Chapter 5:非戦交渉――世界の狭間

Chap5-1


 世界を覆う薄闇が、一枚ずつ衣を重ねてゆくように色濃くなってゆく。


 まりあは体に触れるレヴィアタンから意識を逸らすために前に視点を固定しつづけ、ようやくパラディスの輪郭を視界に捉えた。

 夜の城は純粋な闇の象徴のように黒く浮かび上がっている。


 王の馬は滑らかに空を降りていった。

 その蹄が優雅に屋上を踏む。

 追随していた《夜の眷属》も次々と降り立った。


 レヴィアタンは手綱を離し、馬の首を軽くたたいて労った。

 まりあは即座に降りようとしたが、レヴィアタンが離さず、荷物でもおろすようにまりあの体を抱えて下りた。


「ちょ、ちょっと……っ!! 離してくださいってば!!」

「また心変わりされてはかなわん。先に済ます」


 予想もしなかった言葉に、まりあは目を剥いた。

 忙しなく瞬く。

 そして頬が熱くなった。


(す、済ます!? 何を!?)


 いきなり極めてやましい、かつ危機的状況を連想した。

 異性と付き合ったことがないとはいえ、昏木まりあは紛う事なき二十代半ばの成人女性である。

 王の妃になると宣言した流れからこの言動では、いやでも最悪の想像をしてしまう。


(いいいい、いやいやいやいや!! そんなばかな!! どっかの少女漫画じゃあるまいし!!)


 ――と必死に自分に言い聞かせて気付いた。




 そもそも『太陽と月の乙女』は正真正銘のジャンル=乙女ゲームである。




 まりあは精神に大打撃を受けた。


「待って、待って!! 何を済ますんですか!?」


 レヴィアタンに横抱きにされたまま運ばれ、じたばたともがく。

 すると蒼と紫の瞳に見下ろされ、思わずびくりと肩を揺らした。

 レヴィアタンの唇がかすかに微笑し、紫の目が艶めかしく輝く。


「何を? 何だと思う」

「!! は、はぐらかさないでくださいってば!!」


《夜魔王》はあり余るほどの余裕を見せ、完全に面白がっていた。


(あ、アレスさん――!!)


 まりあは内心で叫んだ。

 いまこそ、あの強大な剣の力が必要だと思った。

 だが体に重みを感じ、はっとする。


 アレスはいまだ鎧となって体を包んでくれていた。

 そのひんやりとした感触と堅牢な重さに少し安心する。

 いっそこの鎧がもっと重くなってくれたら、レヴィアタンもこんなふうに軽々と自分を持ち運べないのではないかと思う。


 だがまりあの羞恥と祈りとは裏腹に、精悍な《夜魔王》は軽々と運んでいった。




「戻ったか。……何をしているのだ」


 王の間に戻ったとたん、留守を預かっていたラヴェンデルは弟とその腕の中のものを見て言った。

 まりあはかっと顔が熱くなってじたばたともがいたが、レヴィアタンはびくともしない。


「刻印を行いますので、姉上に立ち会いを願います」


 抵抗をものともせず、レヴィアタンは淡々と言った。


(え……刻印?)


 まりあはぴたっと動きを止めた。

 とりあえず、おそれていた展開にはならない――ようだ。

 ラヴェンデルは何かものいいたげな視線をまりあに投げたあと、うなずいた。


「よかろう。さっさと済ましてしまえ」


 そう言って、玉座から跳ねるようにして立ち上がる。

 まりあはそこでまた、はっとした。


(レヴィアタンさんの妃になるってことは、ラヴェンデルさんは……ぎ、義姉になるってこと!?)


 当のラヴェンデルはそのことに気付いているのかいないのか、あるいは反応するまでもないということなのか。

 抵抗を一時停止していると、それを諦めととったのか、レヴィアタンはまりあを降ろした。


 まりあはすぐに後ずさりして男から距離をとった。

 警戒して睨むと、《夜魔王》は軽く笑った。


「すねるな仔猫。後で構ってやる」

「こっ……!? すねてないし構ってほしいとか思ってないです!!」


 あまりの言いように、噛みつく。

 だが顔が赤くなるのはどうしようもなかった。


「惚気は他でやれ」

「!? ち違います!!」


 ラヴェンデルにまでうんざりした調子で言われ、まりあは慌てて振り向く。


「……っていうかですね、いいんですかお姉さん!! 妃ってことはつまりその、弟さんの妻のような何かになるわけですが!! こんなどこの馬の骨ともわからん人間を……!?」

「妻のような何か、も何も、それ以外の意味があるか。《闇月の乙女》は王の伴侶。何を寝ぼけたことを言っている」


 どう見ても年の離れた妹にしか見えない王姉は、逆にまりあを叱咤した。

 まりあは撃沈した。

 ラヴェンデルが猛反対してくれるのをわずかに期待していたのだが、それもかなわないらしい。


「脱げ」


 突然、横からそんな声が聞こえた。

 弾かれたようにレヴィアタンに振り向く。

《夜魔王》はどこか冷ややかな目でまりあを――その体を眺めている。


(……は? ぬ……?)


 たった二つの音の塊が何を意味するかわかるまでたっぷり数秒かかった。


(脱げ!? 脱げと言ったのかこの男!?)


 想像を絶する言葉に後じさりする。


「いい加減にその無様な鎧を脱げ。いまさら何の抵抗をする」

「!! い、いや、その、はい……すいません」


 まりあは顔から火を噴きそうになり、慌ててうつむいた。


(よ、鎧を脱げってことね! そりゃそうか……ここはお城の中だし……)


 とんでもない勘違いをした自分に、さすがに落ち込んだ。

《夜魔王》とその姉の視線から逃げつつ、自分の体に目をやる。

 光を吸い込むような漆黒、それでいて艶やかで玲瓏な鎧が包んでいる。


(ええと……)


 どうやって脱ぐのだろう、と継ぎ目などを探す。

 しかし鎧は傷一つなくぴったりと体に沿っていて、解くことも腕や足を引き抜くなどということもできそうになかった。


「あの、アレスさん……? 離れて、もらえますか?」


 左の籠手にそっと触れながらつぶやいてみる。

 すると籠手の表面に紅い光が走り、ふいに鎧がぎゅっと体を締めつけた。


「……っ」


 まりあの喉から小さく声が漏れた。


 だが締め付けは徐々に緩み、同時に籠手や鎧が黒い液体状に溶けた。

 まりあの体を滑るように流れ、目の前で凝集し、長身の青年となった。


 滑らかな褐色の肌に、剣のきらめきを思わせる長い黒髪。

 紅い目がまりあを見つめた。

 彫像のように整った顔には、憂いの表情が浮かんでいる。


「アレスさん……?」


 アレスの眼差しに、まりあは言いがたい不安をかきたてられた。


「たかが道具の分際で、王の妃にずいぶん馴れ馴れしく触るものだな」


 レヴィアタンが冷ややかに言った。

 とたんアレスの顔に険しさが現れ、《夜魔王》に振り向く。

 その横顔は背が冷たくなるような激しい怒りと憎悪に染まり、まりあは息を呑んだ。


 レヴィアタンは露ほども動じなかった。

 何の痛痒も覚えない様子で、まりあに目を向ける。


「お前もその態度を改めろ。多少の戯れは構わんが、これはお前のだ。躾のなっていない道具は後で面倒なことになるぞ」


 明らかに咎め、アレスを見下すような口調で言われ、まりあはかちんときた。


「そ、そういう言い方はないでしょう! アレスさんはずっと優しいし助けてくれてます!」

「お前の道具としてつくられたものだ。臣下とは違う、混同するな」


 まりあは眉を険しくして、レヴィアタンを睨んだ。


「あなたに言われる筋合いないです! そもそも螺旋牢からあなたを助け出せたのもアレスさんの協力あってのことだし、あなたに攻撃されたときもアレスさんが護ってくれたんです!」


 力一杯反論すると、蒼と紫の双眼が軽く見開かれた。まりあはその両眼を睨み続ける。


(アレスさんは最初からずっと協力してくれてたんだから!)


 少なくとも、まりあごと敵を攻撃しようとしたレヴィアタンとはまったく違う。

 同じ人の姿をとり、何の問題もなく意思の疎通もでき、誰よりも親切だ。

 道具などではない。


 沸々と怒りをたぎらせるまりあの傍らで、当のアレスもまた紅い目を見開いて主を見つめていた。


 やがてレヴィアタンは唇だけで薄く笑った。


「お前は寝言だけでなく、妙な感傷に浸るのも好きと見える」

「か、感傷って……!」

捨て置いてやる。刻印だ。来い」


《夜魔王》は一方的に話を打ち切り、身を翻した。

 玉座の間から出て行こうとする。ラヴェンデルがその後を追う。


(なっ……なんなのこの性悪男!!)


 まりあは憤慨した。

 全力の助走をつけて、あの腹の立つほど大きな背中に拳を食らわせたい。

 仮にも自分に攻撃を向けた後で、まったく悪びれもせず当然のごとく己のもののように扱うとはどういう神経をしているのか。


 触れもしないうちから両開きの扉がゆっくりと開く。

 レヴィアタンはその前でいったん立ち止まり、まりあに振り向いた。


「何をしている。早く来い」

「~~っ!! いま行き――」


 自棄気味に言い返して踏み出したとき、後ろから腕をつかまれた。

 まりあは驚いて振り向く。


 紅の目と合った。

 その眼差しに、表情に、まりあははっと息を呑んだ。


 燃える夕陽のように光り、切迫した目。


「――本当に、いいのですか」


 低く、感情を押し殺そうとしている声だった。

 本当に、レヴィアタンの妃になっていいのか――本気で案じてくれているのだろう。

 まりあは重くうなずく。


「こうするしかありません。それに、その……本当の妻になるつもりは、ないですし」


 アレスの目元が引きつる。


「あんな男の力など借りなくても――」


 まりあは頭を振った。


「戦わないためです。これが一番簡単だし……アレスさんにばかり負担をかけるのもいやですし」


 そう答えると、腕に触れる手がかすかに痙攣した。


「戦わない……ため? わたしを、使いたくないと仰るのですか……?」

「え、そ、その……アレスさんに戦ってほしくないんです! 怪我とかしてほしくないんです。戦わずに済むのが一番ですし、私も戦いたくないので……!」


 まりあは慌てて言い募る。


(まずい言い方しちゃったかな……アレスさんがどうこうっていう問題じゃないんだけど!!)


 自分を庇って全身に亀裂が入ったアレス――あんな姿は二度と見たくない。

 だがまりあが弁明すればするほど、黒剣である青年は呆然としたような表情になり、黙り込んでしまった。


「あの、アレスさん……」


 まりあは言葉を探して口ごもりながら、なんとか自分の意図を伝えようとする。

 こんな反応をされたときどうしたらいいかわからない。


「おい、無駄話は後にしろ」


 レヴィアタンと同じ口調でラヴェンデルが言う。

 アレスも沈黙したままで、まりあは困惑した。その末に、歯切れ悪く言った。


「……続きは後で話しませんか」


 だが、アレスはそれにも答えなかった。

 まりあは振り向きつつも、ラヴェンデルとレヴィアタンたちのほうへ向かった。


 少し遅れて、アレスもついてきた。

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