Chap5-2
レヴィアタンとラヴェンデルは下の階へ向かった。
まりあは途中まで道順を覚えようとしていたが、やがて放棄した。
ひたすら二人のあとをついていくと、ようやく突き当たりに両開きの扉が見えた。
玉座の間へ通じる扉と似た、巨大で重厚なつくりだ。
だがこの扉は黒曜石を思わせる漆黒で、艶を放っている。
レヴィアタンとラヴェンデルが近づくと、扉は自ずと開いた。
まりあも二人に続いて扉の向こうへと足を踏み入れる。
そして感嘆の声をあげた。
一瞬、屋外に出たのかと錯覚した。
ただ深い夜を思わせる藍色の空間が広がり、その中で静かに降り積もる雪のように、淡い銀の光が瞬いている。
だが最奥には、ほの明るく浮かび上がるものがあった。
大きな台座の上で微動だにしない、巨大な女性の姿――。
台座に立つ女性は、黒蝶のような袖から伸びた右手に黒剣を携えていた。
長大な剣を握りながら軽く前に出された手は、ほっそりとしていて雪よりも白い。
敵を牽制しているようにも、なにか道標をかざしているようにも見える。
剣は、アレスを模したもののようだった。
女性のまとうドレスはまりあの着ているものによく似ていた。
違うのはその肌の白さと豊かな起伏、それに反するかのような華奢な体つきだった。
貴婦人のまとう喪服のヴェールに似て頭頂部から唇の上までが隠されている。
(もしかして……女神……ヘルディン?)
まりあは思わず、像の顔に目を凝らす。
だが形の良い唇と細い顎が見えるだけで判然としない。
(……私と同じ顔なわけ、ないか)
安堵と落胆のまじった気分だった。
彫刻は目を奪われるほど存在感があり、そのヴェールの繊細なレース模様、ヴェールの上から滴のように垂れる細い髪飾りにも溜息が出るほどだった。
その大きさも美しさも、イグレシア内にあった女神《リデル》の像と対をなすかのようだ。
創世の双子神――光を司る女神リデル、闇を司る女神ヘルディン。
《夜魔王》レヴィアタンとその姉たるラヴェンデルは、漆黒の女神像の足元まで進んで止まった。
まりあへ振り向き、無言で促す。
まりあは二人のもとへ進みながら、奇妙な既視感を覚えた。
つくりが違うとはいえ、ここはイグレシア内における礼拝堂と同じだ。
精緻な女神の偶像に見守られる、特別な場所。
――《陽光の聖女》もまた、跪いて祈りを捧げていたような場所。
そして《
だから――思い出してしまう。
(……しっかり)
まりあは自分を叱咤し、思い出ごと握りしめるように手に力をこめた。
思い出の中にあるように、アウグストたちを護るために、戦いを避けるために、いまこの道を進んでいくのだ。
女神像の足元で、レヴィアタンと向き合う。
ラヴェンデルが数歩後退し、更に数歩離れたところでアレスが立ち尽くしている。
「――これより《月下の儀》を行う」
ラヴェンデルが厳かな声で告げた。
「慈悲と破壊の主、甘き闇と玲瓏たる月の女神《ヘルディン》の下に誓え」
その言葉に導かれるように、レヴィアタンはまりあに向かって左手を伸ばす。
「我は《夜魔王》レヴィアタン。月に仕え、之を守り、第一に加護を受ける者――《闇月の乙女》を我が伴侶とすることを
王の力をもった声が響き、女神像のまわりに反響する。
伸ばされた左腕に淡い紫と蒼の揺らめく光が集まる。
まりあはその声に、言葉に、たたずまいすべてに圧倒された。
ラヴェンデルが眉をひそめて小声で言った。
「……何をしている」
「す、すみません。その……」
どうすればいいのかわからない、と消え入りそうな声で言った。
ラヴェンデルは一瞬目を瞠り、渋面をつくる。
「手を上げろ」
レヴィアタンが言った。
まりあはためらいながら、それに従った。
レヴィアタンの手に届くように、右手を伸ばす。
すると、指を絡められた。
自分の指の間を長い指がすり抜け、手の甲を包み込まれる。触れる皮膚の温もりと滑らかさに、まりあは肩を揺らした。
「復唱しろ。“我は《闇月の乙女》――”」
レヴィアタンは淡々とした声でつぶやく。
まりあは慌て、瞬きの間に混乱し、だが結局レヴィアタンの言葉を追った。
「我は、《闇月の乙女》――」
そうおずおずとつぶやいて、だが発した言葉がとたんに重く胸に沈んだ。
自分が《闇月の乙女》だと改めて認めてしまったような重さ。
《夜魔王》の言葉は続く。
それを追う。
「――月を喚び、夜を照らし、夜の子らを守護する者……」
まりあがそう唱えたとたん、体の内側から急に何かが溢れた。
レヴィアタンと繋いだ手が、腕が淡く銀色に光り出す。
繋いだ手を伝い、蒼と紫の光と銀光が接触し、互いに混じり合う。
まりあが自分の体を見下ろすと、輪郭が月光の薄衣をまとったように輝いている。
真正面に立つレヴィアタンの体もまた、淡い青と紫の光に包まれていた。
まじりあった光に導かれるように、まりあの手はいつの間にか指を絡め返している。
「“この身を、《夜魔王》レヴィアタンの伴侶として与える”」
厳かに告げられた言葉にまりあは息を呑んだ。
絡む手に、静かな力がこめられたのを感じる。
復唱をためらう。
本当に結婚するわけではない――目的を達するためのただの手段にすぎない。
なのに、こちらを見つめる蒼と紫の目が、絡み合う指が、あまりにも現実感を持っている。
冷たく力を持った空気そのものが、これは重大な局面だと痛いほど訴えかけてくる。
(……私が、本当に結婚するわけじゃない)
まりあは一度息を吸って止め、腹に力を込めて、答えた。
「――この身を、《夜魔王》レヴィアタンの伴侶として……与える」
そう告げたとたん、体の中に何かが重く沈んだ。
繋いだ手のまわりで絡み合っていた光が、腕から体へ駆け上っていく。
肩へ、鎖骨を伝って左胸へ。
そうして、心臓を貫いた。
「――っ!」
小さな爆発のような衝撃があった。
まりあはうめき、レヴィアタンもわずかに顔を歪める。
だがその衝撃はすぐに薄れてゆき、代わりに冷涼な空気を吸い込んだときのような快さが残った。
まりあは自分の左胸を見下ろし、そっと心臓のあたりを押さえた。
(な、何……?)
腕や体の輪郭はもう光っていない。だが左手の下で淡い光が漏れ、驚いて手を上げた。
左胸に銀色に揺らめく光が躍り、衣の上で緻密な紋様を描いている。
光の刺繍は揺らめき、脈動しているのを感じた。
「――これで、お前は俺のものだ」
まりあははっとして顔を上げる。
《夜魔王》の自信に満ちた微笑と、その左胸に輝く同じ紋様が目に飛び込んできた。
「こ、刻印って、これのことですか?」
「そうだ。式も盛大にやりたいが、それはもう少し落ち着いてからだな」
「式!? い、いやいいですそんな必要ないです!!」
「遠慮するな。同族への鼓舞のためにも派手にやる」
抗議する間にレヴィアタンの胸の光は徐々に薄らいでゆき、消えるのが見えた。
まりあは自分の胸を見下ろし、同じく消えているのを確かめた。
「済んだならさっさと次へ向かえ。他の魔公たちが解放を待っている」
ラヴェンデルがそう言うと、長身の弟王は軽く肩をすくめる。
「仰せの通りに、姉上」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
まりあは慌てて割り込む。
《夜魔王》は振り向いた。
「まだ駄々をこねる気か。いくら妃であろうと身勝手な言動は許さんぞ」
「そうじゃなくってですね!! だから……ええと」
「
ぐ、とまりあは言葉に詰まった。
そこまで言うつもりはなかったが、魔公爵たちを封印したままにしておいてくれ――などというのは、レヴィアタンにとって臣下を見捨てろと言われるも同然なのだろう。
「じゃあ、その……解放するのは、わかりました。でも仲間を助ける、それだけです。その人たちと一緒にアウ……《天上界》に攻めに行くとか戦いを挑むといった行動は絶対にだめです」
必死に言葉を探し、レヴィアタンの目を見つめ続ける。
「純粋に、仲間を助けるだけなら……私もできる限り協力します」
まりあは一呼吸の後、言った。
半分は仲間を助けようとする純粋な思いに共感したからで、もう半分は打算からだった。仲間を解放するのに協力したほうがレヴィアタンたちの動向をつかめる。
レヴィアタンは物言いたげに片眉を上げた。
蒼い目には興味の光が、紫の目にはほのかな疑念が浮かんでいるように見える。
「まあ、当面はそれでよかろう。他ならぬ妃の頼みとあれば」
「! 約束ですよ! 絶対に!」
まりあがここぞとばかりに食いつくと、《夜魔王》は笑いをかみ殺しながら、もはやこの話題は終わったとばかりに手を振った。
その傍らで、小柄な王姉は不満と疑念の複雑な表情をしていた。
まりあははたと気づき、アレスに顔を向けた。
黒衣の青年は、一瞬も動かずただ沈黙してそこに立ち尽くしていた。
その端整な顔は凍てつく仮面のようだった。
紅い目はまりあだけを見つめ、一瞬煌めく。
まりあはわずかに怯んだ。
――無言で黒衣の青年が佇む様は、どこか美しい死神を思わせる。
「アレスさん……?」
おずおずと声をかけても、返事はなかった。
アレスの姿が突如消えた。一筋の深い闇となって迫る。
まりあが驚くと、アレスの闇は左手に絡みついた。
瞬く間に手を覆い、やがて収束する。
まりあの左薬指に銀色の指輪が現れた。その指輪につられるように夜色の細い鎖が手の甲を覆っている。
黒の鎖の手甲は美しく繊細な紋様を広げ、手首まで達している。
艶やかな黒はまりあの手を一際白く、透き通るような色に見せた。
まりあは息を忘れ、手甲に目を奪われた。
「……度し難い恥知らずが。道具の分際で俺を挑発するか」
不快感も露わなレヴィアタンの声に、まりあは顔を上げた。
二色の眼が冷たく光っている。
(ど、どういうこと!? この形になんか意味あるの!?)
だがまりあはそこでようやく気づいた。
手甲を引っかける指輪。
その指輪がはまっているのは、左手の薬指――特別な意味を持つ指だ。
(あぁああ――!?)
とたん、動揺した。
アレスは知っていてこうしたのか、あるいは無意識のものなのか。
――まともに考えたら、おそらく後者だ。
(だ、だってこれゲームの世界だし! 現実とは違うし……っ!)
徹頭徹尾、架空の世界なのだ。
現代世界と違って特別な意味などないのかもしれない。
だが左薬指はおろか指輪すらまともにしたこともないまりあにとって、いきなりこの薬指が埋まってしまうのは予想外の衝撃だった。
「あまりに度が過ぎると壊すぞ、なまくら」
レヴィアタンは目を細め、地を這うような声で言う。
まりあは慌てて口を開いた。
「や、なんでもないので! お気になさらず!」
「……お前は意味をわかっているのか」
「ななななな何がですか!? 指輪の一つや二つ、どうってことないですよ!」
勢いだけでまくしたてながら、まりあは引きつった愛想笑いを浮かべた。
――いったいなんの意味があるのか。そんなもの、一つしか考えられない。
だがそんなはずはないので、これはたいしたことはない、ただ美しい装飾で、アレスはたまたまこういう形をとったのだと思いこむことにした。
レヴィアタンの唇がわずかにつりあがった。
それは微笑と呼ぶのも憚られる、おそろしく威圧的な表情だった。
「俺は《闇月の乙女》の所有物だからといって手加減はしない。覚えておけよ道具。――来い、闇月」
《夜魔王》はまりあの腕をつかみ、有無を言わさず歩き出す。
まりあはよろめいて慌て、だが強い力に引きずられていった。
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