Chap6-4


 巨躯を誇る黒馬に背を預け、レヴィアタンは腕を組んで黙考した。

 まどろみながら、意識の半分は周囲を知覚していた。


 やがて悠然と瞼を持ち上げ、右手を開閉し掌を見つめる。

 彼はいまだ、力のすべてを取り戻してはいなかった。


 角は戻ったが、忌々しい《螺旋牢》で仮死状態にまで追いやられた後遺症は重かった。

 ――この状態で《光の眷属》の軍勢を相手に勝てるかといえば心許ないところだ。

 いまもっとも力の充実している《聖王》を相手にするとなると尚更困難になる。


《聖王》アウグストの姿を思い浮かべ、《夜魔王》は手を握った。


(……この報いは必ず受けさせる)


 彼は静かな怒りを身のうちに燃やした。戦力の回復を急がなければならない。

《闇月の乙女》の成立させた休戦は悪くない時間稼ぎだった。望みうる限り最大のものと言える。


 そして他ならぬ《闇月の乙女》自身にも力を取り戻させることが必要だった。

 剣ごときに翻弄されているのでは話にならない。


 レヴィアタンは色の異なる双眸を黒い廃墟に向けた。

 女神の降臨した至尊の地。

 原初の《永夜界》ではまだ《闇の眷属》がほとんどなく、ヘルディンの周りに侍るものは少なかった。


 ――あの黒剣には、その原初からの記憶が刻まれている。


 黒剣の記憶を元に、ヘルディン降臨の地に至れるのは化身たる《闇月の乙女》だけだった。

《夜魔王》であろうとそこに足を踏み入れることは許されない。


 深い影を落とす廃墟の向こうに何があるのか――。

 レヴィアタンはかすかに眉を寄せた。


 遅い。あの小賢しい黒剣と、己のものである《闇月の乙女》を己の手の届かぬところに置くのが気にくわない。


 だが突然、彼の体は強ばった。

 火花を肌に受けたかのような不快な感覚があった。


 ――気配。《闇の眷属》とは異なる気配だった。《光の眷属》でもない。


 素早く辺りを見回す。目を凝らす。


(なんだ……?)


 気配は突然現れた。

 この尊き《始原の地》に安易に近寄るものがいるとは思えない。


 レヴィアタンは目線を上げる。そして、


 夜の中に揺らめく、もっと暗い巨大な影――。

 三つの頭を持つ大蛇、いくつもの巨大な触手をうごめかせる蛸のような影が揺らぎ、消える。


(まさか――)


 に実在し、光に照らされた影のように、虚像だけがこちらに見えている。


「――戻れ、闇月!!」


 レヴィアタンは胸の刻印に触れた。



        *



 遊具から放り出された子供のようにまりあの体は宙を舞った。

 次の瞬間地面に叩きつけられ、痛みにうめく。

 咳き込んでからなんとか体を起こし、周囲が暗くなっていることに気付いた。

 顔を上げる。


 そして、見た。


(――え?)


 周囲を覆う、の影。

 見上げても尚視界におさまらない――いくつもの触手を持った、大蛸のような怪物。

 触手は一つ一つが独立して動き、奇妙な声をあげていた。


 一つは燃焼音――触手に燃え盛る炎を宿している。

 一つは落雷音――触手に雷をまとわせている。

 一つは金属音――触手に槍や剣、斧といった無数の武具が刺さっている。


 一つは氷を、一つは風の鳴る音を、数多の音が不協和音となって耳をつんざく。

 小さな城ほどもある異形に、まりあの思考は停止した。


「《闇月の乙女》!!」


 アレスの声が響き、左手に冷たさを感じた。

 次の瞬間、手の甲を黒い鎖が這い上がる。

 だが手甲の形をとる黒に、生温かい血の飛沫が重なる。吐き気がこみあげる。


「やめて!!」


 右手で力任せに振り払う。

 手甲は砂を散らすように霧散した。


 次の瞬間、地が揺れ、轟音と熱風がまりあを横殴りにした。


 体の左側で、炎をまとった触手が地を抉っていた。

 その火は空気を汚し、夜を焼く。


 まりあがはっと顔を上げると、今度は氷をまとった触手が振り上げられている。

 自分を狙っている。


 まりあの足は竦んだ。

 こんなものと対峙したことはなかった。

 振り下ろされる巨大な氷を見る。


 この世界のどんなものより悪夢めいている――。


 突然、まりあの視界を闇色の風がよぎった。

 氷の触手は半ばからいきなり消失した。

 巨大なものが地に落ちる音が響く。


「何をしているのですか! 早く私に身を委ねてください!!」


 アレスの緊迫した叫びが耳を穿つ。

 まりあの目の前に、黒い外套が翻った。闇色に輝く長剣を構えた背があった。

 その足元に、断たれた触手の半分が転がっている。


 異形は触手の一つを両断されても悲鳴一つあげず、他の触手を蠢かせた。


「これは《まつろわぬもの》です! 女神の言葉も聞きません!」


 敵を見据えたままアレスが叫ぶ。

 まりあは動けず、半ば麻痺した頭でそれを見ていた。

 体が冷たく、意識が一歩離れたところにあった。


 こんなのは知らない。こんな化け物は知らない。

 鈍くなった頭は何も考えられず、ただ言われた通りにするしかないと思った。

 アレスの言葉通りに、アレスの力で助けてもらうしか――。


 触手を再び切り払いながらアレスが振り向く。

 だが紅い目が大きく見開かれた。


「後ろを!!」


 その叫びがまりあを振り向かせた。再び、大きく濃い影が降った。


 稲妻のような音が轟き、先端が二つに分かれた血色の舌が伸縮する。

 縦に長い亀裂が入った、白い鉱石のような目が六つ――三つの頭を持つ大蛇が首をもたげていた。


 そしてその頭がまりあに向かって


 顔を背けると同時、防衛本能がまりあに手を突き出させていた。

 それはただ、落ちてくるものに反応しただけの無力な動作だった。


 頭上を、暴風が通り過ぎた。

 痛みも衝撃もなく、まりあは目を開ける。


 こちらを飲み込もうとしていた大蛇の頭が二つ消えていた。

 鋭利な断面から赤い血が噴水のごとく迸り、大蛇がのたうつ。


 まりあはアレスに振り向いた。

 黒衣の青年は両手で剣を持ち、振り下ろした姿勢でいた。

 助けてくれた。


 ――だがそれゆえに、アレスは大蛸に完全に背をさらしていた。


「アレス……っ!!」


 巨大な触手は無防備な背に襲いかかり、絡め取る。

 アレスの長身が人形のように持ち上げられる。

 触手はそのまま握りつぶそうとする。


 アレスの顔が歪み、だが次の瞬間黒へ溶けた。

 長大な剣へ変わり、締め付けていた触手を無数の肉片にして脱出する。

 だがたちまち別の触手に捕らえられた。


 更なる触手が次々と絡みつき、柄と刃をそれぞれ掴む。

 触手はそのまま剣を折ろうとするかのように力をこめた。


 黒剣アレスの軋む音が悲鳴のようにまりあの耳に響く。


「やめ――!」


 無力な、かすれた声がこぼれる。

 次の瞬間、巨大なものに横殴りにされてまりあの体は木の葉のごとく吹き飛んだ。


 体の中で、何かが折れるような鈍い音がした。

 浮遊感。

 世界が反転するような感覚――地に叩きつけられる。

 衝撃で息が止まる。


 すぐに痛みがきた。

 耐えきれぬ痛みに、歪んだ目元から涙が出た。

 体を起こすこともできず、顔だけを上げる。


 滲んだ視界に、大蛇が見えた。

 のたうつ長い尾。あの暴れる尾に巻き込まれたのだと理解する。

 体が砕け散らなかったのが不思議なほどだった。


 そして大蛇のが、無力な獲物を見下ろしていた。


 まりあはざあっと血の気がひいていく音を聞いた。


 アレスに斬られた頭は、それぞれ

 いまや十の目が小さな獲物を睥睨していた。


 まりあは立ち上がって逃げようとした。

 だが胸の下に激痛がはしって力を失う。

 嘔吐えづき、痛む箇所を庇うようにしながら、這って後退する。


 目が、無意識にアレスを探す。

 この恐怖から自分を救ってくれるもの、この恐怖を取り除いてくれるもの――。


 だが黒剣アレスは大蛸に捕らわれていた。

 彼を折ろうとする力に抗っていた。

 その輪郭が揺らぎ、人の姿と剣の姿の間で不安定に揺れ動いている。


 鋭く耳障りな音が、まりあの意識を引き戻した。

 五つの大きく裂けた口から、長い牙と忙しなく伸縮する二叉の舌が見える。


 まりあの体は震えた。

 間近に迫る死が、絶望的な無力感が猛毒となって全身から力を奪った。

 血に、内臓にまでも染みこんでくる。


 意識がふいに遠のく。

 このまま気を失って、目の前のすべてから逃げてしまいたかった。


『お前が《闇月の乙女》であろうと、力がなければ我らはお前を認めない』

『あのなまくらが暴走したというのもお前が不甲斐ないからだ。お前の力に不安や不満があるから自分で動いたのだ』


 ラヴェンデルの言葉が、朦朧とする意識の中で蘇る。


『お前はあの道具に自らの力を示せなかった。認められず、従えることができなかった』


《夜魔王》の声。

 自分の無力さを、こんな形で突きつけられる。


 アレスを拒んでおきながら、アレスに助けを求めている。

 彼の危機に、なお彼に助けを求めている。


 その事実が、体中の痛みよりもなお重く沈んだ。


(馬鹿、みたい……)


 自分は何もできずアレスに助けを求め、なのに言うことを聞いてくれとはなんと滑稽なのだろう。


(力――)


 痛みをやりすごそうと息を止め、だが乱れた。

 汗が、こめかみから顎へと伝っていく。

 腹を手で庇いながら、まりあは体を持ち上げる。

 鈍い動きで、大きくふらつきながら立ち上がる。


 痛みが激しくなって、意識が途絶えそうになった。

 だが同時にその痛みが、意識を手放すことを許さない。

 揺れる視界と緩慢な思考の中、いくつもの声が浮かんでは交錯する。


『いいか、《闇月の乙女》はヘルディンの純なる破壊の力を継承する唯一の器だ』

『その破壊の力をどう引き出すかはお前次第だ。力は既に与えられている。お前はそれを腐らせることなく使わなければならない』


 ラヴェンデルの言葉。教え。

 まりあの目は大蛇を見上げる。

 捉える。


 視界を覆う巨大な影。その巨体。

 言葉もなくただこちらを襲うもの。

 恐怖が限界を超え、頭が麻痺してしまったようだった。


 何もかもが一瞬遠のき、ふいに体が軽くなった。




 ――ああ邪魔だな、と思った。




 視界が塞がれているせいでアレスが見えない。アレスのところへ行けない。


 まりあはゆっくりと左手を突き出した。

 防衛のための反射ではなく、命乞いでもない。


(《闇月の乙女》に、ヘルディンの力があるっていうのなら……)


 それがいま必要だった。《闇月の乙女》などというたいそうな設定にふさわしい力が。

 立ちふさがるものを打ち砕き、自分の望むままにできるだけの力が。


 この体の無力感への怒り、苛立ちが火のように体を巡った。

 突き出した手に自然と力がこもり、大蛇を睨む目を歪めた。

 


(私が……《闇月の乙女》だっていうのなら!!)


 ――その力が、ふさわしい力が欲しい。


 突き出した腕に激情が集まってゆく。

 そして、うっすらと光りはじめた。

 輪郭が銀色に輝いている。《月精》と呼ばれていた淡い光が収束していく。


 瞼の裏に、突然蘇るものがあった。

 巨大で完全な、銀色の満ちた月。

 この《始原の地》で見たもので、だがもっと近く、もっとそれを識っているような気がした。


 体の内側に、その美しい月の冷たさを、青白く冴えた光の強さを鮮やかに感じた。

 とたん、熱く冷たい、透徹とした何かが体を這い上がる。

 その何かが、まりあの声帯を震わせた。




「《月よ、応えよ。この手は銀の刃――尽く、刻め》」




 次の瞬間、腕にまとわりつく光が強い輝きを帯びた。

 輝きはたちまち掌で凝縮される。

 そして、まりあの掌から銀色の光線が無数に飛び出した。


 それは巨大な風を伴い、夜を裂く青白い流星となって縦横無尽に大蛇に襲いかかる。

 銀の光刃はたちまち大蛇を切り刻んだ。

 長大な体は千々に裂け、その頭部はかろうじて光刃を避けた二つを残して根元から断たれる。


 鋭利な銀光の輝きは、まりあの奥底で抑圧されていた何かさえ切り刻み、高揚が噴き出す。


 だが断たれた頭部の断面が赤く煮立つと、蛇は頭を再生――させようとする。

 まりあはわきあがってくるものの命ずるまま、左手に交差させ、右手を突き出した。


「《刻め!》」


 その命に応じて右手も月精の輝きを集め、大蛇に再び青白い光の刃を浴びせる。

 数多の刃は大蛇の頭部のことごとくを切り刻み、その身の上で執拗に乱舞し、吹雪のように輝く。

 青白い光の吹雪の中で血の赤をまき散らしながら、大蛇は瞬く間に削れていった。


 やがて無数の肉片となって落ちる。

 肉片はいまだ生にしがみつこうとするかのように大地の上で痙攣していたが、間もなく沈黙した。


 塞ぐものがなくなったまりあの視界に、まばらな触手を振りかざす大蛸の姿が見えた。

 アレスにいくつも切り落とされながら、なお残った触手で黒剣に絡みつき、砕こうとしている。


 まりあは両手を大蛸に向けた。

 体も頭もひどく熱くて高揚しているのに、その奥はかつてないほど澄んだ冷たさを感じていた。

 怒りや苛立ち、激しい感情ののすべてを方向付ける力がはたらいている。


 両手から、再び仄青い流星の群れが飛び出した。

 光は無数の牙剥く獣のごとく大蛸の異形に襲いかかる。


 氷や炎、武具をまとった歪な触手さえ一瞬で根元から断ち、異様な弾力と柔軟性に守られた胴体に無数の裂傷を負わせる。


 ちぎられた触手ごと黒剣が地に落ち、触手を微塵にして即座に抜け出すのが見えた。

 剣の姿が溶け、青年の姿へ変わる。

 紅い目がまりあを探し、呼ぶ。


 まりあは再び《力》を放った。

 凍えるほど澄んだ輝きが、満身創痍の異形を冷徹に追撃する。


 大蛸は緑の液体を噴き出しながら数多の肉片へと姿を変え、地にまき散らされた。


 まりあは無感動にそれを見つめた。

 すべての敵が完全に沈黙したと理解し、ようやく――引いた波が戻ってくるように、急激な疲労と痛みを感じた。

 堪えきれずに膝を折る。


「我が女神!!」

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