一五. 恋華繚乱⑦

 

 

 この時代の識字率は高く、庶民でさえ多くが文字を読めた。

 そんなだから、冬乃の告白に驚かれたのも無理はない。

 武家の出だとさえ言ってしまっているのだから。

 

 だが。

 

 (本当に、簡単には読めないんだもの・・)

 

 

 後世に遺る近藤や土方の書簡の解読に、冬乃は辞書を片手に酷く苦労した。

 沖田の書簡に至っては、殆ど漢字だけで書かれており、お手上げだった過去がある。

 

 

 此処に来て、会話が全く違和感無く出来ているだけでも、厳密に言えば本来不思議なことだ。

 この時代は言葉の言い回しが、微妙に違っていたと聞いていたのに。

 

 身にまとう服の在り方における法則と同様、この奇跡の不思議な力の――奇跡の神様でもいるならばその力の――為す計らいなのだろうか、くらいに冬乃は受けとめていたものの、

 

 だからといって、まさか文字まで普通に読めるようにしてくれているとは、さすがに思えない。

 その部分にかんしては、言ってみれば冬乃の古文書に対する知識量の問題なのだから。

 

 これまで使用人の当番表や、店頭の張り紙の文字くらいならば、酷いくずし字でなければ読めていたが、近藤の読むような本となると、沖田達の書簡を容易に読めない以上、同様に無理があるに決まっている。

 

 

 「・・・冬乃さん」

 

 沖田の困ったような声が続いた。

 

 「読めないというのは、どの程度を言っている?」

 

 「え、あ・・」

 

 全く文字を知らないのか、日常生活に困らない程度には読めるのか、小難しい本を読むには苦労するあたりなのか、たしかに気になるところだろう。

 

 「通常の生活の範囲ではかろうじて大丈夫だと思います・・ただ、近藤様の本までは、読めない・・と思います。書簡とかも・・・」

 

 

 冬乃の返事に、少しはほっとしたのか、近藤と沖田が顔を見合わせた。

 

 

 だが。

 「局長の付き人として、書簡が読めないのは問題だね」

 沖田が容赦ない言葉を投げてくる。

 

 (う)

 

 「武家の出と伺っていたので、てっきり・・」

 近藤が、やはり困った様子で呟いて。

 

 「俺が特訓しますよ」

 

 沖田が返した。

 

 「え?」

 

 「基本的な文字の知識はあるようだから、なんとかなるでしょう」

 「そうだな、頼む」

 

 (え、ええ・・?!)

 

 

 「早速はじめます。冬乃さん、俺の部屋へ行ってて。土方さんのところから文机とってくるから」

 

 

 どうやら。

 

 急きょ沖田先生の講義が、始まることになりそうで。

 

 「すみません・・よろしくお願いします・・」

 冬乃は、実を言ってちょっと嬉しい想いは隠しつつ。ぺこりとお辞儀した。

 

 

 

 とくとく心臓の鼓動を感じつつ沖田の部屋で待っていると、まもなく文机を片腕に持って沖田が入ってきた。

 

 と思ったらさっそく、寄って借りてきたのか近藤のものらしき本を、冬乃の前に置いた文机に広げた。

 

 「読み上げてみて」

 

 ・・・いきなりですか。

 冬乃が怖々と、冬乃の横に並んで座る沖田を見上げる。

 (ていうか近!)

 

 あまりの近距離ぶりに、いろんな意味でよけいにどきどきし始める冬乃に、

 

 「どのぐらいか確認するだけだから。読めなきゃ読めないでいい」

 沖田がさっくりと促してくる。

 

 「ハイ・・」

 

 冬乃は本を覗き込んだ。

 

 (殆ど分かりません)

 覗いていきなり、溜息ものである。

 

 

 冬乃は、くずし字にかんして少しは独学している。

 それでも、今この目の前にある本のそれは、かなり崩されて大量のみみずが這いつくばったような文字で。それでも平仮名ならば、ある程度は識別できそうなものの、どうも漢字の量が多い様子で、冬乃にとって難解なのは見るからに明らかで。

 

 とにかくも冬乃は。

 

 「・・・な・・る・・者?は、下・・?・・の人、也・・?・・は羽?・・」

 

 読めるところだけでも、頑張ってみた。

 

 

 やがて、酷いおぼつかなさで、漸く見開きの最後まで辿りついた時。

 

 「これは鍛え甲斐がありそうだな」


 沖田が、真顔で呟いた。

 

 

 「・・・」

 

 沖田のその感想が怖い。

 

 

 硬直した冬乃に。

 

 

 そして特訓は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初は緊張していた冬乃だったが。

 

 さすが沖田の教え方は簡潔かつ、分かりやすく。

 

 勿論、怒ったりすることなど皆無で、むしろ冬乃が何度まちがえようとも淡々と訂正してくれて、その場で効率良い解読法を編み出しては導いてくれる。

 

 

 (どうしよう)

 沖田のすぐ傍ら、耳元に低い穏やかなその声で説明を聞きながら、今や冬乃は。

 

 (幸せすぎる・・っ)

 

 秘かに。打ち震えていた。

 

 

 とくとく鳴ったままの心の臓は、時々冬乃の呼吸さえ乱して。

 

 よもや講義を受けながら冬乃が隣でこんなにも蕩けているとは、沖田は思いもしないだろう。

 

 

 (悪い生徒でごめんなさい、おきたせんせい)

 

 

 救いようがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 すぐ横で本を覗き込む冬乃の、どこかほんのり甘さを帯びた香りが鼻腔をくすぐる。

 腕をまわせば簡単に抱き包めてしまえる、この近距離で。沖田は先程より、冬乃から目が離せずにいた。

 

 

 沖田の視線には気づかずに冬乃は、

 伏し目に、その長い睫毛をふるりと揺らしては、時おり小さく息を零す唇で、たどたどしく史記の文を読み上げる。

 

 何故か、ふとした刹那に冬乃の息はあがって、閨事の際の吐息にすら聞こえ。

 間違えないようにと緊張しているのだろうが、

 

 それゆえか加えて紅潮している頬と、艶やかに色味を帯びた唇に、

 沖田は、もう何度も魅入っては。

 吸い寄せられそうになる手前で、押し留まり。

 

 

 (まいったな)

 

 よもや沖田が隣でこうまでも惑わされているとは、懸命に教えを受けている冬乃は思いもしないだろう。



 心内で。沖田は盛大な溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「今日は、この辺にしとこう」


 冬乃は沖田の不意の言葉に、はっと彼を見上げた。

 

 沖田がパタンと本を閉じると「お疲れ様」と冬乃をちらりと見てそんなふうに微笑んで。

 

 と同時に、

 「総司、ちょっといいか」

 襖の向こうから近藤の声がした。

 

 冬乃が驚く前で、沖田はまるで予測していた様子で刀を手に立ち上がると、襖を開ける。

 

 

 「すまない、これから黒谷に行く用事ができた、ついてきてくれるか」

 

 「勿論です」

 即答する沖田に近藤が頷き。

 

 「冬乃さん、総司を借りるよ」

 

 (きゃ)

 「とんでもないです!」

 

 近藤の台詞に冬乃が顔を紅くして首を振ると、沖田が今日で何度めかの冬乃のそんな返答に、ぷっと吹いて冬乃を向いた。

 「ここに居てもいいし、今日はどちらにしても“講義”は終わりだからラクにしてて」

 

 「はい・・!」

 出てゆく沖田の背を見送りながら冬乃は、さてどうしようと。ひとまずくるりと部屋を見回した。

 

 

 

 

 

 

 

 廊下で近藤と別れ、

 襖の前で感じる冬乃の静かな気配に、沖田は一呼吸おき。

 開けてみると、やはりというか畳に横になっている冬乃の姿があった。

 

 

 男の部屋で無防備に寝ている冬乃に。

 沖田は半ば呆れて失笑する。

 

 (そりゃここに居ていいとは言ったが)

 

 

 あいかわらず。

 信用されているんだか、何も考えていないだけなのか。

 

 

 夕暮れの穏やかな薄藍の色が差し込む、少し開かれた縁側には、ハタキと雑巾が畳まれて在る。

 部屋の掃除でもしてくれていたのだろう。

 

 さしずめ、疲れたので一休憩しているうちに寝てしまったといったところか。

 

 

 これを他の幹部の部屋でもするようでは、こっちは気が気でない、と。

 

 今浮かんだそんな感情をいったん押し殺し、沖田は静かに部屋を進み、冬乃の顔の横へ腰を下ろした。

 

 

 見おろせば、上を向いた側の肩が規則正しい寝息に小さく揺れている。

 細い両の手首に額を寄せるようにして、うずくまり。

 横向きで強調された腰のくびれが、太腿から膝へとなだらかな曲線を落とし。


 宵を迎えつつある部屋の仄かな暗がりの中、

 冬乃の透けるような白皙の頬には艶やかな黒髪がかかり、それは流れて、微かに開かれた薄紅の唇に触れていた。

 

 その髪を沖田は己の指に絡め、そっと払ってやりながら。

 

 (大体、)

 

 ひとつ溜息をつく。

 

 彼女は髪を結わない。

 いつも湯上り時のように、この綺麗な長い髪をなびかせ、

 おかげで男達には、まるで誘っていると囁かれていることを彼女は分かっているのだろうか。

 いや、分かってなどいまい。

 

 

 「冬乃さん」

 

 (まったく、この子は)

 

 沖田は。冬乃の頬を柔くつついた。

 

 「起きなさい」

 

 「冬乃さん」

 「…ン……」

 

 ふと冬乃がすっと小さく息を吸って。そしてぼんやりと瞼をもちあげた。

 

 少し顔をもたげて。その瞳は沖田を映したとたん、みるみる見開かれた。

 

 「ご、」

 慌てて頭を上げ、

 

 「ごめんなさ・・っ」

 

 そのまま勢いよく半身を起こした冬乃の顔が、すぐ傍らに座っていた沖田の目下まで迫り。

 「あ」

 その距離に驚いたように冬乃はすぐに顔を背けた。

 続いて急いで身を引き、座り直した冬乃に。

 

 「掃除してくれたようで。有難う」

 もはや込み上げる笑みを抑え、沖田は、ひとまず礼を言う。

 

 「だけど、」

 次いで冬乃の瞳を見据えた。

 「その後に、こんなふうに寝ないこと」

 

 

 百歩譲って、この部屋で寝るならいい。

 

 「はい、ご無礼を・・ごめんなさい」

 「そんなことじゃなく、・・風邪ひくから」

 「はい、すみません」

 

 

 頼むから。間違っても他の男の部屋では寝ないように。

 

 沖田は胸内に苦笑し。

 慌てて立った冬乃に合わせ、己も立ち上がった。

 

 

 「そろそろ夕餉の時間だから、貴女も行く?」

 

 「・・はいっ」

 冬乃はそれは可愛らしくふわりと微笑んできて。

 今一度、沖田の胸内を掻き乱した。

 

 

 




 


 斜め前を行く沖田の広い背を見上げながら、冬乃は溜息をつく。

 

 掃除を終えて、張り切りすぎて疲れた体を少しだけのつもりで休ませていたら、寝てしまったらしい。

 

 他人の部屋で勝手に寝てる行儀の悪い女だと思われただろうと。

 

 (もうやっちゃったことは仕方ない。次から気をつけよ)

 しょぼくれた気持ちを叩き上げる。

 

 

 冬乃たちが屯所を横断する間にも、日が落ちて、辺りの宵闇はその濃さを増していた。屯所のあちこちで篝火が焚かれてゆく。

 

 (これまでだったら、御膳を運び終えて一息ついてる頃だ・・)

 なんだか不思議な感じがしてしまう。この新たな生活も、いずれ慣れるのだろうか。

 

 

 (ん・・?)

 

 ふと視線を受けて冬乃は目を向けた。

 

 よく誘ってくる隊士達が、こちらを見ている。

 

 (・・・?)

 普段だったら、冬乃を見つけたらすぐに寄ってくるのに、どうしたのか。

 そう思ってから冬乃は、つと気がついた。

 

 今、沖田が傍に居るから、彼らは来られないのだと。

 

 

 (あ・・・)

 

 使用人の仕事でなくなったこれからは、冬乃が屯所を一人で移動することのほうが少なくなるだろう。

 こうして傍らに近藤や沖田の居るときが増えるのではないか。

 

 沖田の計らい通り、確かに隊士達と接する機会は、あらゆる面で激減するのだ。

 

 

 (有難うございます、沖田様)

 

 目の前をのんびり行く沖田の背を見上げて。冬乃は、そっと礼をした。

 

 

 

 

 

 なのに。

 

 

 近藤の付き人としての仕事にも徐々に慣れ、沖田の手の空いた時にはかわらず文字の特訓を受けながら、

 食事に行くにも、近藤や沖田だったり、たまたま居合わせれば永倉や原田など、誰かしらの幹部と一緒で、冬乃が想像したとおり、すっかり平和で心穏やかな日々を満喫していた頃だった。

 

 

 いつものように井戸で汲んだ水を庭先で沸かし、近藤の他、部屋に居る幹部たちにひととおり茶を配り終えて。

 近藤の、休憩しておいでの言葉に甘えて、使用人部屋へと戻る道すがら。

 

 

 部屋の前に、立っている男に。

 冬乃は、驚いて十数歩手前で、立ち止まった。

 

 

 「池田様・・・」

 

 冬乃に気づいていた様子で、冬乃と目が合うなり小さく会釈を送ってくる池田に。

 部屋の前で待ち伏せしてるのも、どうかと思います、と、呟きそうになりながら。冬乃は意を決して再び歩み出した。

 

 「何でしょうか・・」

 

 「勝手に待たせていただいてすみません」

 冬乃が近づくのへ、池田がいつもながらのきりっとした顔を向けてきながらも前置いたその台詞に、冬乃が幾分、緊張を解くと、

 

 「こうでもしませんと、このところお会いできませんから」

 そんなふうに続けてきて。

 

 沖田の話では、冬乃が近藤の付き人になった事は、組中に伝わっているという。池田も当然聞いているのだろう。

 

 

 「先日は、少々強引に接してしまい、すみませんでした」

 

 「・・・いえ」

 できればあまり思い出したくないが、謝ってくれるぶんには受け止めようと、冬乃は小さく答える。

 

 「もう一度、僕としては貴女に確認しておきたく思いまして。本当に、誰とも出かけるお気持ちは全く無いのですか」

 

 「はい。何度もお誘いいただいていながらすみませんが、ありません」

 

 「わかりました」

 池田はあっさりと頷いた。

 

 「あの日貴女から聞くまで、まさか迷惑がられているとは思ってませんでした」

 ご迷惑おかけしてすみませんでした

 とさらに謝ってくる池田に、冬乃はむしろ少しばかり絆されて。

 「いえ、もういいんです」

 返す冬乃に、

 

 「・・その、」

 池田は珍しく気弱な声を出した。

 

 「女性というのは誘われれば嬉しいものだと。不肖ながら、これまではそうでしたので・・・まして貴女は・・」

 

 (・・・?)

 

 池田が視線を彷徨わせ、そのまま黙ってしまったので、冬乃も黙って続きを待つしかなく。

 

 「いや、何でもありません」

 池田は、だが会話を切り上げてきた。

 

 

 「では、失礼」

 

 いつもの、きりっとした顔に戻り。池田は背を向けた。

 

 

 (何を言おうとしたんだろ)

 

 まして貴女は

 

 あの台詞の流れからすると、『まして』冬乃は、誘われたら嬉しい女性たちよりもさらに何か、ということにならないか。

 

 (て、なにそれ)

 

 

 冬乃は、あの日以来、頭の隅でずっと気になってはいた。

 

 焦らしてるだの、弄んで、気を持たせてるだの。隊士達が言ってきたことに。

 

 「あのっ・・待ってください!」

 

 

 冬乃の追わせた呼び止めに、池田が驚いた様子で振り返った。

 

 「何て、言おうとなさったのか教えてください」

 

 「・・・」

 

 池田がややあって戻ってくる。

 

 そして冬乃を窺うようにして、口を開いた。

 

 「こんな男所帯に好きで勤めているくらいですから、・・好色な方かと」

 

 

 こ・・・・こうしょく?

 

 (それって、三度のごはんより恋愛大好きな人ってことだよね・・・?!)

 


 よほど冬乃の顔は唖然としていたに違いない。

 

 池田が、冬乃の反応を見ながらどこか納得した様子で呟いた。

 「どうも勘違いだったようですね」

 

 

 「あ、の、・・他の方々にも、私はそんなふうに思われてるんですか・・」

 

 冬乃の困惑しきった声音の問いに、

 

 「貴女をしつこく誘っている人は皆そうではないかと思われます」

 池田が気の毒そうに肯定してきた。

 

 「僕も、」

 腕を組んだ池田は、そして冬乃を見つめ。

 

 「好いた人がいるのでその方としか呑まない、とお聞きした時、そこで僕が勝負を願い出ると貴女は慌てて、無理だ、片恋だ、と返してこられたので・・・しかもその方の名も明かされず。それならば、忙しいだの何だのも含め、貴女はそれこそ、僕を焦らすつもりで言っているだけかとも」

 

 (だからなんでそうなるの)

 

 「あえて“誰か”に片恋しているふりでもなさっていれば都合が良いでしょうから。最初は断ってみせる理由にもなり、かつ、相思でない以上こちらに未だ期待を持たせることもできる。そうして、その間に、貴女は我々の中から選り好みする時間が持てる」

 

 どうやら、池田節が戻ったようだが。

 そんな理屈を披露してきた彼の、ひとつひとつの言葉に、冬乃のほうはもはや声も無く瞠目していた。

 

 

 (・・・そんなふうに受け取られたなんて、普通ありえないから)

 

 すべては、冬乃が“好色”だと思われていたせいなのだろうけども。

 

 「よけいなお世話でしょうが、本当に懸想してる方がいらっしゃるのなら、だいたい何故その方へ、きちんと伝えないのですか。きっとその方も、貴女ならば拒んだりはしないでしょう」

 

 冬乃は嘆息した。

 

 「・・・そうおっしゃっていただけるのは有難いですが、なんとも想われてないのは分かってますから」

 

 「・・・」

 

 ひどく問いたげな眼ざしが向けられて、冬乃はどうしようもなさに首を緩く振ってみせ。

 

 「告白に近い事は言ってしまったことならありました。でも相手にされませんでした」

 

 「だったら、何故まだ想い続けてるのですか。諦めきれないのですか」

 

 「元から・・相思になることを求めているわけではありませんから」

 

 

 池田の目が見開かれ。

 

 冬乃は「もう宜しいでしょうか」と数歩下がった。

 

 これ以上、こんな話をしていたくもない。

 

 

 「待ってください。・・それは、ただ想っているだけでいい、というのですか」

 

 なんだか前にも、山崎とこんな会話をしたと。冬乃はげんなりと黙したまま頷いた。

 

 「冬乃さん、それは」

 

 「もし、お願いできましたら、」

 冬乃は遮った。

 

 「池田様から皆様にも、・・その、私は好色なわけじゃなくて・・ただ好きな人しかみえないだけで、だからお誘いいただいても本当に応えれらないのだということを、お伝えいただけませんか」

 

 「伝えるぶんには、構いませんけども、火に油を注ぐだけかもしれませんね」

 

 池田の切れ長の目が、冬乃を捉えた。

 

 「・・え」

 「僕がそうですから、今しがた。貴女がこんなにもまっすぐな方だとは・・僕は本当に大変な誤解をしていたようです」

 

 (今しがた?て、いうか)

 言いながら近寄ってくる池田に、冬乃はおもわず後退る。

 

 「貴女のその一途な恋想いが、早く僕に向いてくれるよう、やはりこれからも励みます」

 

 

 「え・・・・」

 

 きりりと。締めくくられた池田の宣言に。

 冬乃は瞬きを忘れた。

 

 

 ふりだしに、戻ってしまったらしいことに。

 

 気づいたところで、

 これ以上、冬乃にとれる手段など無く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから冬乃は、仕事がありますので、と言い残して大急ぎで回れ右をし、当然、休憩もせず局長部屋へ帰ってきてしまった。

 近藤が「早いね」と微笑うのへ、おもわず苦笑いで返して。

 

 「そうだ、総司がそろそろ昼番から戻ってくるはずだから、部屋の掃除でもして茶を出してやってくれないか。私のほうならば大丈夫、今のところ頼みたいことも無いんだ」

 

 「はい・・!」

 

 近藤の優しさに、冬乃は瞬時に癒されつつ、

 さっそく庭園の奥の井戸場へ行って、置いておいた掃除道具を手に、沖田の部屋へ持ち込んだ。

 

 

 ハタキを握りながら。先程までのことを考えないように努めても、幾度となく溜息が零れる。

 

 

 (好色だとか思われてたなんて)

 

 池田がこれからどう“励む”のかも心配ではあるものの。なによりも冬乃にとっては気懸りなことがある。

 

 

 (まさかとはおもうけど、沖田様にまで好色って疑われてる・・わけないよね・・?)

 

 

 胸内に唸るたび、ついハタキの手が止まってしまう。

 べつに今うぐいすは鳴いていないというのに。

 

 『うくひすや はたきの音も つひやめる』

 冬乃は今も止まった手に、後世に遺るその土方の愛らしい句を想い出して、くすりと笑いつつ。


 

 (てか好色、ってそもそも正確にいうと何だっけ)

 

 

 元々の朧ろな記憶と、池田の話の流れから、あのときは恋愛ごとがすごく好きな人、と解釈したが。

 (合ってるよね・・)

 

 ようは、駆け引きが好きで、男を翻弄するのを楽しんだりする女のこと、なはず。

 

 

 (・・・でも本当に、沖田様にもそんなふうに誤解されてるってことないの)


 沖田だって不思議に思っていたのではないか。何故、冬乃が新選組に幾度となく戻ってこようとするのかが。それは土方にも聞かれたことだ。

 沖田ももしあの隊士たちのように、冬乃が“好色”で男所帯が好きだから、とでも勘繰っていたのなら、

 

 あの上七軒での時こそが、そんな冬乃を確信した時だった、とも言えないだろうか。


 

 (だって思い返しても、あの時の沖田様は、なんか変だった)

 

 急に帰ると言い出し、まるで突然に一切のやりとりを絶つように。

 

 冬乃が口にした、あの『呑みにいくなら貴方とだけ』の発言は、直接的で無い、まさに思わせぶりな、駆け引きのような台詞ではないか。

 沖田がそういうやりとりを好まないのだとしたら。



 (だから・・・なの?あの後、しばらく避けられてたのも)


 沖田が冬乃の気持ちに気づいたわけでは無しに、

 冬乃のことを“好色”だと確信して、引いたからだった・・・のかもしれない。


 

 (・・・どちらにしても、最悪・・・)

 

 頭を抱えそうになって冬乃は、慌ててハタキを握り直す。

 

 

 (そうだったら解かなきゃ。誤解)

 

 

 だけど、直接「私は決して好色ではありません」と切り出すのは不自然だ。きっと、かえって怪しまれる。

 さりげなく否定できる方法はないか。

 



 ハタキの手が何度も止まりながら冬乃は。そして小一時間、考え込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 沖田が昼番を終えて帰ってくると、冬乃が縁側に座っていた。

 

 「おかえりなさい。あの、お邪魔してます」

 

 ふりかえる冬乃に、沖田は自然と相好を崩す。

 

 「いつでもどうぞ」

 返しながら、腰の大刀を抜いて適当な場所に座ると、

 冬乃が小ぶりの茶瓶の乗った盆を手に、しずしずと入ってきた。

 

 膝を折って沖田の傍にそっと座りながら、盆を畳に置き。

 茶瓶を取り上げ、綺麗な所作で湯呑に注いでゆく。

 

 受け皿に乗せて茶を差し出す冬乃の、細い指先に目を遣りながら、礼を言って受け取ると、

 一口含んだ沖田の前で、冬乃がそっと畏まるように座り直した。

 

 「私って隊士の方々から、好色に思われてたみたいなんです」



 沖田は茶を噴いた。


 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る