一五. 恋華繚乱⑮
沖田に手を引かれながら。
紺色が勝りはじめた宵空の下をゆく。
先程からの流れに、思考のほうが置いて行かれている冬乃は、
そして幾度めかの、震える息を吐いた。
沖田に繋がれて前へと伸ばす腕を、もう何度もつねって夢でないことをまた確認しているのに、それでも信じがたいのはもとより仕方がないのだろう。
(だって、なんで・・)
つい昨日沖田は、冬乃とはつきあえない、と永倉へ言ったのだ。
それなのに、突然のこの展開。
どう考えても、解らない。
(けど)
あの口づけが、
沖田の、冬乃へのたしかな気持ちを証していることは、疑いようもなく。
あんなにも、想いをこめられて、
疑えというほうがむりで。
思い起こすだけで、蕩けるような心地に体がふらつきそうになるのに。
彼のあの口づけ以上に、濃厚に感情をこめられた伝え方なんて、むしろ他にあるのだろうかと。
ことばでの抒情さえ、要さずに。
(おきたさま)
どうしても、まだ夢の中のようだった。何度もつねった腕が袖の下できっと紅くなっていても。
冬乃は震えてしまうままの息をふたたび零した。
今だって、繋ぐ手は強くて優しく。まるで大切なものを離さぬようにして。
沖田そのもののような、強さと優しさを同居させたその手に引かれて、冬乃は彼の広い背を見上げる。
(夢であるのなら。夢でもいい)
一生さめなければ。
おもえば沖田に初めて逢えたとき、咄嗟に祈った事だった。
あの時は、こんな日がくることを想像もせず。
冬乃は滲んできた涙に、空を仰いだ。
幹部棟の玄関前で、沖田が振り返る。
冬乃は立ち止まって。遠くの篝火の照らす薄闇の中、沖田を見つめ返した。
「冬乃」
低く穏やかな優しい声。
「はい」
その声に。
こんなふうに、名前を呼ばれる日が来るなんて。
「おいで」
冬乃は、繋いだ手をそっと引き寄せられた。
指が絡められ。先程までより少し強く握りこまれて。
絡められたままに、その手を引かれて玄関を上がり。沖田が部屋の前、片手に襖を開け、冬乃は導かれながら行灯の燈らぬ部屋内へと入った。
襖が閉まる音とともに、
絡めた指を引かれて冬乃は、沖田の腕の中に、なだれこんだ。
冬乃の背に回った沖田の腕に、吐息が零れるほど強く抱き締められた冬乃は、
胸内で溢れだす幸福感に、圧されるように目を瞑った。
灯りも点さぬ薄闇の中、ふたり立ち尽くしたままに。冬乃は、もうとても長いあいだ抱き締められているのかもしれないと。ふと思った。
冬乃のあんなに激しかった鼓動が落ち着くほどに、
沖田と呼吸の波が穏やかに同調するほどに。
(沖田様・・)
がっしりと硬くて、温かですごく安心する、冬乃の大好きなこの場所は、あまりにも居心地が良くて。どんなに長く時が経っていてもまだ離れたくない。
沖田とこうしていることが、言葉になど出来ないほど冬乃にとっては幸せなことを。彼は知らないに違いないと、
冬乃は胸内で小さく溜息をついた。
(だって)
こんなに、冬乃を蕩かしてしまってどうするのだろう。
突然の彼の心境の変化のわけを、部屋に着いたらきちんと聞いてみようと思っていたのに。冬乃は今は只々、もっとこうしていたくて仕方ない。
冬乃の身じろぎに。だが、沖田がほんの少しだけ、腕の力を緩めた。
それだけでも、
冬乃は、もう離れなくてはいけない頃合が来てしまったのかと、ふと愁えて。沖田を見上げていた。
沖田が応えて見下ろしてくる。冬乃の瞳の慣れた薄闇にくっきりと映える、彼の引き締まった精悍な顔が、そしてゆっくりと近づいてきて。
その眼が、どこか熱を帯びた色をみせた時、
(あ・・)
冬乃はおもわず目を閉じていた。
「…ン……っ…」
同時に塞がれた唇から、また一瞬に身の芯を奔り抜けるあの痺れが、冬乃を襲い、
続いた先程のように濃厚な口づけが、
「ん…っ、…ふ…」
刹那の隙間から零れ落ちる冬乃の吐息と、
冬乃に、目を閉じていてもなお、くらくらと目の回るような酔いを、与えはじめ。
冬乃は夢中で沖田の着物を握り締めて。
沖田の硬い腕が、そんな冬乃を抱き締める力を強める。
「冬乃・・」
夢心地な中でやがて冬乃は時折、
唇が離されては、愛でるように沖田から名を呼ばれた。
(おき・・たさま)
「・・冬乃・・」
だが徐々に、その声音の変わりゆくさまに、
冬乃は気がついて。
恍惚とどうしても閉じかける瞼を冬乃は懸命に擡げ、
「・・冬乃」
その、どこか掠れた低い声に。
(おきた・・さま・・?)
そんな初めて聴く、声音に。
驚いて冬乃は、沖田を瞳に映そうとして。
「・・沖…ぅん…ッ」
瞼を開けきるよりも先に、
再び塞がれた冬乃の唇は。
「ん、ンー……!」
そしてこれまでよりずっと、激しく、
喰まれそうなほど、
幾たびも。
沖田の硬い唇で揉まれ。
瞬く間に、
幾すじもの強烈な甘い痺れが、止まるすべもしらず、
さらに冬乃の身の内を蹂躙しだして。
冬乃からまるで体じゅうの力を、奪ってゆき。
「っ…ふ…、…!」
(・・おき、た・・さま・・・っ・・)
冬乃を抱き締める沖田の腕へ、
もはや完全に身を任せて、支えられるだけのような状態に、
乱れてゆく呼吸に。冬乃は殆ど解放されないままの唇で喘いで、
(・・待っ・・て・・っ)
力なく、閉じた瞼を持ち上げることすら、できないまま。
「…お、き…っ……ンン」
次には、
沖田の舌が、冬乃の唇の奥へと。
歯列を割って、冬乃の口内を侵すのを。感じて。
戸惑いに逃がれようとした冬乃の舌は、
易々と絡め捕られ、
そのまま深く、気遣うようにゆっくりと吸われて。それでいて冬乃を決して逃さず。
濃厚な、
「ンーー……ッ…」
交じり合う、その舌の動きに。
翻弄されて冬乃は、呼吸が終いには追いつかずに、胸から喘いだ。
頭の内が白く霞んでゆく感に覆われながら、
繋がれた舌にすべての意識が、つどって。
(おき・た・・・さま・・・っ)
甘く、強引な、その口づけに。
ついてゆくだけで精一杯で。
気が付いた時には。
冬乃は背に、ひやりと壁を感じ。
深く唇を、塞がれたまま、
取られた手首を。
壁へと、押さえつけられていた。
軽々と冬乃の腰を支えている、沖田の大きな手に、冬乃は体を完全に預けながら、
顔の横に押さえつけられた片の手首を、びくりと震わせる。
まるで、逃さないと。暗に示すかの、その拘束に。
代わりに唇がふと離されて。
冬乃は、重たい瞼をむりやり擡げた。
まっすぐに冬乃を見下ろす沖田を瞳に映した瞬間、そして冬乃は大きく見開いた。
沖田の、その眼は。
彼の常の、深い優しさと。
かつて冬乃が見たこともない、どこか凶猛な烈しさとを。
まるで幾重にも綯い交ぜ。
妖気にも似た、その気配に。
冬乃は射すくめられ、少しも逸らせずに。
湧き出でる緊張に、小さな吐息を漏らした。
感じる。
冬乃の細ぎれな息遣いに混ざる、儚げな不安の色。
だがそこに拒絶の色は、無い。
いまにも崩れそうな冬乃の体を、壁に凭せかけ、沖田は冬乃のもう片方の手首を取った。
己の両の手に捕らえた、冬乃の華奢な両手首を上へと持ち上げ。片手で一括りに、彼女の頭上の壁へと押さえつける。
こういった一切に初心な彼女だから、これから生じるであろう、ささやかな抵抗を。
そっと封じるために。
己にされるがままの冬乃の腰へ再び片手を回し。そのまま腕まで潜り込ませて支えると同時に、
今ので更に密着した互いの体に、はっとした様子で長い睫毛を震わせる冬乃の、
その可憐な両の瞼に口づけて瞑らせ。
再び、唇を貪った。
冬乃は。もう何度めになるかわからないほど受けとめた、その甘く深い口づけに、それでも、あいかわらず息を乱されて、
ともに再び、言葉など要さずに流れ込んでくる溢れそうなほどの彼の愛情に、胸内を震わせた。
それでも先程までとは一段その気配を変えたように、感じるのは。今もきっとあの眼で見られているからなのか、両の手を捕らえられているからなのか。
「…は…ンっ…」
抱かれた腰がさらに引き寄せられ、勢いで生じた唇の隙から、嬌の息が漏れる。
(おきたさま・・っ・・)
一瞬開いた瞳に映ったのは、冬乃を愛しげに見下ろす、やはり熱の篭ったあやうい眼差し。
これ以上、
こんなふうに口づけながら、密着したら。
体の芯に力の入らぬまま、沖田の腕の中で冬乃は、警鐘を聞く。
それは、警戒とは、別の。
漠然とした不安。
未知への、
そして・・
(私は、)
・・・ふたりは。
時間軸に、囚われたままの存在同士。
だから―――――
「・・冬乃」
再び冬乃の心の臓を跳ねさせる、あの掠れた低い声に、
冬乃は、はっと瞼を擡げた。
あまりにも近い距離で、見上げた先、沖田の目が変わらず優しく微笑んだ。
「大丈夫、」
同時に首すじへ、熱い息と。口づけを受けて。
「・・貴女が戻ってくるまでは、」
「待つから」
辿るその熱は。
冬乃の鎖骨から、襟の合わせの奥へと。向かった。
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