Chap5-5
まりあはレヴィアタンたちと共に屋上へ向かった。
《天上界》からやってきたらしい白の鳥が、肉眼でも見えるほどに迫っていた。
その傍らを、黒い鳥が飛んでいる。鳥、というよりは蝙蝠に近かった。
白い鳥のほうはパラディスの真上まで到達すると、大きな円を描くようにその場で旋回した。
ふいにその動きが止まった。
とたん、白い鳥の姿は爆ぜて無数の火花となり、小さな流星を降らせる。
まりあが思わず声をあげると、小さな流星群は一つ一つが意思を持つように何かを描きはじめる。流麗で整然とした形――。
それが文字だと気付いたとき、声が降った。
“親愛なる、悪と穢れの根源、破壊を司りし月と夜の女主人と闇の王へ――”
大仰で物騒な口上に反して、人なつこい声だった。
まりあの心臓ははねた。聞き覚えがあった。
誰に対しても気さくなその声――。
“よう、《夜魔王》。それと《闇月の乙女》。元気か? いや元気にされてても半分困るんだが”
口調ががらっと変わり、まりあは思わずむせた。
「ふざけた真似を……」
グラーフがうなるように言って、まりあは慌てた。
違うのだ、と慌てて庇おうとする。
“俺はヘレミアスという。神官だ。堅苦しいのは苦手だからこの口調で勘弁してくれ。別にあんたらを煽ろうとしてるわけじゃなくて、もとからこれなんだ”
明るい声が語るにつれ、夜空に文字が増えてゆく。
優美な曲線と美しい蔦が絡むような形の神聖文字は、友人に語りかけるようなヘレミアスの声とは真逆の印象だった。
(ヘレミアスぶれないなあ)
まりあは微笑ましく思った。
《陽光の聖女》の周り――つまり攻略キャラクター――には真面目で品行方正なキャラクターが多かった。
が、中でも神官というもっとも品行方正さを求められそうな立場にありながら、ヘレミアスはもっともそれとかけ離れた性格をしていた。
なにせ、聖女と初対面のときに放った台詞が、
『よう、聖女殿。評判以上のみずみずしさだな。フロルの蕾みたいだ。もしかして庭園から抜け出してきたのか?』
――だった。
それが軽快でいやみのない明るさになるのはヘレミアスの才能の一つだ。
礼拝堂で祈る時間よりも、そこら中にいる友人と肩を組んで酒杯を飲み交わしたり盤上遊戯に耽ったり、イグレシアを抜け出して散歩に行ったりということのほうが多かった。
それでいて、神官の得意とする治癒魔法には天賦の才を持っていた。
そしてヘレミアスは他人を決して拒まない。
――頼れる兄貴分。一生ものの友達。男女の別なく親しまれ、底抜けに情け深い男。
まりあにとってヘレミアスはそんな印象の好男子だった。
心細い旅先で思いがけず友人に会ったような気持ちで、まりあは空中の文字を見つめた。
“どうやら、《闇月の乙女》は話のできる相手らしい。俺は話し相手がほしかったところでな。どうだ、平和的にちょっと話してみないか。いい加減、武器を突きつけ合うのにも疲れた頃だろ?”
まりあは目を瞠った。
ヘレミアスの言葉で、突然視界が大きく開けたように感じられた。
左手を覆う手甲が冷たく重みを増すのを感じたが、すぐに右手で押さえ込む。
“俺は武器は持たないし、最低限の付き人しか連れて行かない。俺は戦士じゃないからな。だまし討ちはなしだ。ま、難しいこと考えず、ちょっとでも興味持ったら乗ってくれ。退屈はさせないし、危険な目にもあわせないと約束する”
引き込まれるような軽快な口調は、まりあにはまさしく天の声として聞こえた。
全身が喜びで打ち震えた。このタイミングでの、このヘレミアスの言葉――。
(き、きた―――!!)
“無茶言ってるのはわかってる。俺が冗談で言ってるんじゃないってことの証に、場所はそっちが決めてくれてかまわない。よほどの場所じゃなければ行くぜ。じゃ、いい返事を待ってる”
その声と同時に空に焼き付く文字も止まり、しばらく痕を残し、消えていった。
ヘレミアスの言葉はそれがすべてであるらしかった。
まりあは人なつこい声の余韻を何度も噛みしめ、両手を握りしめた。
(ヘレミアス、ナイス! ナイス超ナイス!!)
あらん限りの賞賛を送り、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
興奮のあまりしばらくそうしていたが、ラヴェンデルとレヴィアタンの奇異の視線を感じてはっとした。
まりあはぴたっと動きを止めた。
一気に顔が熱くなり、誤魔化すように咳払いをした。
そして顔を熱くしたまま言った。
「これは好機です。話を受けない理由はないでしょう」
「……出来すぎな気もするがな。よもや向こうと通じているなどということはあるまいな?」
レヴィアタンが片眉を上げて戯れとも不審ともつかぬ声で言う。
まりあはそれを跳ね返すように鼻を鳴らし、腰に両手を当てて胸を張った。
レヴィアタンの使い魔だという黒の鳥は、まりあの返事を携えて《天上界》へ向かった。
すると再び白い鳥が返事を携えて帰ってきた。
まりあ以外の予想に反して、ヘレミアスは《世界の狭間》での会合を受ける、と返事をした。
ラヴェンデルでさえ驚き、何か裏があるのではと疑った。
まりあは自分がこの時に一番、『どうだ!』と勝ち誇った顔をしていたに違いないと思った。
レヴィアタンは冷めた顔で釘を刺した。
「俺とお前は刻印で繋がっている。万一の際には俺が呼び戻すが、厄介なことになる前に戻れ」
「……大丈夫です! それより勝手に引き戻すようなことはしないでください」
「お前だけでなく護衛についた者の身を考えろ。身勝手な判断で先走るな」
腹立たしいほどの正論だったが、まりあはむっとした。
それぐらいはわかっている、と反発がわく。
そもそも護衛など要らないと主張したのに聞き入れられなかった。
《夜魔王》は侮蔑的な目をまりあの左手に向ける。
「護衛が要らぬというなら、その聞き分けのない道具を置いていったらどうだ」
まりあは思わず手甲を右手で覆った。
言われるまでもなく、考えたことだった。
(……アレスさん、離れてくれないし)
いくらアレスが優しい青年であっても、その秘めたる能力を考えると、交渉の場に同行させるのは少々不安だった。
相手に不信感を与えかねない。
かといってここのところアレスはずっと手甲の姿をとり、人の姿には戻ってくれない。
待っていてほしいと頼んでも、答えは沈黙だった。
ただの手甲ですとでも言わんばかりに無反応で左手に密着され、脱ごうとしても脱げなかった。
それどころか脱ごうとすると、より肌に密着してきた。
聞き分けのない子供を相手にしているようで、まりあは根負けしてしまったのだった。
(まあ、こうやって手にくっついているだけなら問題ないし……)
そう思うことにして、そのまま《世界の狭間》へ向かうことになった。
《世界の狭間》とは不安定な場所に生じる特異点のようなもの、とゲーム内の説明文にあった。
現実でいえばブラックホールなどといったものに近いのだろうかと思ったのをまりあはおぼろげに覚えている。
まりあは黒馬に乗ってレヴィアタンたちとともにパラディスを発ち、《世界の狭間》への出入り口が生じるという地へ向かった。
黒馬はかなりの速さで空を駆けた。
《世界の狭間》に通ずるという地は、不毛を通り越してある種の虚無的な美しさがある砂漠だった。
一切の生物や植物の面影なく、厳格なまでに茫漠とした砂の大地が青い夜の下に広がっている。
ただ風ばかりが砂の肌を乱し、気まぐれな傷痕を残してゆく。
その風の音は時折悲鳴や雄叫びのように聞こえて、まりあは身震いした。
「――あれだ」
先頭のレヴィアタンが、馬に乗ったまま夜空を示した。
まりあがつられてその先を見ると、唐突に、夜空が歪んだ。
一点で渦を巻き、元に戻る。
だが戻ったときには、そこに穴が空いていた。
その向こうから、昼の世界とも違うほの白い光がのぞいている。
ゲーム内で幾度となく見た、《戦闘空間》の背景に似た光――。
「じゃあ、行ってきま――」
まりあはすぐに馬を向かわせようとしたが、レヴィアタンが振り向いた。
「いいか、決して油断するな。俺の力が届かぬ以上、撤退の判断は早めに下せ」
「……わ、わかってます! 護衛の人たちを預かった以上は慎重な行動を心がけますから!」
責任の意味ぐらいわかっている、とまりあは強くうなずいた。
別に自分の心配をしてくれているわけではなく、護衛についてくれた《闇の眷属》たちを慮っての言葉だ。
《夜魔王》は、冷たく形の良い唇に微笑を浮かべた。
「お前の身を案じての言葉だが? 忘れるな、我が妃よ。お前の身はもう俺のものだ」
完全な不意打ちだった。まりあは大きく目を瞠った。
(な……っ!!)
数秒遅れてから顔が熱くなり、あまりのことに言葉が出てこなかった。
レヴィアタンの唇は戯れめいた笑みを浮かべているのに、色の違う目は笑っていない。
だから本気なのか冗談なのかわからない。
唇だけで笑いながらまりあの反応を眺め、《夜魔王》はその背後に目を向けた。
「――行け。俺が呼び戻すか、撤退するまで何があろうと妃を護れ。傷一つ負わせるな。だがお前達はすべて俺のものだ。一人たりとも勝手に損なうことは許さん」
すべてを所有することを当然とし、傲慢と自信に溢れた王の言葉だった。
護衛たちが頭を垂れる。
まりあの心臓はまたはねた。
――こういうレヴィアタンは、正直魅力的だと思ってしまう。
言い方は違っても、臣下に対する思いがアウグストに少し似ているような気さえしてしまう。
だが変なことを考えた自分に慌てて頭を振った。
そして追い払うように言った。
「――っじゃあ行ってきます!!」
黒馬の手綱を握りしめて、振り落とされぬように足に力をこめる。
従順で利口な馬はそれだけで察し、上体を軽く振り上げて瞬く間に空へ駆け上がりはじめた。
とたん、まりあの左手の手甲が茨に似た黒い雷を発した。
それはまりあの左腕を駆け上り、右腕に移り、全身を覆おうとする。
「いいから、アレスさん! 鎧は要らない!」
慌てて叫ぶと、黒い茨の浸食が止まった。
茨は巻き戻っていく。
だが、不満を表すかのように、左腕にしばらく戯れていた。それでもまりあの言葉を受け入れて消え、手甲は冷たく沈黙する。
(武器も要らないから……、大人しくしてて)
まりあはそんな思いを込め、右手で軽く手甲を撫でた。
黒馬は夜空の裂け目に向かって駆け上がっていく。
振り向くと、後ろから護衛の《闇の眷属》たちが見えた。
そしてそのずっと後ろ、地上に、こちらを見上げる《夜魔王》の姿があった。
まりあは馬と共に裂け目に飛び込んだ。
護衛がその後に続く。後尾が飛び込んだ直後に裂け目が自ずと閉じた。
馬を下り、周りを見渡す。
昼とも夜ともつかぬ曖昧な光だけが揺らめく不可思議な空間だった。
ゲームでは一応《戦闘空間》となっていたが、いまは周りに敵影らしきものは見当たらない。
ヘレミアスの姿を探した。
だが遠近感覚が狂いそうなほど何もなく、ただただ奇妙な光が広がっている。
少し待つと目の前が明るくなった。
漠然とした空間の一部が、火で焼けるように穴を広げていく。
その向こうから白く輝く馬と人が飛び込んできた。
白馬に乗って先頭に立ったのは、騎士たちとは異なって鎧も武器も身につけない柔らかな装いの男性だった。
肩ほどの金髪に、襟元は絶妙に緩んで気怠げに見えるが、不思議とだらしない印象にはならない。
垂れ気味の目に甘さと優しさが同居している。
特徴的な左目尻の黒子。
濃い金色の眉は少し太めで、柔らかさと意思の強さとを現している。
神官とは思えぬ容貌の男は、まりあを認めて笑みを向けた。
「よう、あんたが《闇月の乙女》か。俺がヘレミアスだ。歓迎してくれてるようで嬉しいぜ」
邪気なくからかうような口調に、まりあは自然と笑顔になった。
男――ヘレミアスはちょっと目を瞠って、まじまじとまりあを見つめる。
「思ったよりずいぶん可愛い笑い方をするな。いい感じだ」
そう言って、明るく笑って馬を下りる。
今度はまりあが虚を衝かれた。
少し遅れてどぎまぎした。
同時に左の手甲がなぜか強く締め付けてきたので、右手で軽く叩いてなだめる。
(そ、そうだった。ヘレミアスってこういうことをさらっと言っちゃえる人だった……)
彼は人なつこく、誰にでもすっと距離を詰めてしまう。
だが油断すると、時々とんでもない爆弾発言にあって心を乱される――なんてことは、ヘレミアスの個別ルートで痛感させられたのだ。
気の良い兄貴分というだけではない――人なつこいというのは慣れているということでもある。
まりあは誤魔化すように咳払いした。
「……それはどうも。こちらとしては、むやみに敵対するつもりはないってことをわかってもらえたら嬉しいです」
「ほう。本当に変わってるな、あんた。まず、こいつらを助けてくれたことに礼を言わせてくれ」
ヘレミアスが目で示したものを追う。
彼の背後に、護衛の騎士たちが控えている。
その先頭に立つ青年の、エメラルドの瞳がこちらを見つめている。
(ヴァレンティア……! 無事でよかった)
まりあは安堵する。
だが見つめ返す目は冷たかった。
――というより、睨まれている。
安堵が落胆に変わった。
別に感謝してもらいたいとか見返りを求めているわけでもない。
だが少しは態度を和らげてくれるのではないかと期待してしまった。
まりあはヴァレンティアから目を逸らし、ヘレミアスを見た。
「えっと……そちらのお話とは?」
「ああ、まあ正直言うと大したことじゃないんだ。礼を言いたかったってのと、変わり者らしいあんたのことをこの目で見てみたかった。本当に承諾してくれるとは思わなかったよ」
まりあはぱちぱちと瞬きをした。
「逆に、あんたはどうなんだ? 話したいことがあるんだろ?」
「! そ、そうなんですはい……!」
まりあは慌てて姿勢を正した。
内容が内容であるだけにどう切り出すべきか少し迷って、だがうまい交渉や駆け引きができるはずもなく、率直に言った。
「あの……、境界を戻してほしいんです」
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