Chap6-6


 唐突な言葉。


 まりあは目を瞠った。

 そして無意識に、アレスが触れようとした箇所――《夜魔王》と対の刻印のある場所を手で押さえた。


 紅い目がそこに注がれた後、まりあと目を合わせた。


「あの男に……、あなたを与えるのですか?」


 そう問う声は、急に冷たさを帯びた。先ほどまでの苦悩とも違う。


 予想もしない言葉にまりあは返答に窮し、なぜかひどく緊張した。

 ――冷たく、奇妙な威圧感さえ感じる声。

 だがこれは、確かにの表れだった。


(そ、そうか、アレスはそれも嫌だったんだ……)


 頭ではなんとか理解できた。

 が、《光の眷属》が憎い、などという理由とは全然違う。

 むしろまったく関係がない。


(――って、なんで……!?)


 ますます混乱する。

 しかしアレスが不平不満を言葉にしてくれたのだから、無視してはならない。


「あ、与えるとかそんなつもりは……! その、形式だけのものです! 本当の意味で結婚するつもりとかじゃなくて……」

「……刻印は厄介です。あなたの体に、あの男の所有印を刻んでしまったのですから」


 アレスの声にはっきりと不快感、怒りが表れる。


(しょ、しょゆう……そんなものじゃないし!!)


 変な意味を連想し、慌ててかき消す。


「れ、レヴィアタンさんの所有というよりですね! むしろ捉えようによっては、私の所有する証が向こうに刻まれているという見方もできるわけでして……」

「私を所有するだけでは足らないと?」

「!! そ、そういうわけじゃなく……っ!!」


 まりあは激しく焦り、舌をもつれさせた。

 アレスはからかっているのかと思ったが、暗い炎の色をした瞳は息苦しいほど真摯だった。

 どうしたらアレスの不満を解消できるのか戸惑う。


 そうしているうちに、左手を優しく取られた。

 まりあがびくりと震えると、アレスは手を自分の口元に持っていく。

 薄い唇を、左薬指に近づけた。


 淡く熱を帯びた呼気がまりあの指に触れる。


「私の女神……私の月。あなたが私だけの女神にならないとしても、他の者に独占されることだけは――」


 低くささやく声が、吐息が肌に浸透する。


 まりあの背は震えた。

 アレスの声から感じる強い自制、堪えきれずにこぼれる渇望、熱に浮かされたような切望――そのすべてが自分に向けられていることの、目も眩むような感覚。

 だがその意味を知ると、泣きたくなった。


 ――すべて、女神《ヘルディン》に向けられたもの。


《夜魔王》の伴侶になったことと同じほどに、アレスのこの声も言葉も、自分まりあの現実として受け止めてはならない。

 自分は、異世界の人間キャラクターですらない。


 揺らいだ心を戒めるように、まりあは自分を突き放す。


「私、は……」


 そう口を開いたとき、突然心臓をたたかれるような衝撃があった。

 顔を歪める。手で押さえると、銀色の光がもれていた。


 まりあははっとした。呼ばれている。

 顔を上げてアレスを見ると、彼は苦々しげな顔でまりあの刻印を見た。


「忌々しい――」


 吐き捨てるような低い声が響く。

 だがアレスは右手を一瞬開き、また閉じる。

 その手には黒の長剣が握られていた。そして長剣を無造作に地に突き刺した。


 大地が深い闇に染まっていく。

 まりあの足元も、この世界が開かれた時と同じ漆黒が染めていった。

 世界が一度闇に塗りつぶされ、反転する。


「――闇月!」


 鋭い声が耳を打ち、まりあははっとする。

 闇は消え、蒼と紫の《夜魔王》の姿があった。

 まりあは反射的に頭上を見上げた。


 だがそこに月はなかった。


 目を地上に戻し、周囲を一瞥する。

《まつろわぬもの》と呼ばれていた異形の亡骸もなく、ただ漆黒の闇と、朽ちた城跡があるだけだった。

 大地には草木の息吹も生物の気配もある。


 突然、レヴィアタンの手が首に触れた。


「ぅひゃあっ! な、……っ!!」


 まりあは思わず声をあげたが、とたんに胸の下に痛みがはしって悲鳴を押し殺した。

 蒼と紫の両眼が一瞬見開かれた。次の瞬間、瞳孔が収縮する。

 大きな掌が探るようにまりあの腹部に触れた。


「――っ、触らな……」

「怪我をしたのか」


《夜魔王》の声が低くなる。

 まりあは手から逃れることのできぬまま、息を乱しながら言った。


「大、丈夫……」


 だがそう答える間に、レヴィアタンの手から冷たく心地良いものが流れ込んだ。

 それと入れ替わるように痛みがひいていく。


「戻るまでの一時処置だ。あまり動くな」

「……あ、ありがとう、ございます……」


 痛み止めの効果は素直にありがたく、まりあは安堵と共に礼を言った。


 ことさら不快げな顔をしたアレスが歩み寄ってまりあの左腕をとる。

 レヴィアタンは冷ややかにそれを睥睨し、再び何があったかを問うた。


「え、ええっとですね……」


 奇妙な板挟みになりつつ、まりあは《まつろわぬもの》の襲撃があったことを簡単に説明した。

 レヴィアタンは眉を険しくし、腕を組んだ。


「《まつろわぬもの》は、この世界を徘徊する異分子だ。時間も場所も問わずどこへでも現れ、無差別に襲いかかる。大きな怪我なく戻ってこれたのは運が良い」

「……そ、そうなんですか……」


《夜魔王》の口から改めて聞くと、いまさら冷や汗が出るようだった。

 だがそこで、レヴィアタンはアレスに底知れぬ冷たい目を向けた。


「何をやっていた、道具。俺の妃を負傷させるとは」


 アレスは唇を引き結び、甘んじてそれを受ける。

 まりあは慌てた。


「ちょっと、やめてください! アレスさんのせいじゃない! これは私の責任です!」

「お前は俺のものだ。お前の身が傷ついて、お前だけの責任では済まない。なんのための武具だ」


 強い口調で咎められ、まりあは一瞬絶句してしまった。

 レヴィアタンからは確かに怒りを感じた。

 だが、これまでの責務に関する叱責とは違うように思える。


(もしかして心配してくれてる……?)


 レヴィアタンは物言いたげな視線でまりあを見た。


「それで? 決めたのか」


 まりあははっとする。

 この地に来た目的――アレスの人格をどうするか、彼の扱いをどうするかということについて問われている。

 深く、うなずいた。


「アレスさんは二度としないと約束してくれました。だから、これからも一緒に……側にいてもらいます」


 そう告げると、レヴィアタンは一瞬目を瞠った。たちまち厳しい表情になる。


「正気か。その道具に命乞いでもされたか? 下手な哀れみで気の迷いでも起こそうなら……」

「大丈夫です、きっと」


 まりあは頭を振ってそれ以上の追及を避け、アレスに振り向いた。

 奪われまいとするかのように左腕をとったまま、紅い目がまりあを見つめている。

 その双眸の中に複雑に揺らめく光があった。


 ――無垢に女神ヘルディンを慕い、誰にも奪われたくないと願う魂。


 アレスにとって、女神は主人であり親であり姉であり友人であり、もっと大きなものすべてなのかもしれない。

 女神の代用品としてアレスと関わるのなら、また女神の代用品としてアレスに応えなければならない――。


……、その続きは? 何を仰ろうとしていたのですか?」


 左腕に触れる指先に、わずかに力がこもった。

 まりあは一度息を止めた。

 冷涼な夜の空気を深く吸う。


 沈みゆく紅輪の最後の光を思わせる双眸を真っ直ぐに見つめ、伝えた。


「私は、誰のものにもならないよ。本当の意味ではね」


 ――それはがとるべき、もっとも正しく分相応な選択肢だった。

 この夢はいずれ覚める。

 たとえ夢でなくとも、いずれこの世界から去るだろう。


 漠然とそんな確信があった。

 二六年生きてきた人間としての理性もそれに賛同していた。

 昏木まりあは、『太陽と月の乙女』の住人キャラクターではないのだ。


 ――だから、胸の奥によぎった蒼穹の目をした《聖王》のことも忘れなければいけなかった。


 アレスはそれ以上言わなかった。

 紅い目に、狂おしい餓えとも喜びとも、あるいはそれ以外の何かともつかぬものがよぎった。


 自分に対するものではない。

 そうわかっているのに、まりあは胸が苦しくなる。心がざわついてしまう。

 それでも代用品として受け止めなくてはならない――。


 だがふいに、アレスは一度瞬いた。

 一転して透き通った双眸に真っ直ぐに見つめられ、驚く。


?」


 突然だった。

 それはまりあの胸を貫き、鼓動を乱した。

 一瞬世界が大きく揺れた。


 まりあは唇を開いた。

 初めて会う人を前にしたときのように答えていた。


「まりあ……昏木、まりあ」


 応じた声はかすかに震えた。

 女神の剣である青年の目に淡く純粋な光が輝く。


「マリア……?」


 アレスは、どこかぎこちない発音でそう反復した。

 とたん、まりあは衝撃を受けた。


 ――アレスはの名を問うたのだ。


 顔に熱がのぼってくる。胸が詰まって、声が出なくなる。足元に目を落とした。


(私……何を――)


 なぜかアレスの顔を見られない。

 恥ずかしい。この異世界で、自分の名前はまったく別のもののように響いた。

 目を落とした足元で、夜に染まった地を踏む感触を強く感じた。


「黙って見ていれば……俺という伴侶の前で何やら意味深なことを言う」

「!!」


 まりあは飛び上がりそうになり、勢いよく顔を上げた。


《夜魔王》の唇には微笑があった。

 だが冷たい夜を表す蒼と妖しい華のある紫の目はまったく笑っていなかった。

 頭部に大きく白い角を持つ長身の男が唇だけで笑い、腕を組む様は、まさしく《夜魔王》だった。


 まりあは反射的に後ずさりしかけた。


「こ、これはですね、その……」

「どういう意味だ? ? 俺を煽りたいのか? あえて乗ってやってもいい」

「い、いやいや違います!! 全然そういう意味じゃなくてですね!!」


 レヴィアタンは微動だにしないのに強大な威圧感があり、まりあは全力で背を向けたくなった。

 だがふいに、アレスの腕が背後から伸びてきて抱きとめられた。


「あ、アレスさん……っ!?」


 余計に混乱したまりあの前で、《夜魔王》の二色の双眸が細められ、鋭い光を帯びた。不快感を全身から発散させ、反撃とばかりにまりあの腰に腕を回す。

 アレスの低い声が響く。


「……言葉通りの意味だ。聞こえなかったのか」

「あいにく俺は王で、闇月の身も俺のものと決まっているものでな。――手を離せ、なまくらが」

「私に命令できるのは我が女神だけだ、よく覚えておけ《夜魔王》」


 空気が急に冷え込み、かと思えば二人の間で火花が散るのが見えるようだった。


 まりあは否応なしに二人の男に密着させられ、危機に陥った。

 だらだらと冷や汗をかき、一方で顔と頭が熱く茹だりかけるというかつてない体験を強いられる。


(ななななななんだこれ……! ううう!!)


 頭がうまくはたらかず、内心で奇声ばかりがあがる。

 しかし刻一刻と頭が煮崩れそうになり、このままでは羞恥で気絶する危機を感じた。


 まりあは身をよじり、両手でアレスとレヴィアタンを押し返した。


「と、とにかく!! 用は済んだのでさっさと帰りましょう!!」

「……よかろう。詳細は城に戻った際に聞く」


 レヴィアタンの異様に穏やかな声に、まりあは喉の奥で悲鳴をあげた。


(いやいやいやいや、詳細もなにもここで終わりですしこれ以上ないですし!!)


 どう切り抜けるかといまから焦っていると、アレスが半歩下がった。

 まりあが顔を向けると、黒衣の青年は滑らかに片膝を折る。


 そしてまりあの左手を再び取った。

 恭しく、おごそかな手つきにまりあは息を呑む。

 アレスは頭を垂れ、恭しく取った手に唇を近づけた。


「――今度こそ、最期を共に」


 熱をもったささやき。祈りにも似た声が手の甲に触れる。

 左薬指に柔らかいものが触れたとたん、青年の姿が溶けた。


 一瞬淡く紅に艶めく闇がまりあの左手に絡みつく。

 闇は蔦を広げるように鎖を編み上げ、黒の手甲を作り上げた。


 左の薬指に指輪、そこから繋がる美しい黒の鎖の編み模様。


 まりあはためらいがちに、だが確かめるようにそっと手甲に指を滑らせた。


「やはり壊すべきだな、そのなまくらは」 


 まりあはびくっと肩を揺らした。

 顔を向けると、《夜魔王》は既に黒馬に跨がっていた。

 冷たい目に、あの唇だけで笑う表情をしながら、まりあに向かって手を伸べている。


「来い。帰るぞ」


 短くも抗いがたい力のこもった声。

 まりあはうなずき、近づいていく。

 だが《夜魔王》の手をとる寸前、一度だけ振り向いて天を見上げた。


 あんなにも煌々と輝いていた月が、いまはどこにも見当たらない。

 雲もないというのに。


(月は、どこへ行ったんだろう――)


 まりあはなぜか、その思いに囚われそうになった。

 しかし頭を振って追いやった。


 レヴィアタンの手を取り、来たときと同様に前へ抱えられる。

 黒馬は夜を駆け上った。


 まりあは眼下に永遠の夜の世界を見ながら、冷涼とした風を頬に快く受けた。


 アレスと約束し、一つ問題を取り除いた。

 だがそれですべてが解決したわけではない。

 一時の休戦――そこから先へ進まねばならない。


 なぜ『太陽と月の乙女』の世界に入り込んでしまったのか、あるいはこれは夢にすぎないのか。

 なぜ自分が《闇月の乙女》になってしまったのか、わからないことは山ほどある。


 だが不可逆の時間の中で、アレスやレヴィアタンたちとアウグストたちを戦わせたくない、どちらかが滅ぶようなことがあってはならないということだけはわかっていた。


 完全なる均衡。

 創世の女神たちがいたときにのみありえたという完璧な二分を目指すのだ。


 そのために行動する。やがてこの世界から去るときまで。


(さあ、これからだ――)


 まりあの前にはどこまでも夜が広がり、底知れぬ闇が世界を覆っている。

 月の消えた夜は見えるもののほうが少ない。


 それでも星々の光は変わらずに瞬き、まりあの世界を淡く照らしていた。

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