Chap5-7


 喉から悲鳴が迸った。


 胸が、胴が冷たくなった。

 瞬く間に黒い鎧が体を侵食する。

 膝から爪先を覆い、足を奪う。


「ち、ちが……っなんで!!」


 手は平然と黒剣を握りしめ、足は冷徹に地を踏んでいる。


 突然、まりあの視界は暗くなった。

 冷たい手で目隠しをされたように視界が夜の靄に染まる。

 頭にまで覆われる感触があった。

 拒絶的で硬質な重みのあるもの――兜。滴形の飾りが、鈴のような音をたてた。


 暗くなった視界に、胸を押さえたヘレミアスがよろめくのが見えた。

 ヴァレンティアに支えられる。

 押さえた手が瞬く間に赤く濡れていく。

 ヘレミアス自身が、信じられないという顔をしていた。


 ヴァレンティアは他の護衛にヘレミアスを預け、庇うようにまりあの前に立ちふさがった。


「卑怯な……っ!! 薄汚い穢れの女が!!」


 憤怒と憎悪に満ちた声がまりあの胸を穿つ。

 敵意に燃えるエメラルドの瞳は、薄闇の覆いを通してもなお鮮烈だった。


 次の瞬間、背中で異形の咆吼があがってまりあを震わせた。

 控えていた《闇の眷属》たちが飛び出し、ヴァレンティアたちに襲いかかる。


「――っだめ!! 止まって!!」


 声を振り絞る。

 だが咆吼にかき消された。

 ヘレミアスの護衛たちが応戦する。


 瞬く間に乱戦になった。


 制止の悲鳴をあげながら、兜と鎧に覆われた《闇月の乙女》の体は流れるように再び剣を構える。


「いや……やだ、やだ違う! やだ!!」


 まりあはがむしゃらに叫んだ。

 手に力をこめて剣を下げようとする。

 だが手は動かない。


 持ち上げさせられる。退こうとした足を開かされる。

 胸を、腰を奪われる。

 剣を振るうために動く。


「や、いや――!!」


 まりあの腕は、再び黒剣を振るった。

 長大な刃は風を伴って先頭のヴァレンティアに襲いかかる。


 爆ぜる衝突音と金属音の合唱が轟き、ヴァレンティアの剣と噛み合った。


 薄暗い視界の中、ヴァレンティアが両手で剣の柄を握り、顔を歪めながら黒剣を受け止めている。


 翡翠の目の騎士は即座に弾き、まりあに向かって踏み込む。


 冷たい足甲に覆われた足は主の意思に反して素早く背後へ跳躍する。

 即座に下から切り上げて襲い来る剣を、黒剣が受け止める。


 兜の飾りが、耳元で場違いなほど涼やかな音をたてた。


 まりあの腕は剣を握ったまま、ヴァレンティアと鍔迫り合いをする。


「なんで、なんで……やだ! やめてアレス!!」


 見えているのに、声が出るのに、体が動かない。

 ――操られる。


 黒い腕は剣に力をこめ、ヴァレンティアを弾く。

 足が透かさず踏み込み、腕を振り抜く。

 翡翠の目の騎士は即座に反応する。


 だが漆黒の刃は紅の稲妻をまとい、衝突と同時に雷鳴を発した。

 爆発の蒸気が一瞬何もかもを包む。

 まりあの手に衝撃があった。


 ――ヴァレンティアを捉えたというおぞましい手応えだけが。


 蒸気が薄れてゆく。

 ヴァレンティアの姿が見える。そこに立っている。

 しかしその体は満身創痍だった。


 金色の髪は黒いまだらの汚れに乱され、額や頬や顎に数多の切り傷が、腕や肩は衣が裂けて傷口が赤く毛羽立っている。

 かろうじて刃を受け止めた剣は刀身に無数の亀裂が入っていた。


 次の瞬間、騎士の剣は脆いガラスのように砕けていった。

 その燃えるような緑の目だけが戦意を失わず、砕けた剣を捨ててまりあの手首をつかんだ。


 まりあの足が、動いた。


 引きつった声が喉からあがる。

 手首をつかまれたまま、目の前の騎士を切り払おうとする。


「いや!! やだ!! アレス……っやだ!!」


 腕に力をこめ、全体重を踵にかけて退こうとする。

 なのに腕は縛り付けられたように動かず、足は強い力に支えられて倒れることを許さない。


「逃げてヴァレンティア! 逃げ――!!」


 絶叫しながら、まりあの腕は剣を振り抜いた。

 かすかに鈍い衝撃――


 真紅が弾けた。


 翡翠の騎士がよろめき、片膝をつく。

 腹を押さえる手が瞬く間に赤く濡れた。

 その体に腹部の左側から右肩にかけて大きな裂傷があった。


 まりあの視界が揺れた。

 鎧の下で体が冷たくなる。

 なのに足は冷徹に地を踏みしめている。


 かすかな鈴のような音にまじり、かちかちと耳障りな音がした。

 自分の歯の鳴る音だった。


 血塗れの騎士と神官の向こうに、大きな光が弾けた。

 色が不定形に揺らめく空間に、白い大穴が空く。


《闇の眷属》たちがわずかに怯む。


「ヴァレン、もういい退け……っ!」


 体を支えられ、騎士とともに大穴に吸い寄せられながらヘレミアスが叫んだ。


 曇り、歪んだ視界でまりあはヘレミアスを見る。

 蒼白な顔の神官もまた、まりあを見る。

 だがまりあはヘレミアスの表情をまともに認識できなかった。


 やがてヘレミアスの姿が消え、騎士たちもほとんどが穴の向こうに姿を消した。


 ヴァレンティアはわずかによろめきながら立ち上がる。数歩後退する。

 まりあの腕は再び剣を持ち上げ、構える。

 ――ヴァレンティアに追撃しようとする。


「い、や……」


 兜に覆われた頭を振る。

 無力な子供のようにただただひきつれた声を絞り出す。


 憤りに燃える目が、まりあを射た。




「――卑怯者め」




 凍えるような低い声が、まりあの内臓を痙攣させた。


 ヴァレンティアは後退し、光の向こうへ吸い込まれていった。

 最後の一人が消えた直後、穴は閉じる。


 もはや《光の眷属》は一人も残っていない。


 相手を失い、剣を構えていた腕はゆっくりと下りる。


『戻れ』


 まりあの内側にレヴィアタンの声が響いた。

 次の瞬間、鋭い風が背後に起こる。


 曖昧な光の空間に、突如として闇が口を開く。

 まりあはそれに吸いよせられ、飲み込まれた。

《闇の眷属》たちが続く。


《世界の狭間》から落ちて、遠のいてゆく――。


 引きずられる感覚が突如として止むと、まりあの足は再び地を踏んだ。

 視界に映るのは蒼い闇だった。

 薄幕をかけられたような視界で、いっそう沈んで見える。


 パラディスの屋上――目の前に、長身の《夜魔王》の姿があった。

 蒼と紫の目はまりあを数秒凝視したあと、ふいに蕩けるような優しい微笑を浮かべた。


「どうした。ひどく顔をしているが」


 まりあは大きく肩を揺らした。

 手が、足が、体がとたんに震え出す。

 ――体の自由が戻っている。


「――っ!!」


 悲鳴まじりの息を喉に詰まらせ、手に持たされていた剣を投げ捨てた。

 兜をむしりとり、うち捨て籠手を剥がそうとする。

 体に張り付く鎧のすべてが忌々しく、おぞましかった。


 締め付けるほどにまとわりついていたそれらが、突然黒い液体状に溶けた。

 胴や足を覆っていた鎧も、投げ捨てた兜や剣も、すべて液体となって一つに溶け合う。


 闇色の液体は長身の青年の姿をとった。

 そして、赤い目がまりあを見つめた。


 その顔を見たとたん、まりあの全身の血が沸騰した。


「なんで!! どうして!!」


 信じがたい裏切りと激しい怒りで視界が揺れる。

 ヘレミアスの無防備に驚いた顔とヴァレンティアの憎悪の目――息ができなくなる。


「どうしてあんな……っ」


 叩きつけるように叫んだ声が、脆くねじれる。

 目に映るアレスの像が滲む。歯を食いしばって堪えても、目も鼻も喉も焼かれているように痛かった。


「――あれらは、あなたを奪おうとした」


 凍えた無感動な声が言う。

 まりあは滲む目を見開いた。


 アレスの目は、夕から夜へと変わりゆくときの、燃えるような陽の色をしていた。

 だがその色に反して、両の瞳には一切の躊躇なく、悔恨なく、恐れさえもなかった。


「あなたに、わたしを捨てさせようとした」


 純粋ささえ感じる凝った怒り――憎悪の声。

 まりあの体から何かがこぼれていった。

 体が冷たくなり、足がふらつく。


 ――そんなことで。


 違う、と思った。アレスを捨てようとしたわけじゃない。

 そんなつもりはなかった。だから、ヘレミアスの提案さえ断った。

 ――裏切れないと、思ったから。


 なのに、なぜ。

 すべてがまりあから遠のいていった。

 アレスを理解できない。理解したいとも思わない。


 青年の姿をした剣はまりあの身の自由を奪い、武器はおろか身を守る防具ひとつなかったヘレミアスをいきなり斬りつけた。


 ヘレミアスを、ヴァレンティアを、他ならぬこの体を使って傷つけさせた。


「――っ最低!!」


 アレスを睨み、まりあは叫んだ。

 この男を、自分の体を使ってあんなことをした男を打ちのめしてやりたかった。


「アレスなんか要らない!!」


 身を焼く激情を吐き捨て、走った。

 パラディスの中へ逃げ込む。


 だが再び左手に冷たさを感じた。

 淡い紅の闇がまとわりつこうとしている。

 この期に及んで尚、自分につきまとおうとしている――。


「触らないで!! ついてこないで!!」


 そう叫び、右手で強く振り払う。

 紅い闇はほどけて空中に消えた。

 こみあげてくるものをかみ殺して、まりあはただ走った。


 自室に飛び込み、音をたてて扉を閉める。

 だが視界に光るものがあってびくっと顔を向けた。


 鏡台だった。

 暗い鏡の中に、怯えた自分の顔が映っている。

 仄青い顔の中、赤い点が散っていた。


 白く見える肌の中、奇妙なほど鮮やかな赤だった。


 手を持ち上げ、指で触れる。

 ぬるりとした感触。

 やがて、それが降りかかったときの生温かい感触を思い出した。


 ――ヘレミアスの血。


「……!!」


 雷に打たれたようにまりあの身は痙攣し、足は戦いて後退し、もつれて崩れ落ちる。

 座り込んだまま、手で頬をこすった。

 だが手も頬も赤くかすれて広がる。


 まりあの喉は引きつった。

 やがて腹の底からこみあげたもので、嗚咽がもれた。

 目の奥が焼け付くように痛み、熱をもったものが目の縁から溢れ出す。


(どうしよう……どうしようどうしよう……!!)


 血の気を失ったヘレミアスの顔。

 騎士に支えられていた体。

 胸に負った傷は大きく、悪夢のように血が噴き出していた。


 体の震えが止まらなかった。

 もし――もし、あの後ヘレミアスが死んでしまったら。


 まりあは悲鳴ともうめきともつかぬくぐもった声をもらした。

 自分を抱きしめるようにしたまま、床に何度も額をぶつけた。

 血と涙が頬を濡らす。


(死なないで、ヘレミアス……!)


 女神リデルでも《陽光の聖女》でもいい、ヘレミアスを、ヴァレンティアを魔法で救ってほしかった。


 自分が《陽光の聖女》なら助けられたのに、自分ならこんなことはしなかったのに――。


 後悔と苦痛で胸をかきむしりたくなる。


 最後にこちらを見た時、ヘレミアスはどんな顔をしていたのか。何を思っていたのか。

 ただあの驚愕の顔だけが――。


 そしてヴァレンティアの、憤怒と蔑みに満ちた目。


 まりあは喉を引きつらせた。

 思考は混乱し悲鳴をあげ、堰を切った涙が床に点々と染みを落としていく。


 やがて部屋の扉が開かれて男が入ってくる。

 男は、まりあの目の前に来て片膝を折った。


「――《闇月の乙女》ともあろうものが、なんという態だ」


 否応なしに意識を引く声だった。

 まりあは濡れた顔を鈍く持ち上げた。


 一対の雄々しい角に二色の双眼を持つ男が見つめていた。

 そして唇に薄い微笑を引いた。

 その手はためらいなくまりあの顎に触れた。


「無様な。――だが、いい顔をする」


 嘲笑とも皮肉とも異なる、引力を持った声が耳朶を打つ。

 まりあは顔を歪め、レヴィアタンの手を振り払った。

 乱暴に目元を拭う。

 言葉が出てこなかった。


「妃を一人で泣かせたとあっては俺の矜持に関わる」


 傲岸な男は白々しく答える。

 ただ一人にしてくれないことに、まりあは男を睨みつけた。


 だが《夜魔王》は微笑を深め、紫の瞳は妖しく、蒼の瞳は深みを増した。


「その顔、俺を煽っているようにしか見えんぞ」

「――っ知らない!!」


 そんな稚拙な反論しかできず、まりあは一層嗚咽した。

 堪えようとするのに涙が止まらない。

 レヴィアタンから離れようと思うのに立ち上がる力もない。


 ヘレミアスとヴァレンティアへの思いでぐちゃぐちゃになった。

 押し潰されそうだった。

 拭うつもりが、いつの間にか目を隠すように泣いていた。

 どうしよう、とその言葉だけが頭を回る。


 時間を巻き戻したかった。

 電源を落として、なかったことにしてしまいたかった。

 夢なら早く覚めてほしかった。


 男の、かすかな吐息が聞こえた。


「言ったはずだぞ。と」


 まりあは肩を揺らした。

 鈍く顔を上げる。《夜魔王》はかすかに労りを滲ませていた。


「だって……でも――」

「あれは面倒な道具だ。隷属させておかねばならない。お前の態度があれを増長させた」


 反射的に言い訳を口にしかけたまりあを、諭すような声が遮る。

 まりあは愕然とした。

 頬をはたかれたようだった。

 レヴィアタンの言葉が正しいことを、胸の痛みが証明していた。


 ――自分が、間違っていた。


 その過ちの代償はあまりに重かった。

 嗚咽がまた喉をついた。

 震える口に手の甲を押し当て、強く押し殺す。

 押さえこまれた嗚咽が暴れるように肩が揺れた。


 再び、浅い吐息が聞こえた。

 呆れと哀れみの混じったような息だった。


 突然まりあの体は傾いだ。

 喉が引きつって息が止まり、濡れた目を見開く。


 広い胸に頭がもたれている。

 包むように、大きな手が髪に触れていた。

 ほの甘くも鋭く酔いを誘う芳香が鼻腔をくすぐり、一瞬目眩がした。


 抵抗できなかった。

 妖しい魔法にでもかけられたかのように、触れる手は心地良く、その胸の中で苦痛が麻痺してゆくのを感じた。


「泣くのは閨の際だけにしろ」


 低いささやきが耳朶に触れる。

 だがまりあの混乱しきった頭はその意味を捉えきれなかった。


《夜魔王》の腕は優しく、引き寄せる力は強かった。


 その声とその確かな体だけが、嵐のような苦痛を和らげるものだった。



        *



 腕の中で震える女は、ようやく満ちはじめた若い《月》を思わせた。

 肩を震わせ、顔をうつむけて子供のように嗚咽している。

 その姿は、比類なく孤高にして美しい月の主人――その唯一の化身としてはあまりに脆く、幼い。

 にも拘わらず、女は何か強い引力でレヴィアタンの目を惹きつけた。


 ――頬に散った血の紅は、青ざめた白い頬によく映えていた。

 どんな化粧よりも、この素朴な女を艶めかしく見せた。


 彼の指は震える月の、緩く波打つ黒髪に潜った。


(……愚かな)


 声なき声でつぶやきながら、彼の唇は微笑を象った。


 話し合いなどという前代未聞の手段を選び、頑なにそれを貫いた未熟な月。

 こんな結果になることを本当に想像していなかったのだろうか。

 彼にとってはそのことこそ滑稽で驚くべきことだった。


 しかしそれゆえに腕の中の月は、絶望と悲嘆の、目眩のするような芳香を漂わせ、彼を強く誘惑していた。


 突如として眼前に現れた甘い果実は、手を伸ばして少し力を入れるだけで、たやすくもぎとれるように思われた。


 彼はそれに唇をつけ、軽く歯を立て、舌で味わいたい衝動に駆られた。


 差し出すようにうなだれる黒髪に唇を寄せる。

 そこで息を吸うと、かすかに甘く冷たい芳香にまじって濃厚な悲嘆を感じた。

 彼は目を閉じ、深くそれを味わった。


《夜魔王》の背を冷たい愉悦が這い上がった。

 肋骨の内側に、こそばゆく脆い快さが反響する。


(……まだだ)


 彼は蒼と紫の目を薄く開いた。

 体を内から食い尽くそうとする衝動を、意思で凍らせて止める。

 この月は、彼のために熟れたものではなかった。

 状況が偶然そうさせたにすぎない。


 それがどれほど魅惑的なものであろうとも、与えられた餌は《夜魔王》レヴィアタンの供物ではない。

 安易に飛びつき、目の前のものを貪るなどという真似は矜持が許さなかった。


 彼の静かな葛藤も知らず、現れたばかりの《闇月の乙女》は腕の中で尽きることなく嗚咽をもらしていた。

 だが顔を上げることも抱き返してくることもない。


 脆く嗚咽する姿は女神の化身とは思えない――だが奇妙にも、開花の前に首を落とされた蕾に似た頑なさがあった。

 その頑なさは、誰の手にもおさまらぬ天の月を思わせもする。


も悪くない――)


 彼は熾火のようにくすぶる衝動を感じながら、《闇月の乙女》が泣き疲れて眠るまで腕の中に抱き続けた。

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