Chap4-3


《闇月の乙女》が閉め出された後、王の間には本来の主たる《夜魔王》とその臣下だけが残った。

 山羊の頭に男の体をした夜魔が、抑えた声で問うた。


「――よろしいのですか」

「いいわけがない。がこの状況で自覚を持っていないなどとは、愚かにもほどがある」


 異色の双眼を持つ王は率直に答えた。

 しかしその声には焦燥も怒りも苛立ちもない。

 くつろいだ様子で両手を組んでいる。


「だがただ無能や怠惰なわけでもない。然るべき状況になればあれも目が覚めるだろう」


 そう言って頭上を見た。

 その視線の先には、《永夜界》の風景があった。

 いくつもの映像がゆっくりと切り替わる。


 山羊の魔性が再び口を開いた。


「《闇月の乙女》がもたらしてくださった休戦で、こちらの戦力を消耗せずに敵を撤退させられました。しかし、同時にこちらの動きも封じられ――」

「封じられる? 何がだ。敵の塒に攻め込むだけが戦いではないぞ」


 王は唇の端をつりあげながら言う。

 山羊頭の夜魔をはじめとする《闇の眷属》たちが、意図をはかりかねるといったような困惑を漂わせた。


「それでは……?」


《夜魔王》はなおも頭上に映し出される景色を見つめている。


「捕らわれたのはおれだけではない。臣下を助け、守るのが王の役目。いまは戦力を回復させることが最優先だ。――行くぞ、戦の準備だ」



        *



「厄介ごとを私に押しつけるなというに!!」

「す、すみませ、ん……?」


 小柄な体から発される妙な迫力の叱責に、まりあはたじろいだ。


 玉座の間から追い出されたあと、パラディスの中をふらついているとラヴェンデルに捕まった。

 そして有無を言わさず大きな部屋に連れて行かれ、いきなり怒られることになったのだった。


 まりあの背後に控えたアレスが心底不快げな顔をした。


「私の女神を侮辱するか」

「《闇月の乙女》ともあろうものが、まともに力を使えないでは話にならんのだ! 愚弟を奪還しに行くときにしろ、光の凶徒どもと対峙したときにしろ、対応が遅い! 反応が鈍すぎる! なんだあの腑抜けた術は!!」


 まくしたてながらラヴェンデルはますます憤慨した。

 まりあが思わず首を引っ込めてしまうような剣幕だった。


「あの……すみません。魔法? の使い方とかよくわからないんですけど……」

「愚か者め!! いつまで寝ぼけている!! もっと危機感を持て! 術の使い方がわからないというなら、なぜそうも能天気に過ごしていられるのだ!!」


 まりあはうう、とうめいた。

 確かに、魔法がよくわからない危機感というものはあまりない。

 アレスが庇うように言った。


「私の女神が手を下すまでもない。《闇月の乙女》にむやみな力の浪費を求めるのはやめろ」

「何が浪費だ!! 使うべきときに使うこともできないでどうやって無駄遣いする!!」


 本人を差し置いて二人は火花を散らす。

 まりあはうなった。確かに魔法を使えたら便利だし、使えるのならもちろん使いたい。

 だがそこまで絶対に使わなければならないという感覚もなかった。


 自然と、自分を庇ってくれる青年を見上げる。


(……アレスさんがいてくれるしなぁ)


 剣はおろか剣道の類も一切やったことのない自分を助けてくれる上、これほど強いのに丁寧で穏やかに接してくれる。自分を護ろうとしてくれている。


「いいか、一度しか教えんから頭にたたき込め!」

「えっ?」


 まりあが驚くと、ラヴェンデルはその反応をどう捉えたのか、冷ややかに言った。


「言っておくが、後で愚弟に聞くなどと考えても無駄だぞ。あれは天賦の才だ。力を使うという感覚もなく術を使う。教えを乞うても、逆にどうしてわからないのかと間抜けな顔をされるだけだ」


 まりあはぱちぱちと瞬きをした。

 しかしレヴィアタンがこの世界でも《天才》と呼ばれる部類であるらしいことには妙に納得してしまった。


 ――ゲーム内でも、歴代最高の力を持つ《夜魔王》と言われていたのだ。


 ラヴェンデルがふいに、その紫の目を細めてまりあを見た。

 一瞬、《夜魔王》を錯覚するほど冷たく威圧に満ちた目だった。


「……お前が《闇月の乙女》であろうとそうでなかろうと、力がなければ我らはお前を認めない。お前が王とともにみなを導き率いるのなら、相応の力を示せ。をだ」


 まりあは息を呑んだ。


(べ、別にみんなを導くとかそんなこと考えてないけど……!)


 圧倒されつつ、抗うように内心でつぶやく。

 だがそれに構わず、ラヴェンデルはよく通る声で語り始めた。


「いいか、《闇月の乙女》はヘルディンの純なる破壊の力を継承する唯一の器だ」


 いきなりまりあの肝を冷やすような言葉が飛び出した。


「その破壊の力をどう引き出すかはお前次第だ。力は既に与えられている。お前はそれを腐らせることなく使わなければならない」


 まりあは返答に窮した。この体に、そんなおそろしい力があるとは思えなかった。

 だが既にあるという言葉には、思わず両手に目を落とした。


(力がもうあるなら、私があのときちゃんと使えれば……アレスさんをあんなに傷つけなくて済んだってことだよね)


 礼拝堂での聖女との対峙。

 いまにも砕け散りそうな剣の姿を思い出し、背が凍るようだった。

 何もできなかった。

 あのとき、ラヴェンデルが機転をきかせてくれなければ取り返しのつかないことになっていたのかもしれないのだ。


(アレスさんにばかり頼っちゃだめだ)


 積極的に戦いたいとは思わない。

 だが――護るための力はいる。

 二度とあんなふうにアレスを傷つけないための力が。


 まりあは顔を上げた。


「……よろしく、お願いします」


 ――それから数日の間、まりあはラヴェンデルという厳しい教師を前にひたすら教えをたたきこまれる従順な生徒と化したのだった。




(……つ、疲れた……)


 まりあは窓辺に突っ伏した。

 空いた部屋の一室を自室として使うようになっていた。

 そこは窓の外の眺めがよく、しばしばこうして寝そべって過ごした。


 ラヴェンデルの怒濤の教えになんとかついていったはいいが、限界まで頭を酷使したせいで痛みを覚えた。こめかみをもむ。


「我が女神。どうか無理はなさらないでください」


 まりあははっと顔を上げた。

 アレスが、気遣わしげにこちらを見ていた。紅の瞳は労りと不安に満ちている。


「あの王姉の教えなど乞わずとも……」

「う、ううん、いいんです。大丈夫。必要なことですし」


 まりあは頭を振った。


「しかし……」

「魔法が使えたほうがいいのは本当にその通りですから。それに……」


 なんとなく答えてしまってから、まりあははっと口を閉ざした。


「それに?」


 アレスが不思議そうな顔で続きを促す。

 まりあは気恥ずかしくなって言い淀んだ。ごまかそうと試みる。

 だが無垢な紅の瞳はまりあをひたと見つめ、待っていた。


「うう……。その、アレスさんを少しでも護れたらな、って思いまして」


 薔薇色の瞳が、見開かれた。


「護る……? 私を?」


 本気で驚いているような声だった。

 まりあは目を逸らして早口に続けた。


「や、その、向こうの礼拝堂から逃げるとき、私、何もできなかったので。あれで、アレスさんをすごく、傷つけてしまって」

「……あれは、私の力不足が」


 まりあは頭を振って遮った。


「そんなことはないです。私……アレスさんがあんなに傷ついたのをみて、ものすごく怖かったんです。アレスさんが、そのまま……い、いなくなったら、どうしようって思って。私のほうが、謝らなくちゃいけないんです。頼ってばかりで……」

「あなたが謝ることなど何もありません。私はあなたの剣ですから――」


 優しい声でアレスは言う。その優しさはひどく心地良く、酔いそうになる。

 同時に、まりあを息苦しくもさせた。


 ――自分は、これほどの献身を向けられるのに値しない。こんな一方的に受け取る資格はない。


 喉の奥に塊が詰まったようだった。それを飲み下して、口を開いた。


「アレスさんは、私が《闇月の乙女》だから、こんなに助けてくれるんですよね。でも私は、《闇月の乙女》としては未熟……だし、そもそもそこまでしてもらえるほどの人間じゃないです。《闇月の乙女》だからって理由だけで、アレスさんがここまでする必要はないっていうか――」


 ――そういう設定。ゲームの要素。

 そう納得させていたはずの胸の内から、本音がこぼれ落ちた。

 いまはアレスも、この世界のこともただのゲームとして割り切ることはできなかった。


 ここまでしてくれるアレスの、本当の思いはどこにあるのだろう。


「《闇月の乙女》、どうか顔を上げてください」


 まりあの指先がかすかに震えた。頭に重石がのし掛かる。

 ――ああやはり、と思った。

 アレスにとってこの自分は《闇月の乙女》なのだ。決められた設定、世界の理。


「私を見て」


 重ねられたその声は、なにか抗いがたい力を帯びていた。

 まりあは緩慢に顔を上げる。

 温かな血潮を思わせる目――とても剣とは思えぬ両眼が、そこにあった。


「私はあなたに作られた、あなたの所有物です。私はそのことに喜びを感じますし、あなたのために毀れることは本望です。……ですが」


 黒く長い睫毛が上下にゆっくりと揺れる。

 そうして、薄く柔らかな唇が綻んだ。


「剣である私を、あなたは護りたいという。傷つけたくないという……そんなふうに、思ってくださるのですね」


 まりあは目を瞠った。

 アレスの声には隠そうともしない喜びが表れ、端整な顔にははにかんだような微笑が浮かんでいた。

 思いもよらぬ贈り物を貰った子供のようだった。

 淡雪がとけてゆくように微笑が消え、燃えるような紅の双眸がまりあを捉えた。


「どうか疑わないでください。、私は全てを捧げるのです」


 まりあは呼吸を忘れた。

 アレスの瞳とともにその言葉が胸に飛び込んできて、熱を帯びた目眩を感じた。

 心臓が大きく跳ね、耳の奥で鼓動が大きく速くなる。


(う、うあ……!)


 顔が一気に熱くなって、慌てて伏せた。

 手の甲で隠そうとすると、触れた頬が熱かった。


 ――こんな反応は知らない。予想もしていなかった。

 これはゲーム、これは決められた設定――そう言い聞かせようとしても、もう無理だった。


 

 意図してなのかそうでないのか、アレスのその言葉はあまりに核心をついて、まりあの不安やおそれを打ち砕くには十分すぎた。


 ――アレスが本当に、を見てくれているのだとしたら。


 たとえはじめは設定ゆえだったとしても、共に過ごした時間で本当の関係が築けつつあるとしたら。

 だってこんなにも、紅の目は真っ直ぐに見つめてくる。

 あまりにも躊躇なく、揺るぎなく、ひたむきにを見つめてくる。


 まりあは両手で顔を覆った。


「《闇月の乙女》?」


 かすかな衣擦れの音と、アレスの気遣わしげな声が近づく。


「ちょ、ちょっと、待って! すいません……!」

「どうなさったのですか?」


 両手の覆いの下で、まりあは声を上擦らせた。

 顔が熱い。耳が熱い。

 きっといま、茹だったような顔をしている。

 しかも感極まってしまってちょっと目が湿っている。

 こんなふうに真正面から自分を見つめてくれる男性に会ったことがなかった。


(もういいよ、《闇月の乙女》だってなんだって……アレスさんが、ここまでしてくれてるんだから……!)


 そういう設定だから、と彼の気持ちを冷めた目で見ようとした自分が恥ずかしかった。


 ――信じるのが怖かった。

 期待して、後で何を勘違いしていたんだと笑われるのが。自分が傷つくのが。


 それは臆病さゆえに、アレスを疑い、その気持ちを侮辱する行為だった。


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