Chap6-3


 まりあはレヴィアタンと共にパラディスを発った。

《始原の地》へは《闇月の乙女》と《夜魔王》しか行けず、その中心へは女神ヘルディンの化身たる《闇月の乙女》とその武具しか到達できないとのことだった。


 レヴィアタンの馬に乗り、前に抱えられながら、まりあは左手に目を向けないようにした。

 そこにはアレスが姿を変えた黒の手甲がある。


 それを見るとヘレミアスの、ヴァレンティアの傷ついた姿が、飛び散る鮮血が蘇って吐き気がした。


 かの地へ行くと伝えても、アレスは疑う様子もなかった。ただ少し驚いただけだった。

 ――アレスの人格を消すかどうかという問題に関わる地へ行くのに、当のアレス本人の力を借りなければならないというのはずいぶん悪趣味に思えた。




 ひときわ屈強な王の黒馬は休みなく夜の空を駆け、王とその伴侶を遠くへ運んだ。

 途中、雲のようなものを抜けた。

 まりあははっとして意識を周囲の景色に戻した。


 背の高い山が黒い影のようにそびえ、輪郭はうっすらと青い。

 青い光を受けた背の短い草がそよぎ、青い水をたたえた湖が見えた。湖の側に、黒い瓦礫のようなものが積み重なっている。

 よく見れば朽ちた柱のようなものがいくつかあった。神殿、あるいは城跡のようだ。

 その城跡を囲むように、くすんだ巨大な魔法陣が描かれている。


 やがて馬が速度を落としていくと、レヴィアタンが軽く手綱をひいた。

 馬は降下してゆき、その城跡に降り立った。

 レヴィアタンが先に馬から下り、まりあを軽々と抱え下ろす。


「ここから先はあの道具を使え。俺はここで待っていてやる」

「……わかりました」


 まりあはうなずき、冷たく感じる左手を持ちあげる。

 命じるまでもなく手甲が解けた。

 黒い霧となって青年の姿を象る。


 死の麗しい擬人化のごとき青年は、血の色にも似た目をまりあに向けた。

 ――その目はいつもまりあを最初に探し、捉えようとする。それがまりあを息苦しくさせる。


 だが突然、まりあは背後から抱きすくめられた。

 アレスの顔が豹変する。


「っ!? 何す……」

「その道具に言っておく。俺の妃に見せるものを見せた後はすぐに帰せ」


 アレスを見て挑発するようにレヴィアタンは言った。

 自分よりもずっと大きく逞しい体に突然抱きすくめられ、まりあは動揺した。

 広い胸を両手で押し返そうとしたとたん、耳元でささやかれる。


「躊躇うな。迅速に決断し、俺のもとへ戻ってこい」


 ――決断、という言葉にこめられたものにまりあはびくりと震えた。


「私の月に、触れるな……っ!!」


 アレスの激しい声が、再びまりあの意識を奪う。

 顔だけで振り向くと、アレスの手に長大な漆黒の剣があった。


 まりあはぎくりとした。

 だが剣は地面に深く突き刺さる。


 とたん、そこから闇が広がった。

 大地の傷から血が広がるに似て、瞬く間に地面を、風景を、空を侵食してゆく。


 体に触れていたものが消え、まりあは振り向く。

 もはや《夜魔王》の姿はなかった。


 顔をアレスに戻すと、景色が一変していた。


 城跡らしき痕跡や瓦礫は消失し、足元に生い茂っていた短い草も消えている。

 青い湖も見えない。大きな黒い山だけは残っている。

 遮るものはなく、ただただ、荒涼とした夜の原野が広がっている。


 その中でアレスは静かに佇んでいた。

 だが青年の輪郭がほの白く輝いているのを見て、まりあは反射的に頭上を見た。

 そして感嘆の声をあげた。


 ――月。


 青白く輝く巨大な満月が、暗黒の中に浮かんでいた。

 静謐に地のすべてを照らし、静かな威厳を発している。

 星々を装飾にし、闇を従える銀色の光――。


 まりあは半ば陶然としてそれに見入っていたが、やがて突然気付いた。

 いまの《永夜界》に月はない。ゲーム中、このルートで確かに見たのに。


 地上に目を戻して見渡す。


(これが《始原の地》? 女神ヘルディンがアレスをつくったところ……?)


 この、自分とアレス以外に月しか見守るもののない大地がそうなのだろうか。


 空気は澄んで、艶めかしいほど美しい月はこれ以上なくよく見える。

 だが生き物の気配はなく、世界のすべてがここで完結してしまっているかのような場所だった。


「覚えておられますか」


 冷たく透き通った空気の中に優しい声が響き、まりあは目を向けた。

 アレスは微笑していた。


がはじめてこの世界に降り立った場所です。ここであなたは私を作った」


 まりあは一瞬混乱した。

 あまりにも真っ直ぐに見つめられて呼びかけられたから、のことかと勘違いした。

 だが闇の女神ヘルディンが降り立った場所ということだ。


 改めて辺りの風景を眺め、まりあは肌に無機質な冷たさを感じた。

 この荒々しくも静謐で、何もないがゆえに何でも生まれることのできる広大な風景はあまりにも――。


(寂しい……)


 女神はここに降り立ち、アレスをつくった。

 つまり、ヘルディンはたった一人でここに降り立ったのだ。

 それは、あまりにも孤独であるように思えた。


 ひどく孤独だったから、アレスをつくり意思を持たせた――そんな考えが頭に浮かび、離れなくなった。


 まりあはアレスを見る。

 黒衣の青年はまりあだけを見つめ、どこか嬉しそうな表情をしていた。

 その顔に浮かぶ淡い笑みが、眼差しがまりあの心を揺さぶる。


 ――ここに来たのが何のためなのか、アレスは知らない。

 彼の意思を消すか消さないかと迷い、決断するためにここに来たのだとは思いもしないだろう。


 まりあはアレスの視線から逃れるように足元に目を落とした。

 ――アレスは、決して悪人ではない。

 無差別に誰かを傷つけて喜ぶような性質ではないはずだ。


 だが、まりあの身を操ってヘレミアスたちを傷つけたのは彼だった。

 一切の躊躇なく、無抵抗の相手に切りかかった。そして悔いも見せない。


 なのに、まりあに対する悪意や敵意からそうしたのではなかった。

 それが怖かった。

 まりあは重い口を開いた。


「……アレスさん。私が嫌だって言ったことは絶対しないって、約束してくれませんか」


 黒衣の青年はゆったりと瞬いた。


「無論、あなたの命には従います」

「――それが《光の眷属》たちと戦わないでってことでも?」


 まりあは一気に踏み込む。

 アレスが紅い目を見開く。

 直後、その両眼がかすかに細まり、眉が険しい形をなした。

 怒り――だが引き結ばれた唇には苦痛が滲んでいるようだった。


「あなたは……わたしの存在意義をなくしてしまおうと仰るのですか?」


 うめくように、アレスは言った。


「戦わないということは、私を不要だと……そう仰っているのですか」


 その言葉に、まりあは胸を衝かれた。

 頭の隅に火花が散った。

 ――数日前、戦いたくないと言ったときにアレスは呆然としていた。

 あのとき、彼はこんなふうに思っていたのだろうか。


「そうじゃないんです。アレスさんは戦わなくてもいいんです。そこにいてくれるだけで……」

「いいえ。私は剣です。戦うために、あなたに勝利をもたらすために作られたのです。私を振るわないというなら、《光の眷属》が襲ってきた際にどうするのですか? 誰があなたを護るのですか?」


 アレスの声に頑なさが滲み、整った顔が強ばったように見えた。


「だから……っ戦わなくてもいいんです!! 向こうが襲ってこないようにするし、万一襲ってきたとしても私の意思を無視するような真似はしないで!! あんな形で護ってほしくなんかない!」


 もどかしさにまりあは苛立った。一瞬何かをつかみかけたのに、遠ざかる。


 アレスは少し目を見開いただけで、不快感や怒りを表すでもなかった。

 そして、静かに言った。


「ですが、いまのが、私なくして狂信者どもを退けられるとは思えません」


 まりあは愕然とした。いきなり頭から冷水を浴びせかけられたかのようだった。


 ラヴェンデルの言葉が蘇る。

 ――


 紅い目が、闇の中の炎に似て激しさを増す。


「――私は二度とあなたを失わないと誓ったのです。《光の眷属》を決して許しはしない。そのためなら……」


 まりあは弾かれたように意識を戻した。


「どういうこと? なんでそこまで……《光の眷属》たちを憎むの? 何が、あったの?」


 まりあは踏み込んだ。

 ――かつて同じことを聞いて、避けた話題だった。だがもうためらう必要はない。


 涼やかな目元が引きつり、痛みを堪えるかのように歪んだ。

 アレスが唇を開く。


「覚えて、おられませんか。あなたが――かつて真の女神あなたであったとき……、《光の眷属》どもが、を殺したのです」


 抑えられた声は、だがかすかに震えていた。

 言葉にすることさえおそれているかのようだった。


 まりあは目元を歪めた。

 違和感。

 アレスはこちらを真っ直ぐに見てと言っている。


 なのに、何かが違った。


「長い戦いの末のことでした。蛮族どもは斬っても斬ってもあなたを狙い、群がった……。私はあなたを護りぬくことができませんでした。あのとき、私も共に朽ちるべきでした。ですがかなわなかった。いまなら再びあなたにまみえるためだったのだとわかります」


 赤い目に強い意思が輝く。

 それはまりあに――まりあ一人だけにまっすぐに向けられていた。


「今度こそあなたを護ります。そのためならいかなる手段もとります。もう二度と失わない……傷つけさせない」


 激しさの秘められた声が、荒涼たる夜に谺した。

 それだけを聞いていれば、まりあは陶然として愉悦に浸っていられた。


 だが、


 アレスの目も声も体もすべてこちらに向けられている。

 しかし同時にそれはに向けられたものではなかった。


 まりあはひどく混乱した。

 ――理由なき憎悪ではなく、彼にとってこれは純然たる復讐、報復なのだ。

 それは理解できた。それだけは。


 まりあは自分を奮い立たせる。

 理解できたことを足がかりにその先へ踏み込まねばならなかった。


「でも……、アウグストやヘレミアスたちがそうしたわけじゃないでしょう?」


 黒の青年が、驚愕を露わにした。

 いま聞いた言葉が信じられないという顔だった。


 息苦しい沈黙の後、アレスははじめてまりあに対して声を荒らげた。


「光の凶徒どもが、狂母の悪意がを殺したのです!! 奴らはみな同罪だ! あなたを弑した罪は変わらない!!」


 アレスの両手が、ふいに伸びて、まりあの頬を包んだ。

 まりあは肩を揺らした。体が硬直する。

 ――こぼれ落ちるのをおそれているかのような、臆病でがむしゃらな手だった。


「私は覚えています……。この手の中であなたが冷たくなって混沌に奪われていったときのことを……!!」


 うめく声はかすれ、いまもなお生々しい苦痛に苛まれているようだった。

 ――まるで近しい過去を語っているかのような声だった。


「許さない……決して、奴らを一人も許してなるものか……っ!!」


 血を吐くように、叫ぶ。

 まりあははじめて触れたアレスの激しさに飲まれ、言葉を失った。


 どんなに想像しても、まりあには、アレスの痛みはわからない。

 とても大切な人を失ったのだろう、と同情するのが精一杯だった。

『太陽と月の乙女』の世界ゲームのできごとで、それも神話の時代のことなら尚更だった。


 だが、だからといって無関心でいることも、復讐はよくないと耳触りのいい言葉を並べるだけの無邪気さも信念も持ち合わせていなかった。

 こんな自分では、どんな慰めの言葉も白々しく陳腐だ。


 だからただ、事実を言うことしかできなかった。

 失うことをおそれ、狂おしく求め、苦しくなるほど一途な目を見つめて、言った。


「アレス、私は……女神ヘルディンじゃないよ」


 紅い両眼が大きく揺れた。

 食い入るようにまりあを見つめ――ひどく困惑した顔になった。


「何を仰っているのです?」


 そう返してきた声はあまりに純粋だった。

 否定でも疑いでもなく、本当に理解できていない者の声だった。


 まりあは言葉を失う。


 ――《闇月の乙女》と、闇の女神ヘルディンは違う存在。


 生まれ変わり、化身、女神の器などと様々な表現を用いても、結局はなのだ。

 そんなことは、説明しなくても誰もが理解しているはずだった。


「私と、ヘルディンは違う存在でしょ? 私は人間だし、顔も体も声も性格も考え方も――」

「いいえ! たとえ装いが異なっても、あなたは私の主、私の女神です!! 何も違わない……!!」


 アレスは強く否定し、その双眸を真っ直ぐにまりあに向けた。


「何も……、変わりません。あなたはもう一度私の前に現れてくださった……私の女神、私の月――」


 声に激しい熱情が溢れる。

 まりあの頬に触れる手は恭しく、だが寸前で自分を抑制しているようなぎこちなさがあった。


 その言葉に、眼差しにまりあは呆然とする。

 ――こんなにもまっすぐにアレスは自分を見つめている。

 現実から意図的に逃げようとしている者の目ではない。


 なのに、自分が見ているものと、アレスに見えているものとは決定的に異なっている。


 ただ、

《闇月の乙女》とヘルディンとが違う存在であるということを理解できていない。


 目の前の、のだ。


 まりあの全身から急激に熱がさめてゆき、ああやっぱり、と声がした。


『あなたは美しい。何よりも。私がこの世界に生まれ、あなたを一目見た時からその想いは変わりません』


 ――はじめて会ったときから、アレスはそんな言葉を口にした。

 一目惚れか、などと浮ついた。


『無事を問うのは私のほうです。私の女神……お体に痛みは?』


 そう言って抱きすくめられた。

 最初から優しすぎるくらいに優しくて、ずっと側で護ってくれて、心配してくれた。

 レヴィアタンやラヴェンデルたちと違って自分を最優先にしてくれた。


 なんでこんな自分に、と思った。

《闇月の乙女》だからなのかと勝手に納得した。


『剣である私を、あなたは護りたいという。傷つけたくないという……そんなふうに、思ってくださるのですね』


 無垢な、嬉しそうな顔。

 真っ直ぐにこちらを見る目――と思った目。


、私は全てを捧げるのです』


 自分に向けられた言葉だと思った。

 とは、昏木まりあである自分を指すものだと。


 だから――信じようと思った。自分を想ってくれる、彼の気持ちを。


 だが違った。

 視界が揺れ、横から殴られたみたいに頬が熱くなる。

 彼の目に、昏木まりあなどはじめからいなかったのだ。


 彼はずっと言っていたではないか。と。


(ヘルディンの……)




 ――女神ヘルディンそのものとして見られていただけだったのに。




 まりあはアレスの手を振り払った。

 よろめいて後退し、震える手を握りしめる。


「私は、ヘルディンじゃない! 闇の女神じゃない……!! 《闇月の乙女》なんかでもない!!」


 見開かれた紅い目に向かって、叫んだ。


「何を……」

「違う人間なの! 同じじゃない! ヘルディンはもういないんでしょう!?」


 ――ヘルディンは死んだのだ。

 殺されたのだと、他ならぬアレスがそう言ったのに。


 アレスは呆然としていた。

 途方に暮れる子供のような顔だった。

 だが次の瞬間、ひどい苦痛を覚えたかのように歪んだ。


「なぜ……そんなことを、仰るのですか? あなたを護れなかった私を、罰するおつもりなら……」


 低い声でうめく。

 怒りさえもそこになかった。

 理解できずに苦しみ、それでも目を逸らさず、ただ渇望している。


 ――そしてそのすべては、まりあに向けられたものではなかった。


 彼の中で、に向けられた言葉だった。

 そこにはまりあも、《闇月の乙女》もいない。


 まりあは目の奥に痛みを感じた。

 喉が詰まる。とっさに息を止め、うつむいた。


(なんでこんな……!)


 わけがわからなかった。

 アレスと過ごした時間すべてを突然ひっくり返されたような気がした。


 頭のどこかではおかしいと思っていた。

 何の理由もなく、こんなに美しく強い青年の主になれるはずがなく、ただの設定にすぎない、勘違いしてはいけないと思っていた。


 ――そう、思っていたはずだったのに。


「私はどうしたらいいですか? どうすれば……あなたに償うことができますか」


 アレスが苦しげに言う。

 そこには偽りも誤魔化しもない。誠実ですらある。


 まりあは答えられなかった。

 そんなこと知らない――償ってほしいだなんて思ってもいない。


「あなたの望むままにします。私の女神……」


 アレスは真摯で、その無垢な一途さのすべてがまりあを傷つけた。


 まりあは何度も震える息を飲み込み、唇を引き結んでこみあげてくるものを堪えた。


(馬鹿みたい……)


 ――何を勘違いしていたのだろう。

 自分の愚かさと滑稽さに、消えてしまいたかった。


 息が引きつり、左胸の奥を強く押されているような痛みがある。


 だが滲んだ視界に、銀色の光が瞬いた。

 左奥の、衣の奥からこぼれている。強く押されているように感じる場所。

 ――刻印が光っている。


 まりあは目を瞠った。

 呼ばれている。同じ刻印を持つもう一人に。


 だがそれ以上の思考を、背の凍るような獣の叫びにかき消された。


 そして、衝撃。


「《闇月の乙女》!!」

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