Chap5-3


 不意の襲撃を受けて破壊された《祈りの間》はイグレシアの総力をもって急ぎ修復された。

 備え付けの長椅子や祭壇と天井の一部などが壊されたが、幸いにもすべて修復可能だった。


 女神リデルの像はその神聖を表すかのようにほぼ無傷で、聖王を含め多くの騎士や貴人、女官たちが、その足元に跪いて安寧と感謝を捧げた。


 そういった多くの参拝者が過ぎていった後で、長い金髪を三つ編みにした青年騎士もまた、リデル像の足元に跪き、祈りの形に手を組んだ。


 誰にも邪魔されることのないその祈りは長く続いた。

 硬く組み合わされた両手、微動だにしない自制の強さは生来の真面目さからくるものだった。


 その熱心で長い祈りの中へ、かすかな靴音が訪れた。


「――相変わらず長いな、お前の祈りは」


 靴音の主が、からかう。

 跪いていた青年はようやく目を開ける。


 暗い金色の睫毛の下から現れたのは、極上の翠玉を思わせる目だった。


 青年――騎士ヴァレンティアは傍らに置いてあった剣を取り、ゆっくりと立ち上がった。

 靴音の主に振り向くと、控えめに微笑した。


「ヘレミアス様」

「さっさと俺のとこに報告に来い。祈りはそれからだろう」

「……祈りは何より大事なものです」


 ヴァレンティアは慎みをもって、だがしっかりと反論した。


 砕けた口調の男は、呆れとも感心ともつかぬ溜息を吐いた。

 男の姿はヴァレンティアとは対照的で、神官特有の服は類を見ないほど着崩されている。

 ヴァレンティアより明るい金髪が肩を少しすぎるほどで雑に切られているのは、短いほうが楽だから――しかしきちんと整えるのは面倒という理由からだった。

 後にも先にも、これほど神官らしくない風貌の男はいない。


 だが怠惰や不潔さはなかった。

 それはもとからの整った顔立ちや細い長身のためだけでなく、彼自身の内面から滲むもののためだとヴァレンティアは知っている。


「しっかしお前もほんとに無茶をするな。よく死者を出さずに戻ってこれたもんだ」

「……いえ、それでも目的は果たせず、聖王陛下の騎士を傷つけました。私の力不足です」


 ヴァレンティアは剣を握りしめて視線を落とした。


 ――封印された高位の《闇の眷属》たちが次々と解放されていると知ったのはここ数日間のことだった。


 これは敵が戦に備えているのだと騒がれたが、《光滴の杯》によって休戦を誓った聖王は、介入をよしとしなかった。


《聖王》の高潔さを利用し踏みにじるようなやり方に、ヴァレンティアは強い憤りを覚えた。

 同じ志の騎士たちと完全に独断で《永夜界》へ侵入し、封印を強化しようと試みた。


 だが現れたのは《夜魔王》レヴィアタン本人であり、ヴァレンティアは己の無力さを思い知らされた。

 まるで歯が立たなかった。


 死者が出なかったのはただ女神の加護であるとしか言いようがなかった。

 ――否。


『は、やく……逃げ、て!!』


 巨大な黒剣を構えた細い背中。

 禍々しい剣とはあまりに不釣り合いなその背が、目の裏に焼き付いている。

 そしてイグレシアではじめてまみえたときの、驚いたような顔――赤く光る目。


(あれが、《闇月の乙女》……)


 汚れた者たちの守護者にして、その力の源となる月を喚ぶ者。

 闇と破壊の女神ヘルディンの化身。


 だが、その事実からは想像もつかぬ顔立ちだった。

 紅く光る目にこそ邪悪を見いだせたが、驚く顔は無垢で、少しあどけなささえ感じた。


 そして、切迫したあの声――。


 ヴァレンティアの胸に、疼きにも似た鈍い痛みが起こった。


(なぜだ……)


 強大な敵だった。

 見た目で侮るなどありえない。

 なのにあの腕も肩も剣を振るうには華奢すぎる。


「おいヴァレン。大丈夫か?」


 騎士ははっと正気に戻った。

 怪訝そうなヘレミアスにかろうじて首肯し、顔を逸らす。


(……汚らわしい)


 己への嫌悪に吐き気がした。

 おそらく、この体の半分を流れる忌まわしい血のせいだった。

 いまだにそんな状態になることに、激しい憎悪と屈辱を覚える。


「ところで、本当なのか。《闇月の乙女》がお前たちを逃がした……というのは?」


 脳裏をよぎったものを話に出され、ヴァレンティアの頬は紅潮した。

 だが、それは己の弱さと邪の表れであると叱咤し、冷静を取り繕ってヘレミアスを見た。


「……事実です。いかなる策略かわかりませんが、《夜魔王》と私たちの間に介入しました」

「ほお。そこんとこ詳しく聞かせてくれ」


 ヘレミアスの興味津々といった顔に向かって、ヴァレンティアは淡々と説明した。

《闇月の乙女》が突然現れてこちらを庇うような行動を見せ、逃げろと言った――。


「……本当か?」

「はい」


 ヴァレンティアの養父でもある神官は驚きを露わにしたあと思案げに顎下を撫でる。


「なかなか奇妙な奴のようだな。こっちに侵入してきて《夜魔王》奪還なんてことをやらかし、陛下と休戦を約束をして、かと思えばお前たちを庇って逃がす、か……」

「相手はもっとも邪悪な穢れです。我々を攪乱しようとしているのでしょう」


 ヴァレンティアは意識して冷ややかに言った。

 ――相手は《闇月の乙女》。

 すべての善なるものの体現たる《陽光の聖女》とは対極の存在なのだ。


 だがその思いとは裏腹に、ヘレミアスはやや意地の悪い笑みを浮かべた。


「まあそう言うなって。これはなかなか興味深いことだ。場合によっては、を起点にしてどうにかできるかもしれない」

「戦うということですか? しかし陛下は休戦を命じておいでですが……」

「そうじゃない。もちろん陛下のご命令は守る」


 ヘレミアスは苦笑いして手を振った。そして訝る騎士を見て、にやっと笑った。


だよ。その奇抜で変わり者の《闇月の乙女》となら、かつてない非戦の交渉ができるかもしれないぜ」



        *



 まりあのためらいや迷いとは裏腹に、レヴィアタンは次々と各地の魔公爵を解放していった。

 まりあはずっとレヴィアタンについていって側でそれを眺めていた。

 止めることもしなかったし、できなかった。


 レヴィアタンは確かに、約束を守ってくれていた。

 仲間を解放して回る一方、怒りと復讐心に燃える《闇の眷属》たちをなだめ、あるいは絶対的な威圧を加え、抑え込んでいる。


 おそろしくも美しく、時におぞましくすらある異形たちがレヴィアタンの言葉に従う様は、それだけ《夜魔王》たる彼の力を思い知らせてくるようだった。


 ――そんな中で、まりあはもう一つ、ささやかな衝撃を受けることがあった。


(う、うわああ……)


 縁の装飾も豪華な姿見の中、はだけさせた左胸のあたりに、淡く銀色に光る刻印があった。《月下の儀》とやらの儀式で刻まれた印だった。

 痛みはまったく感じなかったが、どうやら肌に直接刻まれたらしい。


 右手でそっとなぞってみると、凹凸などは感じなかった。

 試しに手でこすってみてもまったくかすれず、布で拭ってみても同じだった。


 同じものが、レヴィアタンの左胸にもあるはずだった。

 だが何よりも気になるのは――。


(これ、もしかして消せない……?)


 いや現実に戻ればそんなことは、と必死に否定するが、不安は振り払えなかった。




「それで? 休戦の後、具体的にどうしたい」


 玉座に戻った《夜魔王》は、その周りに山羊頭のグラーフや、王姉ラヴェンデルたちを侍らせながら言った。

 数歩引いた壇の下に立っていたまりあは口ごもる。


「魔公爵を解放した後、お前はひとまず戦うなと言った。俺はそれを聞いてやった。だがその後はどうする。向こうが攻めてくる可能性については考えているか?」

「! 向こうから攻めてくるなんてことは……!」

「もう忘れたか。おれが臣下を助けようとしただけで、奴らはこの地に侵入し妨害しようとした」


 まりあはぐっと言葉に詰まった。

 確かにヴァレンティアたちの行動は擁護できなかった。


 休戦――その言葉の意味にということまで含まれるものだと無意識に思いこんでいた。

 だがレヴィアタンがそうではないように、アウグストたちもまた戦う準備をしていないとは限らない。

 アウグストは好戦的ではない。だが理屈としてはありえるのだ。


(なんでそこまで……)


 平和な日本で生きてきた昏木まりあには、なぜそうまでして双方が戦おうとするのかわからない。


 ――ゲームを遊んでいたときには、考えもしなかった。

 ただ光と闇があって、善と悪があった。よくある設定。ただの舞台設定だった。


 レヴィアタンの、そしてラヴェンデルやグラーフたちの視線を感じた。

 つくりものとは違う、自分と同じ生きた存在の目。

 その彼らが生死を懸けて戦おうとするのはなぜなのか。


「……どうしてですか」


 ほとんどひとりごとのように、そうつぶやいていた。


「どうして、戦う必要があるんですか。仲良くしようなんて言いません。でも、互いに干渉しないようにするとか、住み分けすれば……」


 ――対立するもの同士の和解がいかに難しいかは、まりあにも少しはわかることだった。

 大人になればなるほど大きな喧嘩はしないが、一度喧嘩してしまうと修復が困難になる。

 子供のときに使えた素直と親密の魔法は、大人になれば失われてしまう。


 それが個人同士でなく国単位のものなどになればもっと難しくなるのも理解できる。


 レヴィアタンは長く息を吐いた。

 呆れとも軽蔑とも、あるいは感心ともつかぬ溜息だった。


「度し難いな、お前は。その頭はよほど寝ぼけているか、中身が詰まっていないのかどちらだ?」


 あくまで低く通りのよい声に反して、言葉は辛辣だった。

 まりあは反論しなかった。

 平和呆けしていると言われればきっとその通りなのだろう。


「見ろ」


 レヴィアタンは右手を差し出し、掌を上に向けた。

 その掌に、深い蒼の光が集まってゆく。

 そして掌大の球体をつくった。


 球体は手の上で浮かび、下半分が黒から銀へと色を変え、上半分は白から金へと絶え間なく変化している。


「これは模倣図だ。下が俺たちの世界。上がの世界――」


 まりあは息を呑んでその球体に見入った。

《永夜界》を現すという下半分は確かに夜と月を、上半分は陽光と白昼の空を表しているかのようだった。


「創世のときの姿がこれだとすると、いまの姿はこうなる」


 レヴィアタンの手が球体を握り、再び開く。

 再び球体が浮かんだが、その模様は一変していた。


 上下に等分されていた球体は、《昼》の色が半分を超え、七割ほどになっていた。

《夜》が残る三割に追い詰められている。


「これは……?」


 まりあは眼を丸くして眺めたあと、レヴィアタンを見た。


「現状がこれだ。いいか、この世界は常にを繰り広げている」


《夜魔王》はわずかに眼を細め、まりあを睥睨して告げた。


「俺たちの生命力である《月精》と、奴らの生命力である《光精》は対極のものだが極めて似た性質を持つ。月精は、その力が強ければ光精を飲み込んで浄化し、増殖する性質をもつ。光精もまた同じ作用を持つ」


 レヴィアタンの言葉に応えるかのように、球体がまた模様を変えた。

 再び、昼と夜が拮抗――そしてまた崩れ、今度は夜が濃くなる。


「月精は奴らにとって猛毒であり、光精は俺たちにとって猛毒だ。だがいま言った作用から、二つは相容れない。共存できない。月精が満ちていなければ俺たちは生きていけず、光精が満ちていなければ奴らは生きていけない。すると、どうなる?」


 まりあは言葉を失った。

 常に不安定に揺らめく球体が、言葉を越えたところで暗示しているかのようだった。


「俺たちは生きていくために月精を必要とし、月精を満たすための土地を必要とする。だがその土地では奴らは生きていけず、奴らは光精を必要とし、そのための土地を必要とする。戦うのは、俺たちの世界を護るため。俺たちがだ」


 その言葉が、まりあの頭をしたたかにった。


 死なないため――


 怨恨とは異なるもっと切実な、あまりに根本的で揺るがぬ理由に息が詰まるようだった。


 世界を模した球体は、レヴィアタンの掌の上で静かに揺らめいている。

 たえず《昼》と《夜》の模様が入れ替わり、だがどんな姿になっても、《昼》と《夜》がまじりあうことはなかった。

 太陽と月が並び立つことができないように。


 レヴィアタンの言葉が嘘や誇張なら、と一瞬考える。

 だがその考えは、黒に落ちた一滴の白のごとくかき消えた。

 イグレシアに突入したとき、《光精》の満ちる空気を身をもって感じた。


 そして、《光滴の杯》のときにも。


「いまは《闇の眷属》の不利の上に休戦が成り立っている。この状態で休戦を成立させたこと自体はお前の大きな功績と言っていいだろう。だが奴らの侵略で《永夜界》の一部は《光精》の影響を受けて不毛な土地になっている。境界面もこちら側に押し出されている。このままでは《永夜界》は削られ続け、滅亡を待つだけだ」


 整然と続けられる言葉は、冷徹にまりあを追い詰めた。

 ただがむしゃらに戦うなと唱えていた自分がどれだけ愚かなことを言っていたか思い知らされるようだった。

 その重みに耐えかねてまりあの視線は落ち、足元にたどりつく。


(じゃあ……どうしたら……)


 戦うしかないのか。

 心の片隅で、自棄になった声が言う。


(生きるためには《月精》や《光精》が必要で、空気みたいなもので、共存はできない……)


 レヴィアタンの言葉を反芻しながら、緩慢に目を上げる。

 玉座で足を組んだレヴィアタンは肘置きに腕を預け、頬杖をついていた。


 球体はその眼前でひとりでに浮かんでいる。

 藍色の《夜》と金色の《昼》が絶えず勢力争いをし、互いが互いを喰らい尽くさんとしている――。

 不安定に乱れる模様は本能に不快感を与え、まりあはただ無意識にそれを直したいと思った。


 球体がはじめに見せた完全な二分割の模様。あれこそが美しく、落ち着いた形――。


 突然、まりあの脳内に火花が散った。

 レヴィアタンは言った。姿と。


「――じゃあ、創世の時は?」

「何?」


 物憂げな蒼と紫の両眼に向かい、まりあは世界の模倣図を指さした。


「レヴィアタンさんは、姿って言いました。でも、創世のときはそうじゃなかったんですよね?」


《夜魔王》の目が、わずかに瞠られた。

 グラーフやラヴェンデルたちの反応はもっと大きく、ただ無防備に驚いていた。

 レヴィアタンはすぐに冷静さを取り戻して言った。


「そうだ。世界の黎明期――双子神がいたとき、この世界は均衡状態にあった」

「! それって……!!」

「月精と光精が完璧に拮抗し、境界面が完全な中央にあった――両女神が揃い立っていたからこそ可能な、奇跡だ。創世のとき以外に、そんな状態は


 にわかに沸き立ったまりあに冷水を浴びせるように、レヴィアタンは淀みなく続けた。


 まりあは否応なしに興奮を削がれ、ぐっと言葉に詰まる。

 すると、左手に冷たく締めつけられる感覚があった。

 はっと目をやると、左薬指の指輪――そこから繋がる黒いレースを思わせる手甲が、妖しく揺らめいている。


(アレスさん……?)


 右手でそっと手甲に触れる。

 ひんやりとした黒の鎖は答えない。青年の姿になることもない。

 淡い揺らめきは何か物言いたげにも見える。

 じっと見つめても、手甲は無言を貫いている。


(気のせい……?)


 まりあはやむなく、レヴィアタンの言葉に意識を戻した。

 ――光と闇の双子神がいなければ成り立たない均衡。

《夜魔王》の目を真正面から捉えた。


「でも、《闇月の乙女》は闇の女神ヘルディンの化身、なんですよね」


 無意識に、右手で自分の胸に触れていた。

 掌に、鼓動の音を確かに感じた。


「そして、《陽光の聖女》は光の女神リデルの化身……。これは、という状態に近いんじゃないですか?」


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