道路を救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎていったのだ。

 ドアを大きく開けた事によって、その音が室内により大きく響き渡る。二人は焦ったが、少し遅かったようだ。


「うぉっ、なんだぁ!?」


 男はその音でガバリと起き上がったのである。それからすぐに、子どもたちがしっかり手を繋ぎ、玄関から外に出ようとしている姿に目を止めた。


「っ走れ!」

「なっ、まっ、待てっ!!」


 その瞬間、刀冴は叫び、固く握り合っていた手を振りほどいて心詠の背を軽く押した。背後では男が慌ててこちらに来る気配を感じる。心詠の心臓は今にも飛び出そうだった。

 けれど、振り返る余裕はない。慌てて部屋の外に飛び出ると、そこは二階建てアパートの二階端の部屋だった事がわかった。錆びた鉄骨の通路をダンダン音を立てながら走り抜け、急いで階段を下りる。


 ふと、背後に人の気配を感じない事に気付く。後ろから、刀冴が来ているはずなのに。


 階段を下りきった心詠は少しだけ後ろを振り返った。すると、階段近くで刀冴が男に足を引っ掛け、転ばせている光景が目に入って来た。刀冴が、自分を逃がすために時間を稼いでくれている。


「すぐ追うから先に行け!」


 倒れ込んだ男を飛び越えながら、心詠に叫んだ刀冴。心詠がわかったと返事をしようとしたその瞬間だ。


 男が、逃げようとする刀冴の足を掴んだ。


 目の前は階段。刀冴は、ゆっくりと倒れ、落ちていくのを感じた。首にかけていたカメラの紐が外れ、ガンガンという嫌な音を立てながら自分より先に落ちていく。


 遠くで、心詠の叫び声が聞こえた気がした。

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