第五章
第五章
てんの居室。
杉三「気が付いた?」
てんはうっすら目を開ける。
てん「わたくしは、もうこの世界では不要品なのかもしれませんね。わたくしが、してきたことは、もう、必要なくなったのかもしれません。」
また少し、咳が出る。
杉三「今は、無理しないほうがいいよ。じっとしてろ。」
てん「今思えば、あんな感情的になったら、それこそ、政治家としては、失格です。やっぱり、欠陥者は、政治には手を出してはならなかったのでしょう。」
杉三「なあ。」
てん「はい。」
杉三「もうさ、僕、ここにいるのは嫌になっちゃった。かといって日本に帰るのも後ろめたいよ。だってさ、今帰ったら、てんのことが心配でしょうがないもん。」
てん「わたくしも、できればどこかでという気持ちもありますが、でも、現実問題、そのようなことは、まず、実現はできないでしょう。それに、皆さんをお返しするには、みわさんの力がないとできませんから。」
杉三「だったら出ようよ。どうせ、ここにいてもつまんないだけだよ。あったかい温泉でも湧いているところでも行ってさ、治るまでしばらく待ってよう。」
てん「生憎ですが、この橘の村には、温泉が湧く確率はほとんどないのです。近年の地質調査で判明しております。それに、わたくしの名も顔も、知らない住民はいないでしょうから、素性を隠して、ということもできないでしょう。そとの世界では、わたくしは汚い世界を作った元凶ですから、どこも、受け入れるところもないでしょうからね。だから、どこかで静養するということは、まず不可能なのです。」
杉三「そうだけど、素性を隠そうとも隠さなくとも、てんは政治の世界からはしばらく身を引いたほうがいいと思う。ビーバーさんと、ああなってしまえば、もう、修復することもできないんじゃないかなあ。だから、ここに住んでいても余計につらくなるだけだと思うんだ。いつまでもつらいところにいても仕方ない。だから、いっそのこと誰にも邪魔をされない、どっかの片田舎にでも行ったほうがいい。」
てん「でも杉ちゃん、仮にそうだったとしても、わたくしたちは、欠陥者でもあるわけですから、」
杉三「てんがそういうセリフを口にするとは珍しい。」
てん「杉ちゃんも同じですよ。わたくしも、杉ちゃんも共通することとして、歩けないということがまずあるでしょう。わたくしも、この体では、長時間移動できるかという問題もあります。それに、静養しようにも、行くところもありませんし、移動するにしても、歩けないことによって、様々な障壁が生じてくるでしょう。」
杉三「そうだねえ、、、。でもそうすることは、必要だとは思うんだけどなあ。」
てん「ええ、わたくしも、できることならそうしたいのはやまやまですが、わたくしたちが、それを実現するためには、自身ではまず不可能で、誰かの手が必要であるということも、忘れてはなりません。」
杉三「そうだよねえ。どっかへ行きたくとも、日本のように、介護タクシーのようなものが、ここにはあるわけじゃないもんな。そうなると、必ず人手が必要にはなるよねえ。僕としては、どっかへ行ったほうが良いと思うが、、、。あーあ、こういう時に手を貸してくれる、強い味方みたいな人が現れてくれたらいいのになあ。僕はまだいいけど、てんを運んでくれる、力持ちだ。」
と、そのとき。
女中「だから、何回もいってますが、そのような汚ならしいみなりでここへ入られても困ります。帰ってくださいませ。」
杉三「誰か来たのかなあ。」
声「そ、そうですけど、一度だけでもお会いして、お、お話するわけには、いきませんでしょうか。」
杉三「吃音症か。うまくしゃべれてないや。」
てん「若い少年のようですね。まだ元服まで到達していないのでしょうか。」
たしかに、キーがかなり高い声である。
声「どうしても駄目でしたら、こ、ここで働かせてください。ぼ、僕、どっちにしろ勘当されていくところもないのです。」
女中「吃りであるだけでなく、勘当までされたような方に、やってほしい仕事なんて何もありませんよ!」
てん「どうしたのです?」
ふすまが開いて、女中の一人が入ってくる。
女中「ああ、聞こえてしまいましたか。一人、がたいの大きな男が、一月くらいまえからこの時間になると毎日毎日現れて、ここで丁稚奉公でもさせてくれといって聞かないんです。すぐに追い出しますから、お待ちくださいませ。」
てんと杉三は顔を見合わす。
杉三「がたいの大きいね。もしかしたら、使える存在かもしれないよ。」
てん「そうですね。わかりました。お通ししなさい。」
女中「しかし、あんな水ぼらしい身なりで、とてもお会いできるような風貌ではありませんよ。きっと、宿無しの非人の子供でしょう。そんな者をこの屋敷に入れるわけにはいかないでしょう。」
てん「いいえ、それはわたくしが判断すればよいことです。」
女中「そうではなくて、あのような、汚ならしい者がお部屋に入ったら、お体に障ります。第一、足袋どころか、下駄も履いていないんですよ!」
てん「だったら足を拭かせればよいでしょう。手拭いでも出してあげればよいのでは?」
女中「いいえ、着物だって、ほとんど洗ってないと思われる、ぼろなんですよ。袖は破れているし。」
てん「おかしな清潔志向はおやめなさい。必要あらば、わたくしが、特別に許可を出します。」
女中「わかりました。お通ししますから、くれぐれもお気をつけてくださいませ!」
てん「お待ちしております。」
女中「はい!」
杉三「てん、起きれるか?」
てん「ええ、短時間であれば。」
と、何とかして布団の上に座り、客人のやってくるのを待つ。
数分後。
女中「ほら、あんまり足音を立てないでくださいよ!政治の中心地なんですからね。いいですか、特別に許可をもらったのですから、あんまり不謹慎な発言はしないでくださいませ!」
客人「は、はい!け、決していたしません!」
女中「ほんとはね、その汚ならしい着物も、脱いでもらいたいところですよ。まさかとおもうけど、髪に虱なんかついてないでしょうね?」
客人「そ、そんなこと、ありません!」
女中「そうですか?何日もお風呂に入ってないんじゃないですか?なんか、髪が臭いですよ!」
杉三「はあ、馬鹿に声のでかい男だ。」
てん「そうですね。声の大きな人は、わたくしは、悪い人ではないと思います。」
また少し咳をするが、すぐに座り直す。
と、ふすまが開いて、
女中「つれて参りました。あまりにも汚いので、いちど行水でもさせようかとも思いましたけど、この人は、ものすごく喜んで、すぐに入ってきてしまったので。」
と、隣に立っている少年の背を押す。たしかに、着物の袖は破れているが、頭に虱がついているほど汚くはない。身長は5尺程度で橘族の一人であることがわかる。
少年「は、はじめまして。僕、かぴばらです!」
杉三「かぴばら、ネズミのか。」
少年「ちがいます、紛れもない僕の本名です!」
女中「そうじゃなくて、もっと礼儀正しくしゃべってください。目の前にいる方が誰なのか、もう少し考えてから自己紹介しなきゃいけませんよ!」
てん「結構ですよ。」
女中「しかし、」
てん「わたくしは、この方と、直に話してみたいので、お引き取りください。」
女中「だったら、着物くらい着替え直して、足袋もはいて、出直しさせるようにしましょうか?」
てん「いえ、時間はありません。お下がりください。かぴばらさんは、お残りなさい。」
女中「そ、そうですか、わかりました。失礼します。」
すごすごと引っ込んでいく。
かぴばら「やっぱり、着替え直して、出直してきます!」
てん「いえ、必要ありませんよ。」
かぴばら「でも、そこまで弱っていらしていたら、僕が原因でよりお体を、お、お悪くさせてしまうかもしれません。それではいけないじゃないですか。だから、今日は帰ります。新しい着物を揃えるには、今の環境ですと、い、一年ちかくかかってしまうかも知れないですけど、必ず出直してきますから!」
てん「だからこそ、わたくしは、今ここでお話して見たいなと思うのですが、違いますか?気になるようならすぐに一式持って来させてもいいですよ。最も、わたくしの寸法ですと、合致しないと思いますけど。」
かぴばら「わ、わかりました!どうしてもどうしても、お会いして見たいなと思っていましたので!」
と、深々と座礼する。
杉三「一体どうしたの?何があったの?」
かぴばら「あの、すみません、この人はどなたなんでしょうか?」
杉三「あ、僕?僕は影山杉三だ。杉ちゃんと呼んでくれれば、それでいい。てんとは、ずっと前からの親友なんだ。」
かぴばら「てん?呼び捨てはダメなのでは?」
てん「いいんですよ、かぴばらさん。この方に称号を使わせろというほうが、無理ですので。」
杉三「で、かぴばらさんだったっけ?どうしてそんなにこっちに来たいと思ったんだ?」
かぴばら「は、はい。僕はご覧の通り貧乏垂れで、着るものもご覧の通りぼろで、し、しかも吃音ですが、ど、どうしてもこちらで奉公させてもらいたいと、思ったんです。」
てん「かぴばらさん、あなた、たしかに、吃音ではありますが、貧乏垂れではありませんね。」
かぴばら「え、みていただければわかるでしょうに。」
てん「いいえ、違いますね。その言葉遣いを見ればわかりますよ。あなた、元々は中流階級か何かでしょう。それがやむをえずに勘当されて、貧乏垂れのように見えているだけです。」
かぴばら「で、でも、現実問題は貧乏垂れですよ。だって、学校をやめて、家から追い出されてしまいましたし。」
杉三「なんだ、その程度のことで勘当されたのか。こっちも随分腐敗したもんだなあ。きっと、吃音で同級生にでもからかわれたんじゃないの。それで、学校がいやになってやめて、家から出てけと言われて、そう言う感じなんじゃない?」
かぴばら「よ、よ、よくわかりますね。」
杉三「図星かあ。」
てん「どうしてわたくしのところへ来たのかは敢えてききません。不真面目な方ではないことはよくわかりますし、仕事を怠けることもまずないでしょう。」
かぴばら「は、はい。こ、これまで、日雇いの仕事をしてきましたが、無断欠勤したことは全くありません。そ、それだけは、自信があります。だ、だから、ここで働かせてください!」
杉三「そうなんだけどねえ、生憎、僕もてんもここから出ていこうと考えていたんだ。てんも、ここまで弱っちゃったからさ、どこか温泉のあるところでもいこうかなって話してたんだ。」
てん「杉ちゃん、この土地は、温泉が出る確率はほとんどないんですよ。」
杉三「じゃあ、どこで静養したらいいの?」
てん「そんなことはできないと、言いましたでしょうに。」
かぴばら「そ、そういうことでしたら、ぼ、僕いいところを知ってますよ。」
杉三「温泉があるのかい?」
かぴばら「いや、そういう訳じゃないんですけどね。ぼ、僕がかつて一時的に通っていたところなんですが、この村のずっと北端に、素顔同盟という組織があり、そこであれば、受け入れてくれるのではないでしょうか。あの組織の理事長は、大変情け深い人であると思います。もともと、社会に馴染めなかった人たちが、部族関係なく生活している組織なんですが、いかがでしょう?」
てん「でも、そういう組織であれば、皆さんはわたくしのことを恨むのではないですか?」
再び咳き込むがすぐにもどる。
かぴばら「ご、ごめんなさい、長く話し込んでしまったでしょうか?」
てん「いえ、お続けください。」
といっても、また咳き込んでしまう。
杉三「わかったよ!かぴばらさんね、僕らをその組織までつれていってくれるかな?明日になったら決行だ。夜に脱走を図るのは難しいだろうから、荷車にリャマを繋がせてさ、朝早くにここから出よう!」
てん「しかし、わたくしのことはいくら隠してもばれるでしょうに。そうしたあとが、大変です。」
杉三「そんなこと言ってる場合じゃないよ!てんが、政治をしていくのは、もう無理なんだよ!ばれたっていいじゃない!だって、悪いのは松野と、ビーバーさんたちだ。そういう組織であれば、そのくらい知っていると思う。」
てん「そうでしょうか?」
杉三「そうだと思う。そういうところに来る人ほど、邪悪に対して的確に判断できるよ。それに、そうしなきゃ、よくなる道はない。」
かぴばら「安心してください。ぼ、僕は吃音ではありますが、大都督の味方です。だから、こんな汚ならしい身なりでも、こちらで働かしてもらいたいなと思ってるんです。た、単に体の大きいことだけが唯一の取り柄のようなものですから、背負って歩くことくらい容易くできますよ!」
杉三「よし、わかった!吃音症のお言葉に甘えよう。じゃあ、明日の朝早くに決行しよう!それでいいだろ。てんを頼むぜ、吃音ちゃん。」
てん「吃音と呼んでしまうのはやめましょう。わたくしも、杉ちゃんの意見に従うしかないと確信いたしましたから、手伝っていただけますね。」
かぴばら「じゃ、じゃあ、ここで働いてもよいという事でしょうか?」
てん「ええ、どうぞよろしく。」
かぴばら「あ、ありがとうございます!一生の恩として、精一杯やらせていただきますので!」
丁寧に座礼する。
杉三「よし、決行する前に、この未来の安禄山の髪を切らせて、着物もしっかりとしたものに変えさせろ。これから未来の安禄山になってもらうのに、そのような水ぼらしい容姿ではふさわしくない。少なくとも、本物の安禄山は、そんなぼろぼろの着物ではないし、ぼさぼさの髪でもなかった。」
かぴばら「あんろくざん?それなんですか?」
杉三「僕らの世界での、ダメな政治家をやっつけた英雄なの。その体格が似ているから、そう呼ばせてよ。」
かぴばら「な、なにが似てるんですか。ぼ、僕は、そんなに強い者でもないですよ。」
杉三「いや、体がでかいから。吃音症ではなかったと思うけど。」
確かにかぴばらの肩幅はてんの二倍ちかくあった。
てん「では、着物を一式持ってこさせましょう。わたくしの寸法では小さすぎるでしょうから、一回り、大きなものを用意させましょう。」
杉三「本当はね、主君からもらうのが一番いいと思うけど。てん、持ってるもので、いらないものないのか?例えば、元服する前に持ってたとか。」
てん「しかし、それでは、身幅が足りなすぎます。」
杉三「じゃあ、僕が縫うよ!身幅直しなんて、いらない布を持ってくればすぐできる。その間に未来の安禄山は、そのぼさぼさの髪をきれいに直してもらいな!」
てん「わかりました。ここは、杉ちゃんのいうとおりにしたほうがいいでしょう。わたくしが、父まつぞうからいただいたものを一枚差し上げます。わたくし自身は二度と着用することはできませんから、新たに着用する者が現れて、着物も喜ぶと思います。」
杉三「なるほど、僕らのいう、振袖と似たようなものか。よし、今から直すから、早く髪を直してもらえ!」
てん「わかりました。」
数分後。
一心不乱になって、着物を縫っている杉三。
布団に座り、少しばかりせき込みながら、作業を見ているてん。
杉三「てん、疲れるようなら、横になってくれていいからね。」
てん「いえ、かまいません。わたくしも、見届けていたい気持ちがありますので。」
声「おわりました。」
同時に、ふすまが開いて、髪を切ってもらった、かぴばらが戻ってきた。確かにぼさぼさであった髪が短くなると、水ぼらしくて汚らしい貧乏たれという雰囲気はどこかに行ってしまい、貫禄のようなものがある、もしかしたら、本当に安禄山に近い、あるいは日本の幕末の英雄にも近い風貌になっていた。
杉三「できたぜ!」
と、さいごの糸を切り、針を置く。
かぴばら「ぼ、僕もおわりました。」
杉三「ちょうどいい、着てみろ。」
かぴばらは、杉三から着物を受け取り、急いで着用してみた。
正絹の、全体的に光沢があるもので、男性ものにしては珍しく柄ありであり、黒地に白い小さな菊柄を全体にちりばめたものである。
杉三「正絹だし、すごい硬い布だったから、縫うのに苦労したよ。やっぱり、偉い家は、いいもんがあるんだなあ。」
てん「わたくしが、元服する一年前に父まつぞうからいただいたものです。わたくしは、一度か二度しか、袖を通さなかったので、おそらく、二度と着用されることもないだろうと、わたくしも思っておりましたし、この着物もそう思っていたと思います。」
かぴばら「こ、こんな立派なもの、もらってしまって、いいのですか。ぼ、僕みたいな、落ちこぼれの、貧乏たれなのに。」
杉三「あのね、貧乏たれじゃないんだよ。未来の安禄山となるんだよ。そういう役目を担うんだから、しっかりと、制服を着こむべきなんじゃないのか。制服ってのは、役目をしっかりと、自覚するために着用するもんだからねえ。」
かぴばら「しかしですね、木綿の着物でも入手するのは大変だった身分なのに、こ、こんな立派なものはもったいなさすぎます。」
杉三「へえ、安禄山も、異民族のあんまりいい家の出身ではなかったらしいけど、もっと自信があって、堂々としていたらしい。そんな変な自己卑下はしなかったと思うよ。」
てん「ええ、わたくしもそうなっていただけたらと思います。」
かぴばら「あ、ああ、ご、ごめんなさい。」
杉三「安禄山は、そこで謝りはしなかったな。」
かぴばら「ど、どうしたら、、、。」
てん「いいえ、これからですから。」
杉三「主君は、寛大だな。よかったねえ。」
かぴばら「ご、ごめん、、、じゃない、ありがとうございます!」
と再び座礼する。
杉三「ようし、これで主従関係も決まったし、明日脱藩を決行しよう!」
てん「そうですね。ただ、脱藩という言葉には当てはまらないと思います。部下の者が、主君を裏切って、脱走するわけではありませんから。」
翌日の朝はやく、まだ暗いうちに、リャマに引っ張られた荷車が一台、北の方へ向けて走り去っていった。
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