Interlude:聖女と神官
Interlude2
王と聖女、そしてそれに仕える騎士や女官、神官たちが住むのは青い空に浮かぶ天空神殿《イグレシア》だが、多くの民――いわゆる、平民とされる者たちはイグレシアより高度の低い《下界》と呼ばれる空域にいる。
遠目から見ると、《下界》は空の中で大小様々な礫が集まったような姿に見える。
だがその全体規模は、イグレシアをはるかに上回った。
大きな礫同士は橋で結ばれていて、小さな礫へは天馬の引く空船が行き来している。
イグレシアに住む神官ともなれば、《下界》の住民からは文字通り雲の上の存在であるはずだった。
だがヘレミアスは色々な意味で“型破り”なせいか、ここでも馴染んでしまっていた。
ヘレミアスは神官衣にこそ身を包んでいたが、これまでの神官像からはかけ離れたものだった。
本来首まで覆うはずの襟はかなり弛んで鎖骨の間まで露わになり、特徴的なゆったりとした裾や袖は逆に邪魔とばかりに絞られている。
着崩れているはずなのに、それが洒脱に見えてしまう。
やや悪戯めいた、それでいて人なつこい笑みを浮かべる唇。
真っ直ぐで高い鼻。目尻はやや垂れ気味で、左目尻のほうに小さなほくろがあるせいか、艶っぽい顔立ちだった。
ヘレミアスの金髪は少しくすんだ、灰色がかった金で、肩より少し長かった。
きつく縛られることはなく、無造作に耳にかかっている。
それが不思議と洗練された髪型のように見えた。
その甘い端整な顔、アウグストや近衛隊長エルネストより細い長身とあいまって、貴族の放蕩息子、上品な遊び人といったほうが納得できた。
自分を厳しく律し、日々祈りと奉仕で過ごし、癒やしの術を行使する神官にはとても見えないのだ。
そんな型破りの神官は行く先々で声をかけられ、露店で売られているものを値引き交渉の末に買ったり、あるいは貰い受けたりしていた。
「わあ……! あっ、ごめんなさい!」
彼のあとについて行きながら周りのすべてに目を奪われていた聖女は、人にぶつかって慌てて謝った。前をゆくヘレミアスが振り向く。
「ああもう、ほんとにほっとけないなあんたは。ほら、しっかりつかまっててくれ」
ヘレミアスが手を差し伸べる。聖女は目を丸くした。
「ん? どうした、ほら」
「え、ええ……」
聖女はためらいながらも手を伸ばした。
すぐに、温かく思った以上に大きな手に包まれた。
人混みを裂いてゆくヘレミアスの長身は聖女の目に大きな盾のように映り、頼もしかった。
賑やかな市場を抜けて広場に出ると、大きな噴水が目についた。
陽光が、水しぶきを七色にきらめかせている。
噴水の台にヘレミアスが腰掛け、聖女も隣に座った。
するとヘレミアスは小さな瓶を差し出した。
「あんたに。こういうの好きだろ?」
瓶の中には大小様々な淡く色づいた砂糖菓子が入っていた。
「まあ! ありがとう!」
聖女は大喜びでそれを受け取った。ヘレミアスの言う通り、甘い物が好きなのだった。
小瓶を開け、ヘレミアスにも分けようとした。
だが、ヘレミアスは笑って、甘い物は苦手だからと辞退した。
聖女は見るからに甘い砂糖菓子たちを一つ二つと口に入れる。
「どうだ? 《下界》もイグレシアとは違う良さがあるだろ」
聖女は大きくうなずいた。
ふと空を見上げると、太陽はずいぶんと遠く、イグレシアに降り注ぐ光より少し柔らかく見える。
その中にたった一つの小さな点があった。
――ここからは、イグレシアはあんな風に見えるのだ。遥か遠くの小さな点として。
どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえた。
明るい体毛の小さな鳥たちが、砂糖菓子に誘われて集まってくる。
聖女は立ち上がり、砂糖菓子を差し出すように両手を伸べる。
さえずりと軽やかな羽音に囲まれ、聖女は笑い声をあげた。
ヘレミアスは目を細めてそれを見つめ、つぶやいた。
「――ああ。あんたはどこにいても、本当に輝いてるんだな」
小鳥と戯れる聖女の体は薄い光に包まれていた。《光精》が溢れ出している。
小鳥たちが空に帰っていったあと、聖女は噴水の台座に座り直して、はたと気付いた。
「あの、ヘレミアス? 魔法の極意を教えてくれるのよね?」
魔法の極意を教えてくれと言ったら、息抜きにとなぜかここへ連れて来られたのだった。
ヘレミアスは笑った。
「そうだったか? ……すねるなよ、わかってるって。そうだな。極意というかあんたにはそもそも俺の比じゃないくらい素質がある。あんたは女神の化身だからな。……ってほら、その顔」
少し慌てたように言われ、聖女は疑問符を浮かべた。
唐突に、ふにっと頬をつままれる。
「思い詰めた顔すんな。真面目すぎるんだよ。そんなに焦らなくていい」
でも、と聖女は反論しようとする。
するともう片方の頬をつままれ、強制的に反論を封じられた。
「にゃ、にゃにふ……」
「いいか、聖女だからって何もかも完璧にこなす必要はない。誰だって思い悩んで、試行錯誤して、時間をかけてことを成し遂げていくんだ。あんたは女神の化身だが、なにも女神そのものみたいに完璧になる必要はないんだ」
親身で温かな、兄のような声だった。他の神官の礼儀正しく美しい言葉とは違う。
だが、ヘレミアスの言葉は聖女の胸にひどく染みた。
――ずば抜けた癒やしの技を持つヘレミアスを間近に見て、憧れのみならず焦りをも覚えたのを見透かされている。
『いかがですか、聖女様。あの者は言動はともかくとして力は確かです。聖女様のお役にたてるとよいのですが――』
『あの者は参考になっていますか? 何かわからないことがありましたら遠慮なく……』
神官達はまったくの善意から、聖女に期待した。
癒やしの力について学ぶためにヘレミアスについて回る聖女に、彼の技を素早く吸収することを望んだ。
女神の唯一の化身、その力の継承者、王と並んでみなを導く者――それが《陽光の聖女》だった。
だから、はやくヘレミアスのようにうまく癒やしの力を扱えるようにならなければならない。
周りの期待に応えなければならない。やがてはヘレミアスも助けられるように。
だがどうしたらヘレミアスのようになれるのかわからなかった。
ただただ目の前に現れる奇跡に呆然とし、無垢な期待の言葉をかけられるたびに重石が増えていくようだった。
――そんな気持ちは自分一人の胸にしまってあったのに、ヘレミアスは察してしまったらしい。
「どうして……ヘレミアスは、そんなに相手の気持ちがわかるの?」
ヘレミアスは笑って、
「それは、俺も同じ《光の眷属》だからだ」
まるで家族に向けるような温かな、そして空のように明るく澄んだ声で言った。
それ以来、聖女はますますヘレミアスを慕うようになった。
魔法の才に優れているというだけでなく、型破りなようでいて誰よりも慈悲深く神官らしい男に親愛と尊敬のまじったものを抱いた。
常に同行して熱心に彼の技や姿勢を学んだ。他人にどう見られているかなど気にもしなかった。
そんなある日、ヘレミアスはからかいまじりに言った。
「あんたと俺、噂になってるみたいだぜ」
聖女はきょとんとした。
「どんな噂?」
ヘレミアスは、にやっと不敵に笑った。
そしてふいに、聖女は壁際に追い詰められた。
閉じ込めるように、ヘレミアスは壁に腕をついている。
見上げると、神官とは思えぬ甘い顔が間近にあった。
垂れ気味の優しげな目。目元のほくろが白い肌の中で控えめな装飾となって、色香を漂わせている。
「こういう感じのだ。周りの期待に応えてもいいか?」
声まで甘い、戯れのささやき。
ヘレミアスはいつだってからかうように、なんてことはないようにあらゆることをこなす。
――どこまでが本気で、どこまでが戯れなのかわからないほどに。
ヘレミアスの、遊び慣れた貴公子のような顔が近づいてきて聖女は固まった。
「……!」
息を止め――耳まで、赤くなった。
その反応を見たヘレミアスが目を見開いて、一瞬、顔を強ばらせる。
だがすぐにいつもの気さくな笑いに覆われ、噴き出す声に消えた。
「あんたほんっとにからかい甲斐があるなあ!」
ヘレミアスは身を離し、腹を抱えて笑い転げた。
聖女はしばらく固まっていたが、やがて頬をふくらませた。
「も、もう!!」
そう抗議しながら、聖女の鼓動は速くなり、足元は浮つくような感覚に包まれていた。
地上間際で埋もれていた芽がふいに顔を出すように、聖女の中でその感情がはっきりと形をとりはじめたのはこのときからだった。
――だがこれ以後、ヘレミアスに巧妙に避けられるようになった。
……《光の眷属》と《闇の眷属》の戦いは続き、激化した。
傷つく者は増え、聖女はより激しい戦場へも同行するようになった。
護衛は常につけられた。
しかしその最中、ほんのわずかな油断、あるいは隙を突くように一本の流れ矢が飛んだ。
無造作な矢は、兵の治療にあたっていた聖女の胸に吸い込まれた。
「聖女……っ!!」
ヘレミアスの、聞いたことのない叫び声が耳を打つ。
聖女は自分に何が起こったのかわからぬまま倒れた。
やがて、自分の中から何かが抜け出ていくのを感じた。
衣が瞬く間に赤く濡れていく。
「あ、れ……」
体に刺さる異物に、赤子がするように手を伸ばして触れる。
歪な矢の、硬く冷たい感触。
自分の体とは決して相容れない殺意の感触。
「ああ、しっかりしろ……!」
天を仰ぐ視界に、見たこともないほど動揺したヘレミアスの顔が映った。
優しげな目は苦しげに歪められ、その下に色濃い隈ができて、顔は青ざめている。
彼もまたひどく消耗しているのだと、聖女はこのときようやく知った。
聖女は奇妙にも冷静だった。
自分が倒れたというこの現実を受け入れられなかったからか、あるいは戦場に出るということの意味を理解していなかったからかもしれなかった。
ただ、何度も聞いた音――負傷した者たちのうめきと歯を食いしばる声だけがいまだ耳に聞こえていた。
だから、言った。
「わたしの代わりに……彼らを助けて」
――自分が癒やせなかった者たちを、代わりに癒やしてほしい。
「ヘレミアスの力……わたしには、使わなくていいわ」
自分やヘレミアスがここに来たのは、傷ついた騎士たちを癒やすためだった。
聖女はその使命を、愚直なまでに遂行しようとした。
だから、自分には力を使ってくれなくていい――。
「――っそんなこと言ってる場合か……!!」
端整な顔がひどく歪み、いまにも泣き出してしまいそうに見えた。
手がかざされる。魔法が行使されることを示す光がこぼれる。
聖女の意識はどこかへと急速に引きずられていく。
ヘレミアスの姿がかすんでいく。
「だめだ、俺を見ろ……聖女――!!」
渾然とした長い眠りのあと、聖女はふっと目を覚ました。
そこは戦場ではなく、大いなる
侍女が聖女の目覚めに気付くと騒ぎになり、誰よりも最初に駆けつけたのはヘレミアスだった。
「もう起き上がれるのか!? いい、安静にしてろ……!! どこか痛むところは!?」
寝台から立ち上がろうとするのを押しとどめ、ヘレミアスは焦燥しきった顔で聖女の様子を確かめた。
その後、沈むような長いため息をついて手で目元を覆った。
それからしばらくは無言だった。
聖女がおそるおそる声をかけると、彼は更に深く息を吐いた後、疲労の色濃い顔を上げて口を開いた。
「あんたはもう、戦場に出るな。今回は女神の加護があったが……。あんたに万一のことがあったら、兵たちの士気にかかわる」
疲労も露わな顔とは別に、その声は決然としていた。
それまでヘレミアスが見せたことのない険しい声と表情だった。
「いや! 今度は、こんな油断はしないわ……っ!」
「だめだ。あんたは戦士じゃない。前線へ行くな。安全なところにいろ」
ヘレミアスは頑として譲らなかった。だが聖女も同じだけ言い返す。
「それなら、これから先の戦いで何もせずに後ろで見ていろと言うの!? アウグスト陛下やエルネストさんだって、他の騎士も……ヴァレンティアだって助けるなと言うの!?」
――ヘレミアスが養子に迎え、大切にしてきたヴァレンティアを。
異端の神官は一瞬沈黙した後で、口を開いた。
「あんたがいなくても、俺や他の神官がなんとかする。あんた一人が後ろに下がったところで、騎士たちすべてを見捨てることにはならない。あんた一人が後方支援を担っていると思うな」
静かな、だが怒りを感じる声だった。
聖女ははっと口をつぐみ、うなだれた。
自惚れるな――そう叱責された気がした。いつの間にか自分一人で重責を担っているつもりになっていた。
ヘレミアスが、小さく悪態をつくのが聞こえた。
「ああもう……、頼むよ。みんな、あんたが大切なんだ」
なだめるような響きを感じて、聖女は複雑な気持ちになった。
子供をあやすような態度に、悲しみと悔しさがわいた。
同時に、まさに子供じみた反発心を抱いた。
ヘレミアスを睨んで、反論する。
「みんな? ヘレミアスも? わたしが《陽光の聖女》だから、そうなの?」
神官は目を見開いた。
一瞬言葉に詰まった顔をして、それから口を開いた。
「……そうだ。俺も、あんたが大切だと思ってる」
叱責でも説教でもない、低い声だった。
聖女はうつむいた。
ヘレミアスの口から大切だと言われて鼓動が乱れた。
《陽光の聖女》だから当たり前のことなのに。何も特別なことではないのに――。
「本当に……、頼むよ。これ以上俺を参らせないでくれ」
かすれた声に聖女ははっとして顔を上げた。
ヘレミアスと目が合う。
そこには、明るく気さくな神官ではなく、激務で疲労に染まる顔でもなく、切迫した一人の男の顔があった。
「……これ以上とは何?」
聖女は聞いた。胸の内で忙しない鼓動の音が響く。
「だから……、」
ヘレミアスはそう言ったきり言葉に詰まり、目を逸らした。
今度はヘレミアスのほうがうなだれ、首の後ろに手で触れた。
深々とした溜息。
そして。
「――あんたに悪ふざけをしたとき、まずいな、と思った」
ぽつりとこぼされた言葉に、聖女は虚を衝かれた。
「本当にあんたは素直で……、わかりやすい。あんたの顔だ。そんなつもりはなかっただろうが、神官と聖女、教え役と見習いの範疇を超えようとしてる、と思った」
聖女は少し遅れてその意味を悟った。顔が赤くなった。
――噂について言われたときのことだ。
あのときから、自分の中でヘレミアスに対する思いを知ってしまった。
「いや、俺のせいだ。あんたは悪くない。純粋で、無垢で……俺が線引きをしなければならなかった。なのにそれを見誤った」
その口調に後悔が滲む。聖女はそれに息が詰まった。
ヘレミアスは、後悔している――。
「あれから……距離を置かれているように感じたの。そのせい、だったの?」
ヘレミアスは力なく笑って、否定しなかった。
「遅かったんだな。俺のほうが、先に超えちまってたらしい」
聖女は目を見開く。鼓動がひときわ跳ね上がった。息苦しさが消える。
そして無垢と言われた唇で、震える声をこぼした。
何を、超えたのか――。
ヘレミアスは静かに笑った。
その後で、それ以上に強く真摯な目で聖女を見つめた。
「――俺は実際に剣を持って戦ったことはない。仲間が傷つけられて怒りは覚えるが、《闇の眷属》に憎悪まで覚えたことはなかった」
抑えられた声の、強い自制の奥に激しい感情が滲んだ。
「だがあんたを傷つけられて……、あんたが命を落とすかもしれない状況になって、変わった。俺は《闇の眷属》が憎い。いまは、ヴァレンの顔さえまともに見られそうにない」
聖女ははっとした。
ヘレミアスの口から憎いという言葉が出たことに愕然とし、おそろしくなった。
自分が、彼とヴァレンティアとの関係を歪めてしまおうとしていることに
声を失う聖女の姿を見つめ、ヘレミアスは唇に自嘲を浮かべる。
「――神官と聖女のあるべき姿を越えちまった。俺にとって、あんたはもうただの聖女じゃない」
聖女の目とヘレミアスの目が合った。
異端の神官と聖女は言葉もなく、どこか息の詰まるような無言の間、ただ視線を絡めていた。
それはこれまでとは決定的に異なる沈黙だった。
その沈黙は聖女に決定的な理解をもたらした。
ヘレミアスと自分の気持ちが同じであることに、目眩のするような喜びが体中を駆け巡った。
やがてヘレミアスが力なく微笑した。
「こういう言い方は卑怯だよな。でも、頼む。みんなを安心させるためにも、安全なところにいてくれ。あんたは支えなんだ。みんなを……、俺を、安心させてくれ」
聖女は今度は反論できなかった。
ヘレミアスの気持ちを知り、そして自分の気持ちを知ったいま、彼を傷つけるようなことはできなかった。
「……わかったわ」
聖女は静かに答えた。
やがて、大きな手がどこかためらいがちに伸びて、聖女の手に触れた。
――いつか触れたときと同じ、大きな手。だがあのときよりずっと熱い。
神官と聖女の手は、重なりあい、互いを求めるように強く絡み合った。
聖女は、前線へ行く仲間とヘレミアスの帰りを待ち続けた。
身を焼かれるような時間だった。
長い長い時間のあと、永遠にも思える月日の末に、戦いの幕は下りた。
《聖王》アウグストは《夜魔王》レヴィアタンに挑み、討ち取った。
聖王は二度と戻ってこなかった。だがこれによって趨勢は決した。
残された《光の眷属》たちは、総力をあげて《闇の眷属》を滅ぼす。
悪と穢れは一掃され、世界に光と平和が満ちる。
ヘレミアスと聖女たちは平和な世界を生きてゆく。
――《王の庭》の木は、半身の後を追うように密かに枯れていった。
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