Chap3-6


 夢――現実、『太陽と月の乙女』の中で、アウグストは優しく微笑んでいた。


 私の光、と穏やかな声が言う。

 聞いているほうが赤面するぐらいに想いのこもった響きだった。


 白い天馬に乗って空を駆けたこともあった。

 アウグストの馬はとくにすぐれた駿馬で、聖女は前に抱き抱えられて、二人で青い空を散策した。


 澄んだ空は美しく、聖女を見つめる青い目の優しさ、光輝く髪が風になびく様は画面越しでも胸が高鳴った。


(……なんで……?)


 アウグストは《陽光の聖女プレイヤー》と絆を深めている。

 それは本来自分との関係だった。


 すべて覚えている、知っている――なのに《陽光の聖女》は自分であって自分ではない。


 まりあを見るアウグストの目は凍てつき、その声は敵に向けるものだった。こんなのは違う。

 あのとき画面越しに想像した、涼やかな空気と人の体に触れあう快さをいまも感じているのに。


(……え?)


 ――違う。


 まりあは目を覚ました。

 瞼を一度持ち上げるもひどく重くて、再び寝入ってしまいそうになる。


「私の女神……」


 すぐ側で、青年の声がささやく。

 かすかに震え、苦しげなその響きは意識を呼び戻す。


「……アレス、さん?」


 かすれた声でつぶやくと、アレスは弾かれたように顔を上げてまりあを見た。


「《闇月の乙女》……!」


 そう呼び、両腕で強く抱きしめた。


「! え、ちょ……っ、んん!?」


 まりあはほとんど身動きできないことに気付いた。

 アレスは座っているようで、その足の間に自分の体があった。黒いドレスの裾が床に広がっている。


(ど、どういう状況なのこれ……っ!?)


 頭が混乱する。

 だが自分の体勢だけはわかって、いきなり顔が熱くなった。


「あああああ、アレスさん……っ! おはようございます!! わわ私大丈夫だから! 離し――」


 焦って早口にまくしたてる。

 だがアレスは抱きしめる腕に一層力をこめるだけだった。


 まりあはそれだけでそれ以上言えなくなってしまった。

 動悸が激しくなり、目が回る。


 ――がむしゃらに、必死に手放すまいとしがみついてくるような抱擁。

 アレスの感じている不安や苦しみのようなものが、ふいにまりあに押し寄せた。


「アレス、さん……? 大丈夫ですか? どうしたんですか……?」


 まりあがためらいながら問うと、腕がわずかに緩んだ。

 アレスが顔を上げ、目を合わせる。

 しかし座って抱き合うような姿勢になっているせいで唇が触れあいそうな距離になり、まりあの心音は大きく乱れた。


「……どうしたの、ではありません。無事を問うのは私のほうです。私の女神……お体に痛みは?」


 長く息を吐きながら、アレスが言う。

 この至近距離で更に顔を覗き込むようにしてくるので、まりあは更に挙動不審になった。逃げるように顔を逸らすと、端整な顔が訝しげに歪められる。


「やはりまだ痛みが……?」

「い、いや、体に痛みはないんです、だからあの、離し……」

「ではなぜ目を逸らすのですか?」


 再び、アレスの腕に力がこめられる。


(うゎわわ……っ!!)


 まりあは目を回した。

 アレスはわざとこんなことをしてこちらをからかっているのか――一瞬そう疑う。

 だが彼は本気で訝り、本心から案じ、それから少し怒っているようにも見えた。


 まりあは精一杯身動ぎし、可能な限りアレスから離れようとし、だが余計に抱き寄せられてただ消耗した。


 やがて足音が聞こえてきた。

 まりあが慌てて離れようとするも、足音の主がすぐに姿を現した。


「《闇月の乙女》……! 目を覚まされましたか!」

「! グラーフさん……、ラヴェンデルさんも」


 まりあは軽く目を瞠った。

 部屋の扉の向こうに現れたのは山羊の頭をしたグラーフと数名の《闇の眷属》たち、それから小柄な美少女ラヴェンデルだった。


 ラヴェンデルはまりあとアレスを見、奇妙な生き物でも前にしたかのように目元を歪めた。


「いい加減離せ、なまくらめ。《闇月の乙女》はお前の所有物ではないぞ」

「――当然です、《闇月の乙女》が私を所有しているのですから」

「ほう? いまのお前の行動からしてずいぶんがあるな?」


 ラヴェンデルの冷ややかな目と力をこめてくるアレスの間でまりあは目を白黒させた。

 一瞬、現実逃避しかけたところで、ようやくこれまでの経緯を思い出した。

 自分の両手を、足を、体を見下ろす。

 ――だがそこに、白い火傷痕はない。傷を覆った小さな光の泡も。

 まりあは勢いよく顔を上げた。


「グラーフさん、アウグストたちは……!?」

「――撤退していきました。こちらの被害は皆無です。《闇月の乙女》……あなたのおかげです」


 そう答えた声は深い感嘆が滲み、まりあは少し虚を衝かれた。

 だが言葉の意味を理解すると、安堵とも落胆ともつかぬ複雑な感情を抱いた。


(やっぱり……夢じゃ、なかったんだ)


 アウグストの、敵を見る目。冷たい声。

 自分以外の何かが聖女になり代わっているという現実。


 ――だがそれでも、アウグストは回復魔法をかけてくれた。


 わずかな希望のようなものをそこに見出せる気がした。


「……被害が皆無?」


 耳元で腹の底に響くような低い声がして、まりあは驚いた。

 見上げると、鋭利な刃のようなアレスの顔があった。

 凍てつく火の目は、グラーフたちを射る。


「《闇月の乙女》を守れず、あのような重い怪我を負わせて被害が皆無だと?」

「! ちょ、ちょっと待ってアレスさん……! グラーフさんたちは何も――」

「……言葉もありません」


 まりあが慌てて弁明しようとするのを遮り、グラーフは低く抑えた声で答えた。

 うなだれた姿も、その声もアレスの非難を受け入れていた。

 まりあは焦って口を挟んだ。


「グラーフさんたちは悪くない。むしろ自分たちが盾になって逃してくれようとしたんです。話し合いでなんとかしようって私が無理を言ったんです」


 アレスの目がまりあに戻った。

 紅い瞳は一転して気遣いと困惑を宿し、グラーフたちに向けた切りつけるような眼差しは欠片も残っていなかった。


「あなたが怪我をされては何の意味もありません。まして万一……命を、落とすようなことになれば……」


 その言葉は、突然まりあの胸を刺した。

 アレスにきっと悪気はない。

 だが何の意味もない――自分のしたことが無意味だと言われたような気がして、言葉に詰まった。


「狂母の信徒どもと話し合いなど不可能です。現にあなたはひどく――傷つけられた……」


 そう続けた声に怯えが滲み、抱き寄せる腕にまた力がこめられる。

 まりあは戸惑い、胸の詰まるような感覚に襲われた。

 アレスがこれほど自分を気遣ってくれる――そのことに対するこそばゆさと、なぜ自分にここまで、という少しの疑問だった。


「だ、大丈夫です。傷つけられたっていうか、副作用みたいなもので意図的に攻撃されたわけじゃないし……回復魔法をかけてもらったから、ほら、もう傷も治ったみたいで」

「ふん、言われずとも回復したことはわかるはずだがな。お前が寝ている間、そこのなまくらが子供のように抱いて離さなかったのだから」


 ラヴェンデルが冷ややかに介入する。まりあは目を丸くした。


(……ね、寝てる間ずっとこの姿勢だったってこと!?)


 顔にまた一気に熱が戻ってきた。口ごもったが、はたとアレスの体に気がついた。


「あの、アレスさんは……もう大丈夫なんですか? その、体が……」


 まりあの問いに、アレスはようやく表情を和らげた。


「通常の戦闘なら差し支えない程度には回復しています。あなたの心地良い月精が私を癒やしてくれました」

「そ……そですか。それはよかった……」


 喜ばしい話だったが、嬉しげなアレスの表情と言葉とがなぜか少し気恥ずかしかった。

 ラヴェンデルが鼻を鳴らした。


「そこのなまくらとて、ただ抱えられて逃げるところだったではないか。大事なところに間に合わなかったくせに、グラーフたちを非難するとはずいぶんと滑稽な」

「――役立たずの《夜魔王》とその姉と同等に不覚をとったことは否定しない」

「道具の分際で我々を貶すか! ええい、こんなものへし折ってしまえ《闇月の乙女》!!」


 まりあは二人の間で忙しなく顔を右往左往させた。それでもラヴェンデルもまた回復したことがわかり、少しほっとした。


 ふいに、ラヴェンデルがじっとまりあを見つめた。その薄紫の花弁に似た唇からまた手厳しい言葉が発せられるのかと思い、まりあは緊張する。

 だが少女は惑うように少し沈黙したあと、やや仰々しく息を吐いて、言った。


「まあ、ともかくお前のはたらきで窮地を切り抜けられた。同胞の一人も犠牲にせず、怪我も負わせず……。正直、見直したぞ。あんな奇策を打つとはな!」

 あまりにも意外な言葉だったので、まりあはすぐには反応できなかった。

 ラヴェンデルは怒ったように細い眉を寄せていたがそれは不機嫌というより照れ隠しのためらしい、とまりあは遅れて気づいた。

 まじまじとラヴェンデルを見る。


「な、なんだその顔は! 私の言葉を疑っているのか!? せっかく褒めてやったというのに!」

「い、いえそうではなく……驚いたというか」

「驚いたのはこちらだ!! 呆けたような顔をしてこんな奇策に出るとは! できるならもっと早くにやれ! そして周囲にも事前に説明しろ!」


 勢いにまりあはたじろいだが、押し殺したような笑いが聞こえ、グラーフのほうへ顔を向けた。

 グラーフの山羊そのものの目は優しく和み、口元には笑みが浮かんでいた。


「《紫暗の麗姫》がお褒めになるとは珍しい。この方の最大限の賛辞ですよ、我らが月。事前に説明して周りに協力させよと仰っているのです」

「は、はあ……」

「余計なことを言うでない、グラーフ!」


 ラヴェンデルは怒って反論したが、その頬の赤さは言葉を裏切っていた。

 グラーフは親愛と敬意のまじった眼差しを《紫暗の麗姫》に向けた後、まりあに目を向けた。そして、胸に手を当てて深く腰を折った。


「私からも感謝を。あなたのおかげで、我々は生き長らえ、王も同胞も失わず、ここに立っていられるのです。私たちがあなたにどれほど救われたのか……言葉では言い表せません」


 グラーフが感じ入ったような声で言うと、その傍らの《闇の眷属》たちも同じくまりあを見つめ、膝を折り、あるいは深く頭を垂れた。


「い、いえそんな……!」


 真摯な敬意のようなものを示され、まりあは慌てた。

 とにかく必死で、《闇の眷属》たちを絶対に護るという確固たる意思があったわけではない。


 ――アウグストに会いたいという気持ちさえあったのだ。あんな状況にあってさえ。

 胸の中のこそばゆさに罪悪感の影がまじった。それを紛らわすように別の話題に変えた。


「そ、そうだ。えっと……レヴィアタンさん、は?」


 問うと、アレスの腕に力がこもった。

 まりあは驚いて顔を見上げると、黄昏時の夕陽に似た目が物言いたげに見下ろしていた。その形の良い眉は、かすかに不快感を表している。


 アレスの反応の意味がわからずぱちぱちと瞬きをすると、ラヴェンデルが鼻を鳴らした。


「あやつなら上だ。さっさと顔を合わせてくるがよい。――いつまでその体勢でいるつもりだ?」

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