Chap4-5


 地の底から響いたかのような声に、まりあは肩を揺らした。


 顔を上げると、見とれるほど精悍な角を取り戻した《夜魔王》の目がまりあを射た。

 その青はより深く冷たく、紫はより赤みを増し憤りの色に輝いている。


 まりあは黒の剣を握る手に力をこめ、支えにして立ち上がった。

 土から剣を引き抜く。


「休戦と、言ったはずです!!」

「これは戦ではない。《永夜界》を治める王が、己の領土で臣下を解放しているだけだ。休戦を破ったというなら俺の領土に侵入してきた賊どものほうだ。お前の背中にいるような者どものことだ」


 まりあは言葉に詰まった。

 レヴィアタンの言葉は一理あった――確かに、アウグストたちのところへ攻め入ってはいない。


 まりあの背からヴァレンティアが叫んだ。


「休戦を持ちかけておきながら、封印した魔性どもを解放してまわる――明らかな戦の準備、こちらに対する挑発ではないか! 我々は封印を護ろうとしただけだ!」


 はっとしてまりあは振り向く。

 碧の目の騎士は、両眼を青い炎のように光らせてまりあとレヴィアタンを睨んでいた。


「挑発? 笑わせるな。王が臣下を助ける行為を曲解し、我が領土に侵入する蛮族どもを迎撃して何が悪い。王の領土に侵入する賊を排除することを、お前たちの言葉では挑発というのか?」


 低くよく響く声で、蒼紫の瞳を持つ王は反駁する。

 相反する二者の狭間で、まりあはうめいた。どちらの言葉も理解できてしまう。

 まりあはヴァレンティアに叫んだ。


「とりあえずこの場は退いて! ちょっと行き違いがあっただけだから……!!」


 そして、《夜魔王》に向き直る。


「私に黙ってこんなことしないで……!!」

?」


 レヴィアタンの声が大気を震わせ、まりあを打った。

 その手が再び持ち上げられ、蒼と紫の間で揺らめく雷が黒の風が掌に収束していく。


「――王に剣を向けるということの意味をわかっているのか」


 猛る雷と風の合間に、レヴィアタンの声が響く。

 まりあはぎゅっと唇を噛んだ。剣を握る力を砕かれそうになる。


「向けたくて、剣を向けているわけじゃない! とにかくヴァレンティアさんも、レヴィアタンさんも止めてください! 退いて!」


 まりあは声を荒らげる。

《夜魔王》はわずかに目を見開いた。

 だが次にまりあを見た目は、刃のように冷たかった。


「己の定めを自覚しないだけならまだしも……おれの妨害をすることは許さん」


 ぞっとまりあの肌は粟立った。

 空気中にレヴィアタンの言葉と気配が満ちて、皮膚を刺す凍気に苛まれる。

 剣を握る手が震える。


 レヴィアタンの背に、黒い陽炎のようなものが揺らめく。

 ――《夜魔王》の影が突然肥大化し、立ち上るかのように。


(な、に……あれ――)


 影のようでありながら、まったく違う。


 黒い煙で描かれた影絵は、四肢を持つ巨大な獣の姿をしていた。

 その背に一対の巨大な翼が開いている。蝙蝠のそれに似た形。

 首から尾にかけては長い稜線を描き、長い首の先に獣の強靭な顎があり、頭部には《夜魔王》と同じ角がある。

 だがその全てがずっと大きい。


 まりあはいくつもの神話の中で語られる最強の幻獣を連想した。

 世界中の英雄譚に現れ、最強の敵として描かれ、その討伐は最高の武勲としてあげられる、最も旧く強い獣――。

 巨大な獣の影の中で、蒼と紫の目の光が光っている。


 


 ただただ、まりあは子供のように怯えた。

 本能が悲鳴をあげている。

 彼の背にいるいかなる異形たちでさえ比べものにならない。


「二度は言わん――退け」


 最後の警告は幾重にも谺し、地鳴りのような響きを帯びる。

 その背に揺らめく巨大なが声を重ねている。


 まりあの体は震えた。

 いますぐ逃げたい、レヴィアタンの視界から逃れたいと思った。


「退け! 私の邪魔をするな……!!」


 背で、ヴァレンティアが声をあげた。

 一瞬、まりあの足は逃げだそうとかすかに動いた。


 何もかも投げ出してしまおうと思った。

 どちらも自分の気持ちなんてわかってくれない。

 もう知ったことか、勝手にやっていればいい――。


 だが体はそれ以上動かなかった。


《夜魔王》レヴィアタンの強さを

 アウグストをもってようやく相討ちになり、それ以外には螺旋牢に封じるのが精一杯だった。


 ヴァレンティアは、近衛隊長エルネストに劣らぬ素質の持ち主だった。

 だがそれでもなおレヴィアタンには及ばない――それを知ってしまっている。


 まりあはぎゅっと唇を引き結び、黒剣を握る手に力をこめた。

 蒼と紫の《夜魔王》を睨む。


 レヴィアタンは真正面からその眼差しを受け止めた。

 そして眉一つ動かすことなく、掌に収束させていたものを放った。

 紫と蒼に輝く雷と黒い竜巻状のものが絡み合いながら迫り、まりあの足を竦ませた。


「――っ!!」


 落雷のような轟音が全身を殴打する。

 強い耳鳴りのあと、聴覚が数秒の間麻痺する。

 衝撃がまりあの全身を突き抜けていった。

 剣を握る両手は一時感覚を失い、取り落とさないでいられるのが不思議なほどだった。


 視界の端で、紫と黒の風雷が二つに裂けて左右を通り過ぎていくのを捉えた。

 火に焼けたときに似た、しゅうしゅうという音が響く。


 まりあはヴァレンティアに叫んだ。


「は、やく……逃げ、て!!」


 声はかすれ、黒いドレスの下で足はいまにも崩れ落ちそうだった。


 だが《光滴の杯》で受けた痛みに比べれば、かすり傷ほどにも感じない。

 側にはアレスもいる。


 背で、うめきに似たかすかな息が聞こえた。

 背中越しに光を感じた。


 まりあは振り向かない。

 だから、怒りと困惑のまじった表情でヴァレンティアが見つめているのも、仲間に続いて天馬で空を駆け上っていく姿も見なかった。


 やがて頭上でくぐもったような爆発音と共に一瞬の閃光があった。

 境界を越えて、ヴァレンティアたちが帰って行ったことを示す残光だった。


 そして夜空に静寂が戻っても、なおまりあは剣を構えていた。

 ――動けずにいた。


 だが限界がきて、膝から崩れた。

 黒剣を地面に突き立て、縋る。


 しかしその剣が溶けた。

 籠手、足甲、鎧が溶けて剣と融合し、長身の青年となって目の前に立つ。


 まりあは顔を上げてアレスを見た。

 紅の瞳は焔のように輝いている。

 まりあを見つめてひどく痛ましげな顔をした後、ゆっくりと《夜魔王》に向き直った。


「私の月に……手を出したな」


 アレスは凍てつく声を響かせ、その右腕は何かを呼び寄せるかのように軽く持ち上がる。

 一切の光を通さぬ闇が集い、アレスの手の中で形を変え、長大な剣になった。


《夜魔王》は微苦笑とも冷笑ともわからぬ、読めない表情を浮かべている。

 そうして悠然と、まりあに向かって歩を進めた。


 その意図がわからない――と遅れて実感がきて、まりあは背を震わせた。

 自分が間に立っていたのに、レヴィアタンはためらわず撃った。

 本当に、この自分ごとヴァレンティアたちを葬り去ろうとしていた――。


 アレスが間にいるのが見えていないかのようにレヴィアタンはまりあに手を伸ばす。

 だがその瞬間、風を裂く音が響いた。


 まりあの目はかろうじて、アレスが振るった剣の残影を捉えた。

 巨大な鎌鼬を思わせる衝撃波が《夜魔王》にことごとく襲いかかる。


 レヴィアタンは動じず、舞うように後方へ跳んで躱した。


「所有物ごときが王に牙を剥くか。それとも、お前の意思か、闇月?」


 挑発的な、どこか面白がっているような声だった。

 しかしそれとは対照的に、控えていた《闇の眷属》たちがざわついた。

 アレスとまりあに刺すような視線とささやきが集中する。


『王に牙を剥いた――』

『《闇月の乙女》は我らの味方ではなかったのか?』

『裏切り者か――』


 まりあは息を呑んだ。

 よろめきながら立ち上がり、レヴィアタンを睨んだ。


「先に手を出してきたのはそっちじゃないですか! いまもまた攻撃しようとしてたでしょう!?」

「いまは違う。第一、俺は警告してやった。それでも立ちふさがったのはお前だ。俺の力を受ける覚悟なく間に入ったわけではないだろう。俺が殺す気であればお前はいまそこに立っていない」


 まりあは喉の奥でうめいた。


「お前は俺の警告を無視してまで光の凶徒どもを庇った。――それは、《闇の眷属われわれ》にたいする裏切りでしかありえん」

「そ、そんなんじゃ……!!」

「俺の邪魔をしたということは、奴らに封じられた《闇の眷属》たちをそのままにしておくという意思表示でもある。同胞を護らず、同胞のために戦わず、己の責務を放棄し、逆に凶賊どもを護り逃す――お前の望みは、《闇の眷属》を混乱させることか。それとも、滅亡そのものか?」


 レヴィアタンの声が低くなる。その背に再び、あの巨大な黒の影が揺らめいた。


 まりあは竦んだ。

 レヴィアタンから立ち上る影のせいだけではなく、整然とした言葉に打ちのめされたからだった。


 ――《闇の眷属》たちの混乱。滅亡。


 それは確かに、《陽光の聖女プレイヤー》であったときに何も考えずに行ってきたことだった。


 脳裏に、礼拝堂で祈っていたもう一人の自分の姿が蘇る。

 もう一人の昏木まりあ。《陽光の聖女》。


 いま、――そうであるはずの――昏木まりあである自分の目の前には、黒衣の青年の背があった。

 そして、異色の双眼の《夜魔王》と、その僕たちが。

 夜の世界に生きるものたちが。


 ハルピュイアの弾劾が耳の奥で反響する。

 この世界で自分は何をすればいいのか。


 どの選択肢を選べばいいのか。

 どの結末を目指せばいいのか。

 彼らを滅ぼしたいのか――。


「わ、私はただ……っ、戦いたくないだけです! 《光の眷属》たちも攻撃したくないし、《闇の眷属》たちにも攻撃したくない!! どっちも滅亡してほしくなんかないです!!」


 考えがまとまらぬまま、まりあは体の底から叫んだ。

 だがそう声を振り絞ったあとで、自分の言葉が一条の光のごとく世界を照らすのを感じた。


 どちらも攻撃したくない。戦いたくない。


 ――これは、選択肢のあるゲーム画面ではない。

 だから。


「《闇の眷属》を護ります! でも、それは《光の眷属》と戦って滅ぼすという方法じゃないです!! 別の方法を探します!!」


 今度は明確に意思を持って、宣言した。

《夜魔王》がかすかに目を見開く。

 そしてアレスまでもが振り向いて、紅い目を大きく見開いた。


 沈黙が訪れる。風と草のそよぐかすかな音だけが聞こえる。


 やがて――押し殺したような、低い笑い声がまじった。


「愚考も突き抜けるともはや狂気か。いいだろう、お前がそれを望むならやってみるがいい」


 予想と異なる反応に、まりあはやや肩透かしを食らった。

 だが大きな安堵を味わう。


「ただし、それはお前一人の話だ。《闇の眷属》がそれに付き合う理由はない」

「! な……っ!!」


 安堵したのも束の間で即座に突き放される。

《夜魔王》の、蒼いほうの目が氷海の色に染まっていた。


「お前は《闇月の乙女》の役目を果たしていない。王たる俺は無論、《闇の眷属》すべてが、《闇月の乙女》に従う道理はない」


 ほとんど敵に向けるような声だった。色の違う両眼はまりあを冷たく睥睨する。

 まりあはかろうじて口を開いたが、言葉が出てこなかった。


《闇月の乙女》として責務を果たしていない――それは事実だった。

《闇月の乙女》でなければ、残るのは昏木まりあというゲームの外の、レヴィアタンたちにとっては無関係の人間でしかない。


 まりあは無意識に、アレスに目を向けた。

 だが常に味方でいてくれる彼さえも、ひどく困惑した顔でまりあを見つめていた。

 その唇が優しい慰めの言葉を紡いでくれることもなかった。


《夜魔王》が再び右手を持ち上げる。

 それが自分に向けられているのを見て、まりあは怯んだ。

 アレスが瞬時に身を反転させ、闇色の剣を構える。


 レヴィアタンの手が開く。

 ほの蒼い光を放ち、魔法陣が展開された。

 空に描かれた魔法陣は無数の光線を発した。

 それは、一斉にまりあめがけて飛来する。


 アレスは大きく剣を振り上げ、向かってくるそれらを斬り捨てようとする。

 だが殺到した光線は、寸前ですべてまりあを迂回した。

 アレスが振り向き、まりあを抱き寄せた。


 まりあの後方に光線は直撃し、爆発を起こした。

 アレスとその外套がまりあを爆風から守った。


 青年に抱かれながら、まりあは光線が集中した場所を見た。

 爆発の衝撃で靄が漂っている。


 だがその向こうに、黒い煙が立ち上るのが見えた。

 地下から噴き出した影のようだった。

 そしてその中に、が揺らめく。


『同胞よ――我らが、王よ』

「起こすのが遅れて悪かったな、ゼクス」


《夜魔王》が気安く言うと、黒い煙――ゼクスと呼ばれたものもまた低い笑い声をもらした。


「これから休む間もなく働かせるから覚悟しておけ」


 レヴィアタンが不敵に笑うと、ゼクスは感嘆と歓喜の声を漏らした。


 封じられていた高位の《闇の眷属》のひとりが解き放たれた――。

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