それが条件だよ!


 その日の夜遅く。それが何時だったのかはわからない。いつのまにか寝ていた心詠は、何かが壁にぶつかる大きな音で目を覚ました。それから続く怒声に身を震わせる。


「おいトウゴ……てめぇ俺の飯食ったな!?」


 この声は、きっと自分を攫った男だと心詠はすぐに察知した。怒鳴り声の後に何かを殴ったような音、それから、呻き声。きっとこれは刀冴の呻き声だと気付いた心詠は思わず大声をあげそうになる。それを済んでのところで止めたのは、暖簾の隙間から見えた這いつくばる刀冴の鋭い視線と、さっき言われたあの言葉。


『絶対助けようとすんなよ』


 きっとここで自分が出て行ったら、今度は男が自分を標的に変えるだろう。そうしたら刀冴の事だ、自分を庇おうとする。そうなったら、余計に殴られてしまう。


 悔しい。悔しい。悔しい。何も出来ない自分が。泣いて震えて、立ち上がる事さえ出来ない自分が。耳を塞いで目を瞑り、男の気が済むまで耐えるしかないなんて。


 刀冴が今怒鳴られてるのだって、男の分の食事を自分が食べてしまったせいなのに。こうして言われるがまま黙って見ないフリをするのは卑怯者のする事だ。


 だけど。

 今の自分に出来るのは、その卑怯者になる事だけだった。


 耳に押し当てた手だけでは、どうしても怒声が耳に入ってくる。その声を聞きながら心詠は深く深く反省していた。


 自分は誘拐されているのだ。それも、自分のくだらない我儘のせいで、大親友まで危険にさらして。それなのに、刀冴という友達が出来た事に浮かれてしまった。嬉しいと思ったし、笑顔も浮かべた。


「なに、やってるんでしょう……私は」


 その、小さな呟きは、涙とともに落ちて床に染みていく。

 束咲は無事だろうか。両親は心配してるだろうな。目覚めた時に感じた様々な不安が胸に押し寄せてくる。一人でいると、途端に不安に飲み込まれて、なんて情けないんだろう。

 心詠はひたすら自分を責め続けた。




 時間にすれば十分ほど。それは大した時間ではないかもしれないが、殴り、殴られ続けた時間としては長く感じただろう。それは心詠も同じだった。とても長く感じた。心詠は自分の心を殴っていたのだから。


 突如暖簾がさっと開けられ、ドサリと刀冴が放り出された。その時一瞬、心詠は男と目が合い、息を飲む。しかし男は心詠の存在をその時まで忘れていた様子で、軽く目を瞠った。けれどすぐに思い出したようにチッと舌打ちをし、何を言うでもなく去っていく。


 この人は一体何のために自分を誘拐したのだろう、という疑問が浮かんだが、今はそんな事よりも刀冴だ。泣きすぎて酷い顔になっていた自覚はあったが、構わない。四つん這いで刀冴の元へ近付くと、力なく横たわる刀冴の頰にそっと触れた。


「トーゴ……」


 ごめんなさい、と言えば怒られる気がした。自分の為に殴られてくれてありがとう、も違う。大丈夫? だなんて、口の端から血を出して大丈夫なわけがない。きっと身体も痣だらけだろう事は簡単に想像出来た。

 こんな時に、なんと声をかけて良いのかすらわからない。何が優秀だ。何が天才美少女だ。自分はこんなにも、無力なのに。


 ホロホロと涙を流しながらひたすら囁くように刀冴の名を呼ぶ。それから自分の膝の上に頭を乗せて、ずっと優しく頭を撫でる。それは、知らぬ間にウトウトと眠ってしまうまで、ずっと続けられた。苦悶の表情で気を失っていた刀冴の表情は、心なしか穏やかになっていた。




 そんな生活が四日ほど続いた。二人は男が家にいない間は様々な事を話し、男が帰ってくると息を潜めて部屋に篭る。時折刀冴がやはり理不尽な暴力を振るわれ、ボロボロになった刀冴を心詠がいつも泣きながら介抱する。心詠は、気が狂いそうになるのをギリギリの所で耐えていた。それは偏に刀冴の存在があるからだ。

 刀冴はもう随分長いことこんな生活を送っているのだ。それも、今まではたった一人で耐えてきた。だから自分は甘ったれているわけにはいかないのだ、と心詠は思う。刀冴の存在に支えられているお返しに、自分の存在で刀冴を少しでも支えたいと願ったのだ。


 刀冴は写真の話になると生き生きとしていた。そんな姿を心詠は憧れの眼差しで見ている。心詠は親の決められた通りの道をひたすら歩んでいて、自分で何かを選んだことなどないからだ。だからといって、これまでの生活を嫌だとは思わないし、今後も精一杯努力しようと思っている。

 けれど何か、夢中になれるものがあったなら。もしもここを無事に出られて家に戻れたら、自分が夢中になれる何かを探してみよう、と心詠は思うのだった。


「今は現像出来ないから撮った写真を確認する事も出来ないけど……いつか撮りためた写真を見てみたい。大きくなったら自立して、金を貯めてさ。世界中を旅しながら写真を撮りたいって思うんだ。……このカメラで」


 こんな生活を続ける中で、夢を諦めない心の強さに心詠は何故だか泣きそうになった。とても素敵だと思ったのだ。だから、その夢を叶える手伝いがしたいと思った。


「私が家に戻れたら……今度は私がトーゴを守るよ」

「今度は?」


 不思議そうに首を傾げる刀冴にそうだよ、と心詠は答える。


「だって、ここでは私、トーゴにたくさん助けてもらってる。守ってもらってるんだもん。私。それだけじゃ嫌なんだよ!」


 心詠は両手で刀冴の右手をギュッと握りしめた。刀冴の頰がほのかに赤く染まる。


「私、トーゴに夢を叶えてもらいたい。その為の手伝いをするよ。だから家に戻れたら、必ずトーゴをこの家から助けてみせる。約束する!」


 刀冴は呆気に取られたように心詠を見る。心詠は構わず言葉を続けた。


「でも、タダでは助けてあげない! だからトーゴは助けてもらう代わりに、夢を諦めないって約束して! それが条件だよ!」


 そこまで言って、内容を理解した刀冴はついにプッと吐き出すように笑った。それから困ったように微笑んで、わかったよと返事をしたのだ。


 二人で交わした幼い日の約束。それは、心詠の人生において、最も優先すべき事項となった。

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