何年も経ってるのにな
「別に無理する必要はないんじゃないか? 適当に理由をつけたっていいんだぞ」
妹の様子に心配げに眉根を寄せながら隼敏は問う。しかし心詠は首を横に振ってハッキリと口にした。
「彼には、嘘はつきたくないんだ。これまでだって、話をしないだけで嘘はついてない。でも……」
ふっと自嘲気味に笑みをこぼすと、心詠は力なく言葉を続ける。
「彼に軽蔑されるのは、ちょっぴり、悲しいかな」
その言葉に一瞬驚いたように目を丸くした隼敏は、すぐにからかうような笑みを浮かべた。
「ちょっぴり?」
「……かなり、かな」
「素直でよろしい」
兄さまには敵わないな、と心詠はほんのり頰を染めた。いつも凛とした姿勢を保つ心詠ではあるが、兄には弱い。
「でもなぁ、兄としては可愛い妹に嫌な思いはさせたくないんだよなぁ」
「私は嫌な思いをしても、好みのラノベでも探せばそのうち立ち直るから平気だよ」
安上がりでしょ? と心詠は言うが、それは彼女の基準である。心詠専用図書室が設けられている時点でお察しいただきたい。
「そういや、最近は良い本あったか?」
心詠の影響で隼敏もまたラノベにハマりつつあった。とはいえ心詠ほどの浸かりっぷりではないが。
「悪役令嬢やゲームの世界に飛ぶものはやはりハズレはないかなって思うよ。後は飯テロ系もおススメかな。ただ、屋台ものは食べた事がないからあまり想像出来ないんだけどね」
「……俺は全てを放り出して異世界に旅立ちてぇ」
「……お疲れなんだね」
遠い目をしながら異世界モノを所望する兄に同情の眼差しを向けながら、心詠は後で届けるねと兄に告げた。それから二人で本の話で盛り上がり、楽しいひと時を過ごしたのだった。
日曜日の今日、刀冴は引っ越しのアルバイトで身体を動かしていた。大きな家具を運ぶ力仕事が多いため、なかなかハードなアルバイトではあるが、運動する暇がとれない分ちょうど良いからという理由で選んでいたりする。冷蔵庫を一人で抱え、所定の場所まで運んだところで本日の仕事はおしまいだ。若い男子高校生のスタミナとパワーにより仕事は捗り、仲間も刀冴を可愛がってくれている。
「お疲れー! また頼むな!」
そう言われながらその日の給料を受け取り、軽く頭を下げて刀冴は帰宅の準備に向かった。
やはり力仕事の後は全身に疲労を感じる。家に着いたら軽く身体をほぐしておこうと刀冴は考えていた。それから最近乗る機会がメッキリ減っていた自転車に乗る。ずっと車に乗せてもらっているせいか、そこはかとなく怠け心が浮かぶ。今まではずっと自転車だったからそんな事思いもよらなかったのに、人間とは欲深い。一度甘い蜜を知ってしまうとなかなか抜け出せないという事実を、身を以て実感した。
今日は夕飯を豪華にしようと、牛丼チェーン店に立ち寄って大盛り牛丼をかっ込む。夕飯にしては早めの時間だが、帰ってもどうせすぐに寝てしまうから問題ない。
店を出ると、そのまま通り道にあるスーパーに寄って買い物を済ませ、刀冴はアパートの部屋に戻り、荷物を片付けてサッとシャワーを浴びた。時々お湯が水になるシャワーは、この時期まだ堪える。だが刀冴は慣れたものだ。汗を流せればそれで良い。
部屋に戻り頭をガシガシ拭きながら、また明日から学校が始まると考えたところで浮かぶのは、含み笑いを浮かべるお嬢様の顔。嫌でも思い浮かんでしまうあの顔に、自然と顔を顰めてしまう。
考えても無駄だとはわかっているが、やはりなぜ自分に構ってくるのかという疑問を考えずにはいられない。同好会がどうの、という理由は間違いなくオマケだ。名前を貸したのだからもう関わらなくてもいいくらいなのだから。それなのに理由をつけては自分の周りにいようとする。かと言って、恋愛が絡むか、と言われれば全くそんな雰囲気もない。刀冴だってその気はない。
絶対、何か理由がある。
それは確信しているのだが、それが何なのか、皆目見当がつかないのである。
「……頭、痛ぇ……」
ズクズクと、脳みそを内側から圧迫されているかのような痛みを覚える。偏頭痛などなかったのに、最近になってよく頭を痛めるのはやはりあいつらが原因だろうと刀冴は思う。
こめかみを軽くマッサージするように押しながら刀冴はカーテンを引くために窓の方へ向かった。
「……っ!」
ふと見上げた窓の外の光景に目を奪われる。立ち並ぶ家々の屋根から天に向かって夜が進出してきている刹那の空。迫り来る藍色から逃げるように輝く、夕日の最後の足掻き。刀冴が一番心惹かれる空模様だ。
思わず「何か」を取りに戻ろうと室内へ足を向けかけて、止まる。
「……何年も経ってるのにな」
自嘲気味に笑いながら呟く。それを失くしてもう五年ほど経つというのに、いざとなると反射的に身体が動いてしまうのだ。我ながら未練がましいな、と刀冴はその表情に影を落とした。
しかしそれは一瞬で、刀冴はすぐに顔を上げる。それからじっとその空を見つめ、徐ろに両手の人差し指と親指で枠を作った。それを左右、上下に僅かに動かしながら、ベストポジションを見つけると、口角を上げる。
この一瞬を目に、脳に焼き付けよう。
刀冴は脳内のシャッターを切り続けた。
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