Chapter 4:《闇月の乙女》の決断

Chap4-1


 ぼすん、とまりあは容赦なく寝台に放り投げられた。


「とりあえず寝ろ」

「ね、眠たくないですし寝ないです!!」

「ほう?」


《夜魔王》は唇だけで笑った。

 まりあが肘で上体を起こしたところで突然影に覆われた。

 寝台の軋むかすかな音が耳に響く。


 肌の温度に似た気配と、一瞬目眩のするような芳香がした。

 蒼と紫の瞳が間近から見下ろしている。

 レヴィアタンは寝台に腰掛けて体をひねる形で、まりあの両側に腕をついていた。


「では大人しく俺に抱かれて《月精》を分けるがいい」


 低くささやく声が、まりあの胸を震わせる。


(だ、抱か……!?)


 脳内で思わず反芻しかけ、怒りと羞恥とその他の複雑なもので一気に顔が熱くなる。

 慌てて後じさろうとするが、中途半端な姿勢のせいで肘から崩れ、寝台に倒れて状況が悪化した。


「物分かりがいいな。よかろう」


《夜魔王》は唇で笑っていた。

 だがふいにその微笑が消え、目だけが横に向く。

 顎下に、光さえ吸い込む漆黒の刃が当てられていた。


 アレスは寝台の真横に立ち、剣を握る手を微動だにしなかった。

 その紅い目は炎がそのまま凍りついたような色をして、《夜魔王》を見下ろしていた。


「あ、アレスさん……!」


 まりあは焦って上体を起こし、アレスの刃に触れた。とたん、アレスの顔が強ばった。

 レヴィアタンは虫でも払うような仕草で剣を押しやり、その手でまりあの首の後ろに触れた。

 くすぐったさにまりあは小さく悲鳴をあげる。


「は、離し、て……!!」


 遅れてかっと顔が熱くなった。

 レヴィアタンは信じられないほど自然に距離を詰め、もう何度もそうしているかのように触れてくる。

 ふっと呼気が耳朶に触れた。


「お前は一切の犠牲を出さず、一人で敵の軍勢を退けた。ここまでの戦果は嘘偽り無く見事だ」


 目眩がするような甘さを孕んだ声が耳に注がれる。

 まりあの頬は熱を増し、不意打ちの賞賛は心までもくすぐった。


(な、なんで……っこんな体勢で言うこと!?)


 首をつかまれた猫、あるいは蛇に睨まれた蛙のごとく硬直しているのは、少しでも動けば余計に密着してしまいそうだからで――レヴィアタンの腕が強く引き寄せてくるからだった。


「俺を解放し、同胞の犠牲を厭った。お前は《闇月の乙女》として正しく同胞を照らそうとしている。手段はいくら奇抜なものになっても構わん。ただ己の宿命には逆らうな」


 耳元で、低く引力を帯びた声が続ける。

 まりあの心は反抗し、だが甘い毒を注がれたようにゆっくりと力を削がれていった。


 唐突に、肌を刺す冷気を感じてまりあを正気に引き戻した。

 黒衣の青年が目に映る。


 アレスは無言だった。

 だが褐色の肌は闇に溶けたような色をし、その長い黒髪は風もないのになびいた。

 黒衣の裾までもがはためき、全身を瞳と同じ赤の光が包んでいた。

 血よりもなお紅いの両眼はまりあと、《夜魔王》を捉えている。


 ――その手に握られた漆黒の長剣が、アレスの体と同じ真紅の光をまとっている。


 まりあのどこか――あるいは《闇月の乙女》としての感覚らしきものが、と訴えていた。

 レヴィアタンに覚える危機感とは別の、もっと恐怖に似たものが体を突き動かした。


「ちょっと!! 離れて変態!!」

「――つまらん」

「これが面白いわけあるか!! いいから離れて!!」


 渾身の力を振り絞って抗うと、レヴィアタンはあっさり引き下がった。

 もはや興味を失ったと言わんばかりの態度だった。


「じゃあ!! 私、寝るので!! 出て行ってください!!」

「独り寝は寂しいだろう」

「独り寝が寂しくて一人暮らしができるかー!! はいおやすみなさい!!」


 まりあは隙を見せずまくしたてつつレヴィアタンから距離をとった。

 当の《夜魔王》はただ喉の奥で笑って、寝台から立ち上がった。

 先ほどとは別人のように部屋から出て行こうとするその背を見て、まりあははっとした。


「あの! 私がいない間に、アウグストたちを攻撃しに行くみたいなことはやめてください!」

「こちらから攻め込む気はない。お前の成立させた休戦が有効な間はな」


 レヴィアタンは振り向かずに言って、扉の向こうへ消えた。

 まりあは一度息をついて寝台から立ち上がり、アレスに目をやった。

 青年の目はいまだ妖しい輝きに満ち、体は血色の光と深い闇とをまとっている。


「あ、アレスさん……」


 緊張しながら声をかける。

 アレスはすぐには答えなかった。


 だが肌を刺すような空気がようやく緩んでゆき、アレスの体が、本来の陰影を取り戻していった。

 紅い両眼に落ち着いた光が戻ったが、まだ得体の知れぬ陰の名残があった。


 無言は、なによりまりあを不安にさせた。

 それだけアレスが本当にのだと訴えてくる。


「……なぜ?」


 形の良い唇がそう短く発した。疑問。何かを聞いている。

 だがまりあにはその意図がわからない。


 戸惑う間に、アレスが一歩踏み出した。

 何か底知れぬ威圧感がまりあを怯ませる。


「なぜ、あの男にあれほど触れることを許すのですか?」


 まりあは目を見開いた。

 ようやくアレスの疑問を理解し、頬が熱くなった。言葉が出てこない。


 アレスの声には息の詰まるような、切迫したものがあった。

 距離を詰められる。

 まりあは思わず後退しそうになる。


 アレスの瞳は不思議な光彩を放っていた。

 それはなぜか、日食の金環を連想させた。


「私の、女神――」


 黒衣に包まれた腕が伸びる。

 夜を薄く溶かしたような指が頬に触れ、その滑らかな冷たさはまりあを震わせた。

 アレスの腕に手をかける。

 だがそれきり、押しのけることはできなかった。


 赤い目が危うい光に揺らいでいる。

 それがまりあをためらわせ、動けなくする。

 ここで拒絶したら、アレスはどう思うのか――どう感じるのか。


 頭のどこかが彼の不満を認めていた。

 レヴィアタンには触れさせたのに、アレスにそうさせないのは不公平だ。

 一人と握手したのにもう一人とは握手しないといったような感覚だった。


 戸惑いながらそのまま動きを止めていると、長い指は惜しむように肌を滑りながら引いていった。

 まりあは鈍い動きでアレスを見た。

 赤い瞳はいまだ妖しい輝きの名残があったが、ひたむきさが強く見えた。


「――私以外の誰にも、このようにあなたに触れさせないでください」


 アレスは静かに、だが強固に言った。

 よく通る声であまりにもはっきりと言われたから、まりあはその内容をすぐには理解できなかった。

 数秒遅れでようやく理解すると、とたんに狼狽えた。


「え、えっとあの……は、はい……」


 ――それはもう、レヴィアタンのように不当な接触を許してしまうのはよくない。とてもよくない。

 だがその前の言葉。


 それはつまり――アレスには許せというのだろうか。


(い、いやいやいやいや!)


 耐えがたい恥ずかしさに、顔の前でばたばたと手を振った。


「《闇月の乙女》?」

「なっ、なんでもないです!!」


 不可解そうな顔をするアレスに激しく頭を振って、まりあは天井に目を逃した。


(ああもう、ほんとにあの変態《夜魔王》のせい!!)


 つまりは誰にも触らせなければいいのだ。不覚をとらなければいいだけだ。

 まりあはそう自分に納得させ、なんとか落ち着こうとした。

 大きく息を吐いて顔の熱さを追いやり、目を戻す。


 ようやく周囲を認識し、はっと気付いた。

 巨大な黒の寝台、藍色の闇と淡い銀の光が満ちる部屋。


(ここってレヴィアタンさんの寝室じゃ……!?)


 先刻、ラヴェンデルやアレスたちと一緒に放り込まれた部屋であり、王の寝所などと言われていた場所だ。

 まりあは慌てて扉に駆け寄った。だが扉は押しても引いても微動だにしない。


(と、閉じ込められた……っ!?)


 扉を手探りするも、鍵のようなものは見当たらない。


「――あの男の仕業です。破りますか」


 背後からそんな声が聞こえて、まりあは振り向いた。


「え、えーと……この扉、開けられるってことですか?」

「はい」


 そう答えるなり、アレスは剣を構えていた。

 まりあは慌て、だが少し考えて頭を振った。


「開けられるなら、いいです。いま力ずくで出たら面倒なことになりそうだし……」

「しかし、あなたを閉じ込めておくような真似を……」

「開けられるなら大丈夫ですから!」


 眉をひそめるアレスになだめるように言い、ひとまず寝台まで戻って端に腰掛けた。

 さすがにここで眠る気分にはならないが、休憩することぐらいはできそうだった。


(……ん?)


 気配を感じて顔を上げる。

 すると思わずのけぞるほど近くにアレスが立っていた。

 まりあを真っ直ぐに見下ろしている。


「ど、どうしました?」


 まりあが寝台のほうへ後じさりしつつ聞くと、アレスは立ち尽くしたまま言った。


「何も。ただあなたの側にいます」

「……そ、そですか……」


 まりあはどぎまぎした。


(きょ、距離が近いなぁ……)


 気付けば、類い希なる美貌の青年と二人きりで寝室に取り残されている。そう認識してしまうとまりあはますます落ち着かなくなった。


「そ、そうだ! アレスさんも休憩してください。あの、扉だけ開けておいてくれたらあとは自由にどこかへ行ってもらって大丈夫――」

「あなたの側にいることが私の安らぎ、私の望みです。なぜ離れる必要が? 扉を開けることをお望みでしたらいますぐそうしますが」

「……い、いや、あの、いいです……」


 まりあは力なくつぶやいて項垂れた。

 ――顔が熱い。

 レヴィアタンと違い、アレスは優しいし真摯だ。

 だがそれだけに、たぶん他意はないであろう言葉の一つ一つが心臓に悪かった。


(う、ううう……!)


 勘違いしてはいけない、平常心、平常心と自分に言い聞かせる。

 なぜアレスは自分にこんなに優しいのか。

 おそらくすべて《闇月の乙女》の設定なのだ。


 よくある設定、よくあるキャラクター。

 いうなれば反射作用のようなもので、浮かれるべきではない。


 ――だとすれば割り切って楽しめばいいのではという考えもよぎった。

 が、相手は同じ質量を持った人間で、《昏木まりあ》はこんな美貌の青年と気軽に親しくできるほど経験も能力もなかった。


(ま、まあ設定であっても、優しくされるのは嬉しいし……)


 ラヴェンデルやレヴィアタンのような態度をとられるよりはずっといい。

 勘違いにさえ気をつければ、アレスの優しさもそのまま受け入れてもいいのかもしれない。


 ――ふいに、聞いてみたいと思った。自分に優しく、拒否もしないアレスなら。

 まりあは顔を上げた。


「あの、アレスさんは……《光の眷属》たちについてどう思いますか?」


 青年の端整な顔に、虚を衝かれたといわんばかりの表情が浮かんだ。

 だがすぐに眉が険しくなり瞳と口元に冷たさが表れた。


「どう、とは。あれらは敵です。一切を殲滅すべきです」

「! な、なんで……! アウグストたちは、そんなに悪い人じゃ……!」

「――なぜ、あれらを庇うのですか?」


 逆に問い返されて、まりあははっと息を呑んだ。

 アレスは理解に苦しむとばかりに強い疑念を露わにし、まりあを見つめている。


「話し合い、とあなたは仰いました。そんなものは不要です。あれらと和解するなどありえません。なのになぜ、あなたはあれらに心を砕くのですか? あんな者どものために……」


 あくまでも丁寧な口調で、だがその声は聞いたことがないほど厳しく拒絶的なものだった。


「《アウグスト》? あれらの王のことですね。その者があなたを惑わすのですか?」


 まりあの背に、ぞっと冷たいものがはしった。


 黒剣の化身である青年の顔から、一切の表情が消えている。

 紅い目だけが細くなり、危うい輝きが戻る。


は、汚らわしい光精をあなたに飲ませ、あなたのなかに穢れを入れた。あなたの体に汚れた技をかけた。私の、月……私の女神に……」


 声は低く呪うように響き、長身の体の輪郭から黒い小さな雷が弾ける。

 まりあは息を呑んだ。


「そ、そんなんじゃないです……! あれは私から休戦のために言い出したことだし、アウグストはそのあと回復魔法をかけてくれて……!」


 必死に言い募る。

 だがアレスは仮面のような無表情のままだった。


「……なぜ、あんな穢れの王の名を呼ぶのです?」


 黒衣の青年が一歩踏み出す。まりあは後じさりそうになった。


「あなたが戦いを好まぬというのなら、私に委ねてください。光の凶徒どもを残らず斬り捨てます」

「だ、だめです! それは絶対だめ……!!」


 まりあは重ねて訴えた。冷や汗が出る。

 なにか言ってはいけないことを言った。

 アレスの逆鱗に触れてしまったのだ。


「や、ほんと、変なこと聞いてごめんなさい! ほんとになんでもないです! 気にしないで!」


 アレスが長い睫毛を瞬かせる。


「少し休もうかな! なのでアレスさん、他の人が入ってこないように扉を見張っててもらっていいですか!」

「……あなたの望みのままに」


 アレスは答え、その輪郭から発生していた小さな雷が体の中に吸い込まれて消えた。


 まりあはアレスに背を向け、寝台の端に横たわる。

 寝るふりをして、この気まずさをやり過ごすつもりだった。


(どうしよう……)


 どうやらアレスは《光の眷属》に対して根深い何かがあるらしい。

 うかつには話題にしてはいけないことだった。

 気をつけなければ、と自分に言い聞かせ、まりあはそっと溜息をついた。

 

 いったい何がで、どれを選べばいいのか。

 間違った選択肢は望まぬ結末にたどりつく。

 そもそも《闇月の乙女》というキャラクターなど見たことも聞いたこともない。


 真の結末トゥルーエンドに出てくるラスボスで、《夜魔王》と並び――そう考えて、気付いた。


(……っていうか《夜魔王》の妃って! そんなの知らないし!!)


 わからないことだらけの中、ともかくそこだけは断固拒否しておかねば、と強く心に決めた。

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