川は流れる (原作:水円 岳さま)
(https://kakuyomu.jp/works/1177354054885331595 )
「
始まったようだ。
この人と酒の席を共にするのはもう何回目か。酔いが回ると必ず、熱燗をやりつつ、語りはじめる。普段は無口で実直で、不器用に見えるほど誠実に仕事をするが、やはりそこは人間。内々に秘めたものはある、ということなのだろうか。
そっと宴席を見回す。話を聞く人間がいるかざっと目で確認をして、傍に近づく者が居ればそのままに。居なければさり気なく話を切り上げ、
彼は吉田さんという。取引先の小さな工事会社で、主にクレーム処理をしているらしい。人が嫌がる仕事を受ける人というのは、大体人がいい。御多分に漏れず彼もそうだった。いつも軟らかく笑い、人当たりがいいため、客には好かれ、よく用事を言付かるようだ。
勿論有償なのだが、会社は利が小さい仕事で手を取られることを嫌い、揉めることもあると聞いた。
けれど、この人が居るからこそ、客先と繋がっていられるのではないか、と思うことがある。懐古主義ではないつもりだったが、時が経つごとにドライになっていく人間関係を思うに、何を信じていいかわからなくなることがある。信頼できる人間と仕事をしたい。そんな風に思った時に、真っ先に浮かぶのは彼だった。…その会社の、担当営業でも、社長でもなく。
そんな彼が評価されないのは何とも歯痒いものである。というのも、吉田さんは若い者を纏められない、指導力不足だと先日降格されたらしいのだ。人当たりが柔らかいため、若い者に舐められる。そんな理由だったようだが、悪いのは彼ではない。
不条理だと、そう思う。
「今の若い子は八俣の大蛇はしらんのかのぅ」
「判りますよ。神楽もありますしね」
返事をすると、彼は何度も頷きながら徳利を持ち上げた。とうにぬるくなった酒を注ぎ分けながら、話を続ける。
「八俣の大蛇ちゅうのはね、
あんた見たことあるかね?と問われて、首を横に振ると、吉田さんはそうかそうか、と幾度も頷いた。
「わしの親は何十年も前に島根を出て、その後に戦争があってねぇ」
言いながら、盃を煽る。酒を継ぎ足すと彼は「ありがとう」と皺くちゃの顔で笑った。
「親ァどっちも原爆で死んでしもうたけ、とうとう島根のどこに住んどったかも、墓も、判らんままになってしもうた。まあ墓が判っても、わしも探しきらんかったけ、入れるもんがないんじゃがね」
親類の誰かが吉田さんを探しに来ることはなかったらしい。当時戦災孤児は少なくなかったが、苦労も多かったろうに彼はそれについては何も言わない。一度話を振ったが、「みんなそうじゃったけぇ」と笑うばかりだった。
「ありゃぁ、まだ三十かそこらかねぇ、島根に行ってみたんよ。丁度島根で仕事があってね。その頃は高速もないけぇ、赤名の峠を超えてねえ。着いたら夕方になっとったが、まあ
吉田さんは手振りを交えながら、目を細める。恐らく、その時の光景が脳裏に浮かんでいるのだろう。おっとりと穏やかな目で続ける。
「ところどころ、鱗みたいに川洲が浮いとるんじゃが、水が流れとるところに夕日が映ってね、血みたいに真っ赤になっとるんよ。そりゃあ大きな
吉田さんは言いながらまた、盃を煽る。空になった盃に酒を継ぎ足しながら、頷くと、吉田さんはまた破顔した。
「ところがよ、何年かして冬に行ったんじゃ。その時も仕事で。そしたら驚いたねぇ、水の量が違うんじゃけ。前見た川と違うんじゃあ」
急に声の調子が変わる。本当に驚いた、と大袈裟に手振りする姿に、少し笑うと、吉田さんは「大袈裟じゃないんよ」と言い足した。
「あんまり驚いたけん、お客さんに言うたんよ。そしたらの、斐伊川は
そこまで喋ると、吉田さんは頻りに魂消た、を繰り返す。最初にこの話を聞いた時、斐伊川については調べてみた。
八俣の大蛇を氾濫する斐伊川と捉えた説は確かに存在したし、何千年か前、斐伊川から流れ込んだ土砂で宍道湖が形成されたという事実も確認できた。幾度も洪水を起こしていた川は江戸時代にも氾濫して、向きすら大きく変えたらしい。
そんなことを知ったけど、その時は、何故繰り返し吉田さんがこの話をするかは、判らず仕舞いだった。
先日、吉田さんが怒った、という噂を聞いた。余りにも珍しいことだったから人の口に上ったらしい。どうも心配で詳しく聞いたら、どうやら新入りが楽をしようと工事手順を無視して、怪我をしそうになったからだと言う。
吉田さんでも怒ることがあるのか、という印象が、吉田さんだからこそ怒ったのだな、というものに変わった。彼は決して自分の監督責任とかそんなものを気にしたわけではなく、人の身を案じたのだと即座に腑に落ちた。
多くは語らない吉田さんが、川の話だけは繰り返し、してくれる。人生は川のようなもの、とは誰の言葉だったか。時代に翻弄され、右へ左へ流される。ままならないことも、そのまま受け入れて。
彼はまさしく、川のような人生を歩んできたのだろう。
きっと、その心には、恋い慕う美しい川が流れている。一度も住むことがなくとも、そこは故郷であり、川は自分の分身のようなもの。そんな思いがあるんじゃないだろうか。
来年、定年だと言っていた。この話が聞けるのは、もう数えるほどしかない。
「一度行ってみますね」
そういうと、吉田さんはまた、とても嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。
何年経とうともきっと、川を見たら思い出すに違いない。
吉田さんの、その人となりを。
[企画向]短編リライトの会 ユキガミ シガ @GODISNOWHERE
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