Chap6-5
アレスが即座に駆け寄ってくる。
その足音を聞きながら、まりあは顔を上げてアレスを見た。
「……大丈夫、ですか? 怪我は……」
「それは私の言葉です! 私のことなどどうでもいい、あなたは!? 無理をされた……!」
アレスはすぐ側で片膝をつき、両腕を伸ばしてまりあの肩や腕に触れる。
まりあはされるがままになり、アレスの体に大きな怪我は見当たらないことだけ確認した。
だが、急にアレスの黒い眉がつり上がり、目が険しくなった。
「――なぜ、私に身を委ねてくださらなかったのですか! 早く私を使って応戦していれば、あなたがこんなに傷つくことはなかった! 私が傷つけさせなかった!!」
黒衣の青年は本気で憤っているようだった。
――こんなふうに怒りを露わにするのははじめてだとまりあは思った。
まりあはすぐには答えなかった。しばらく息を整え、口を開いた。
「……委ねるって、アレスさんが、私の体を使うってことですか」
赤い瞳がわずかに見開かれた。
「あなたを護るためです! ご不快に思われるかもしれませんが――」
まりあは頭を振った。
言葉を発するたび体が軋み、鈍い痛みが生じる。
息をしてそれをやりすごす。
いまもアレスの声に言い訳の響きはなかった。
――本当に自分のためを思ってくれている。
「たとえいまのは、そうだったとしても……、ヘレミアスのときは、違ったでしょう」
赤い目の青年は息を呑んだ。
その顔に一瞬驚きがよぎったあと、すっと冷たくなっていく。
――まただ、とまりあは思った。
「光の凶徒どもは敵です。あなたを欺き、あなたを奪おうとする……」
呪うような声が、同じ言葉を繰り返す。
まりあは静かにその言葉を聞き、呼吸した。
そしてアレスの目を見た。
「違うよ。それにヘレミアスたちは攻撃なんてしてこなかった。守るためじゃなくて、相手を傷つけようとして……攻撃したんだよ」
ずきり、と体の内側が痛んだ。
ヘレミアスを捉えた剣の感触が両手に蘇り、震えた。
奥歯を噛む。息を吸って、吐く。
そして震えがおさまるのを待った。
(落ち着け。言わなきゃ……)
耐えて、堪えろ。
泣き叫んだところで事態はどうにもならない。
誰かが助けてくれることはない。
うつむいている間に、まりあは震えを噛み殺した。
そして一度大きく息を吸って、アレスを見た。
「私はヘルディンじゃないよ。力を受け継いでるかもしれない、ちょっとどこかが似ているだけの、紛い物なの」
精一杯落ち着いた声で繰り返す。
だがアレスはまた、顔を強ばらせた。
突然撲たれたような顔――惑い、傷ついている顔だった。
ヘルディンが死んだということの意味を理解していないのか。
あるいは、理解したくないのか。
まりあは何度も息を飲み込み、必死に冷静さを保った。
「でも、私を代用品にしていいよ。私を護ったり側にいたりすることで、アレスの気持ちがおさまるなら」
そう言葉にしながら、まりあはなんとか受け入れようとした。
――ヘルディンの代わりとして見られても構わない。
よく考えれば、だからこそアレスは優しく接してくれた。
それならそのままの関係でいい。
真実のためにこれを壊したいなどとは思わない。
そんな勇気も自信もない。
(大事なことは……、もっと、別のことなんだから)
自分の心に、そう言い聞かせる。
こんなことは大したことではない。
自分の目的はもっと別のところにある――。
「けど、私をヘルディンとして見るなら、ヘルディンに従ったように私の言うことを聞いて。絶対に、私の体を勝手に動かすようなことをしないでほしいの」
アレスは答えない。
「私がアレスに償ってほしいことがあるとしたら、ヘレミアスたちを傷つけたことだけ。でも、あれは……もう取り返しがつかないから」
語尾にいくにつれて声が震えそうになり、自分を奮い立たせた。
波のように押し寄せる感情が引いてゆくのを待つ。
暴発しそうな怒りを握って、アレスを直視した。
「今度あんなことをしたら二度と許さない。二度とあんなことをしないと約束して。約束してくれないなら、私、アレスともう一緒にいられない」
「我が女神、あれは……」
まりあは頭を振って青年の言葉を遮った。
そして全身の力を振り絞り、最後の言葉を放った。
「選んで、アレス。二度と私の体を勝手に動かさない――そう約束するか、しないか。強制はしない。約束してくれたら私をヘルディンの代用品にしていいし、これから先も一緒にいる。でも、できないなら離れる」
紅い瞳が揺れる。
その両眼を見つめながらまりあは答えを待った。
――強制しないと言いながら、これはほとんど脅迫だとわかっていた。
だが他に方法はない。
アレスがうなずいてくれなかったら。
約束できないと言ったら、そのときは。
消す/消さないの選択肢が目の前で点滅している――。
(……知らないよそんなの!!)
まりあは胸の内で吐き捨てた。
たとえうなずいてくれなかったとしても、アレスの人格を消すなどというのはそれでも考えられなかった。
ただ、もう一緒にはいられない。
アレスは呆然と立ち尽くしていた。
突然世界のすべてから見捨てられた者のような顔をしていた。
「なぜ……、なぜ、そんなことを仰るのですか。私は、あなたを護るために――」
懇願するような声に、まりあの心は大きくぐらつく。
本当はこんな態度をとりたくはなかった。
だがここで折れるわけにはいかなかった。
ヘレミアスやヴァレンティアたちを傷つけたことだけは許せない。
二度と繰り返してはならなかった。
アレスはまりあの許しを待ち、だがまりあはそれを与えなかった。
やがて、人並み外れた美貌がいっそう温度を失ってゆき、その紅い瞳から光が失われ、重く沈んでいった。
「あなたは……私の廃棄を、お望みなのですか?」
まりあは目を見開いた。
「ち、違……っ!!」
突然冷たいものに心臓を鷲掴みにされ、とっさに言い返した。
――人格を消すなどと考えていたことを、知られてしまったかのようだった。
顔に耐えがたい熱がのぼる。
まりあは一度唇を引き結び、息を止めて押し殺した。
(ただ……体を勝手に動かさないって、約束してほしいだけなのに)
それなのに、どうして廃棄などという言葉を持ち出すのか。
「違うよ……アレスにいなくなってほしいとか、そんなことは思ってない!」
うつむいたまま、言葉を絞り出す。
そうして、堪えきれずにつぶやいた。
「……ずるいよ、アレス」
子供が詰るような声がこぼれた。
――廃棄などという言葉を持ち出すほど、彼にとって約束できないことなのか。
そんなに――《光の眷属》たちを、アウグストたちを許せないのか。
まりあはぎゅっと唇を引き結んだ。
それから一度大きく息を吸って再び口を開いた。
「……私は《光の眷属》と戦いたくない。こういう考え、ヘルディンらしくないでしょう? でも私は戦いを避ける道を選ぶし、探す。アレスにとって、厭なことをたくさんすると思う」
追い詰めるとわかっていて告げる。
アレスを傷つけたいわけではない。だが偽るわけにはいかない。
「それでも、私の……ヘルディンの、代用品でしかないものの側にいたいって言ってくれるなら、約束してほしいの」
そう続けて、まりあは口を閉ざす。
――自分は、アレスに離れてほしいのだろうか。
ただ相手に選択を強要しているだけではないのか。
自分は選ばず、逃げているだけではないのか。
アレス以上に酷いことをしているのかもしれない。
許せないものを前にしても手を出すな、そうでなければ一緒にはいられないと脅し――その一方で、自分はこれからもアレスを苦しませるようなことをすると言っているのだから。
冷たい風が無辺の大地に吹いてゆく。
沈黙の果てに、青年の低くかすれた声がこぼれた。
「あなたの側にいられなければ、何の意味もない。あなたに拒まれたら、私の存在する意味がない」
まりあは体を強ばらせた。
顔を上げられなかった。アレスを見られなかった。
痛みを伴って振り絞られた言葉は、胸の奥深くに飛び込んできて心臓を貫く。
視線を感じた。
それが頭上に降りかかって、息が詰まった。
――アレスの苦悩を痛いほど感じる。そしてそれ以上の渇望と懇願を。
まりあは束の間、目眩のするような優越、足元がふわつく陶酔感に襲われた。
(ち、がう……)
アレスのこの目も声も、すべては女神ヘルディンに向けられたものだ。
甘い酔いはすぐに引き、その分だけ痛みとなって胸に刺さる。
ここにいる自分は、ヘルディンに向けられたアレスのすべてを、ただ見聞きしているだけの媒体にすぎない。
これは決して、昏木まりあに向けられたものではないのだ。
だから、アレスに答えられない。
口を閉ざしたまま、耐えるしかなかった。
アレスもそれ以上言わなかった。
生き物の少ない地に吹く風の音の他には、時折静かな呼吸が聞こえるばかりだった。
まりあの耳に、何度か息を止めて、押し殺す音が聞こえる。
あるいは何かを言おうとして飲み込む、かすかな吐息。
わずかな衣擦れの音。
深い苦悩の音だった。
そのままで、ずいぶん長い時間が過ぎたような気がした。
原初の夜と異形の骸に囲まれ、沈黙に取り残される。
戻ることも進むこともできぬまま、そこに留まっている。
無限のように思えた時間が過ぎて、低く抑えた声が言った。
「わかり、ました。それがあなたの、望みなら」
まりあは弾かれたように顔を上げた。
目が合う。
紅蓮の双眸に飲まれて、声を失った。
「約束します。たとえいかなる状況であっても……あなたの身を奪って戦闘を行うことはしません」
待ち望んだ答えがもたらされる。
まりあはすぐには反応できなかった。
狂おしいまでの餓えと切望で揺らぐ目に、怒りと悲しみを秘めた眉に、限界まで自制をはたらかせる唇に、その姿に、圧倒された。
まりあを見つめたまま、アレスは続けた。
「それで――あなたの側に、いられるのなら」
責めるのでも詰るのでもなく、くぐもる吐息と共に言った。
まりあは目眩を感じた。
何を犠牲にしても自分の側にいることだけは譲らないアレスの、無垢な思慕は眩しかった。
脳を蕩かす毒のようだった。
そしてその分だけ、自分が突きつけたことの苦痛を思い知らされる。
罪悪感が重い衣となって全身にまとわりつく。
だが手を握って耐え、深くうなずく。
「うん……わかった」
アレスは決断してくれた。
なのに、そんな拙い言葉しか出てこなかった。
「……ありがとう」
心の底からの言葉さえどこか白々しく、苦い響きを持って聞こえた。
精一杯、アレスの目を見た。
その表情を、その姿を正面から受け止めようと思った。
だがアレスは口を閉ざして、いかなる非難も怒りも浮かべていなかった。
ただ時が止まったかのように苦悩を覆い隠して、まりあと向き合っていた。
――自分が突きつけたものが、彼の体を縛り付けてしまったように思えた。
まりあは口を開きかけ、閉ざした。
何を言ったところで、すべて薄ら寒く聞こえてしまう。
かつてこんなふうに他人に強く出たことはなかった。
(でも……これでいいんだ)
それは言い訳ではないと思いたかった。
アレスに望む唯一のことは、この体を使ってヘレミアスたちを二度と傷つけないことだった。
たとえそれがアレスに苦痛を強いることになっても――苦痛を強いるからこそ。
まりあは呼吸を整え、慎重に口を開いた。
「あのね。代わりに、っていうんじゃないけど……、アレスも嫌なことがあったら、言葉にして教えてほしいの」
青年の、感情の停止したような顔に向け、言葉を選びながら続けた。
「アレスに全部を我慢してほしいわけじゃない。アレスにとって不満なこと、嫌なことがあったら、できるだけ避けるようにする。信じてもらえないかもしれないけど……」
黒衣の青年は答えず、ただ瞬きもせずまりあを見つめる。
「私……アレスに話を聞くまで、どうしてヘレミアスたちを攻撃したのかわからなかった。アレスに裏切られたみたいに思ってた。でも、あれは……私が、ヘレミアスたちのほうへ行くかもしれないって不安になったからで、何より、アレスにとっては《光の眷属》が憎かったからで、だからああいう行動をとっちゃったんだよね?」
あの光景は思い出さないようにしながら、できる限り穏やかな声で問う。
アレスは答えない。だが否定もしなかった。
ヘレミアスたちへの攻撃は、あまりにも突然のことだった。
アレスはこちらを理解せず、アレスを全く理解できなかった。
――だがそれ以前、戦いたくないと言った時に、アレスは衝撃を受けたような顔や物言いたげな沈黙を見せていた。
まりあはようやく、その反応の意味を理解した。
(私が戦いたくないって言ったことで、
不安になり、焦りも覚えた。
そこにヘレミアスたちとのことがあって、爆発した。
「私は、ヘルディンじゃないから……紛い物だから、アレスの考えていることは言葉にしてくれなきゃわからないよ。それに、私は戦いたくはないけど、アレスが要らないなんて思ってない」
少しでも伝わるように、力をこめて言う。
その言葉がゆっくりと浸透してゆくように、数拍の間があってからアレスは唇を開いた。
「私の望みは、
どこか頑なな態度に、まりあは拒絶されたように感じた。
口を開き掛け、閉ざす。
アレスの態度は当然だった。
いまさら耳触りのいいことを言っても、簡単には信じてもらえないだろう。
だがしばらくして、アレスがぽつりとこぼした。
「ですが……あなたの仰ることに、相違ありません」
少しためらいの滲む声に、まりあははっとした。
勢いよく顔を上げ、アレスを見る。
アレスの瞳に揺らぎが生じ、まりあの言葉を認めていた。
ふいに、アレスは手を持ち上げた。
そのまま近づいてきて、まりあの左胸に触れようとする。
まりあはびくっと肩を揺らし、とっさに後退してしまった。
手を宙に浮かせたまま青年は言った。
「――それに、あなたはあの男の伴侶になってしまわれた」
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