Chap3-5


(なんで……どうして……っ!!)


 ただ漠然とした楽観と、アウグストに会いたいという浮ついた気持ち――それでなんとかできると錯覚させていた。

 話し合いができると思い込んでいた。


 だがその結果、完全武装の騎士たちと、遠ざかるアウグストの背がある。

 そして自分たちが逃げることを諦め、飛びかかろうとしているグラーフたちの姿が。


「……っ来ないで!! 動かないで!!」


 まりあはかすれた声を張り上げた。

 グラーフたちが驚きの視線を向けてくる。


(だめ……このままじゃ――!!)


 このまま自分の失敗にグラーフたちまで巻き込むわけにはいかない。

 彼らは自分のせいでここに残ったのだ。


 まりあは碧眼の王の背を見つめた。

 ゲームの場面と同じ。ただ叫んでも止められない。

 だが、聖女は彼を止めた。


“孤独な王の背が光に包まれて消えようとする寸前、天啓が聖女の脳裏に弾けた。

 古き世にあった、聖女と王だけの誓いの儀式――唯一、王を拘束しうる力。”


 ――まりあはそれを、知っていた。


 消えようとする背に向かって、まりあは渾身の力で叫んだ。




「――“光の守護者たる王よ! 私はあなたに《光滴の杯》を要求する!!”」




 叫びは夜に谺し、馬上の王を止めた。


 アウグストが振り向く。その青い両眼は大きく見開かれていた。

 いま耳にした言葉が信じられないというような表情だった。


「お前は……、なぜそれを……」


 声にわずかな動揺と強い疑いが滲む。

 まりあはかすかに震える唇を開いた。


「……私は……、私が、聖女だったから。《陽光の聖女》、だったから」


 堪えきれず、そうこぼした。


 ――自分が主人公プレイヤーだったから。出会いから結末までをずっと見ていたから。


《光滴の杯》がアウグストルートの終盤にのみ出てくるイベントで、唯一彼を引き止められるものだということも知っている。

 聖女とアウグストの、二人きりの大切なイベントであったことも。


「……何を言っている? 狂言で私を惑わし、我が聖女を侮辱するつもりか」


《聖王》の眉間に強い怒りと嫌悪が現れた。


「違う……!!」

「虚言を弄して私を惑わすつもりか。《光滴の杯》まで持ち出すとは……どこでその言葉を聞いた」


 まりあはひゅっと息を詰めた。

 こちらの言葉が伝わらない。


 まりあ自身ですら、《陽光の聖女》は本当は自分で、この《闇月の乙女》というキャラクターの意識は《陽光の聖女》を動かしていた人間と同一なのだと言われても理解できそうになかった。


 そうわかってしまうのが苦しかった。


(なんでよ……!!)


 自分をこんな状況に放り込んだ何かに、泣き叫んで怒鳴りたかった。

 もう知ったことかと投げ出してしまいたかった。


 ――だがこの胸の痛みは現実を突きつけ、アウグストの前で醜態をさらせなくする。


 まりあは両手をぎゅっと握りしめ、こみあげてくるものを噛み殺した。

 鼻の奥がつんとする。

 瞬きで視界の滲みを払い、アウグストを見た。


「……《光滴の杯》の実行をお願いします。誓うのは休戦。こちらはそちらに戦いを仕掛けません。だから、そちらもこれ以上攻めてくるのはやめてください。退いてください」

「お前……貴様――」


 アウグストの顔が更に険しくなり、声が低くなる。

 まりあを見下ろす目はゲームで見たときとは別人だった。

 まりあは唇を引き結ぶ。胸の中で嵐が吹き荒んでいる。


 ――《光滴の杯》は、遥か昔にあったとされる儀式だ。王と聖女の間で行われることが殆どで、王は、これを持ち出されたら絶対に応じなければならない。


 アウグストとの絆を深めたときにのみ出てくるもので、《陽光の聖女》は文献の中でたまたまそれを見つけ、後にそれを持ち出すのだ。

 死地へ行こうとする彼を止めるために。


 ステンドグラスから差し込む七色の光が、アウグストと聖女の静謐な儀式を照らしていた――。


 だがいま、まりあとアウグストの周りには深い蒼の夜だけがあった。


 アウグストは低い吐息を漏らしたあと、馬から下りる。

 左手を上げ、背後の騎士たちを制した。

 馬の背に兜を預け、歩み寄る。互いに腕を伸ばせば届く距離で止まった。


 まりあよりゆうに頭一つ分は背が高く、鎧をまとう肩幅は一層広く見えた。

 足は驚くほど長い。

 アウグストは白金の籠手に覆われた右手を差し出す。

 まりあは自分の手を伸ばして応えそうになり、止まった。


 差し伸べられた手の上に、放射状の強い光が発生する。

 小さな太陽を思わせるまばゆさに、まりあはとっさに目を庇った。

 掌の光はやがて凝縮し、大きな杯の形になる。


 光が次第におさまってゆくと、金色に輝く杯が現れた。

 表面には複雑な紋様が白く浮かび上がり、液体を受ける椀状の部分には両側に把手がついている。

 支えていた手がゆっくりと引き抜かれても、金の杯は空中で静止していた。


「互いに誓約を述べた後、この中に双方が力を与える。それを攪拌したものを互いに飲み干すことによって、光杯は誓約の成立とみなす」


 アウグストは冷淡な調子で、それでも嘘不足なく説明する。

 かつて美しい七色の光が照らす中で、輝く杯を前に向かい合って二人きりで誓約を交わした場面がまりあの瞼をよぎった。


「理解したか」


 黙っているまりあの反応を困惑と捉えたのか、アウグストは眉をひそめて言う。

 まりあは唇を引き結び、重い頭を縦に振った。


「――この聖なる儀式は本来、女神リデルに祝福された者だけが交わすものだ」


 アウグストは付け加えるように言った。まりあは、知っている、と胸のうちで答えた。


「よって、リデルに仇なすお前たち《闇の眷属》を拒む。浄化作用がはたらくだろう。――それがどういう意味かわかるか」


 まりあは虚を衝かれ、今度は率直に頭を振った。アウグストは眉一つ動かさず補足した。


「光杯の力がお前を攻撃するということだ。致命傷を負う可能性もある」


 まりあは息を呑んだ。初めて知る効果だった。

 アウグストは仮面のように端整な無表情で、こちらの恐怖を煽っているようには見えない。


「それを踏まえた上で、覚悟があるなら手を伸ばすがいい」


 まりあの手はわずかに痙攣した。


(攻撃……致命傷? でもまさか、そんな……)


 いきなりここで死ぬ、などということにはならないはずだ。まるで現実感がない。だが、そんな根拠のない楽観を打ち砕かれたばかりだったった。


 ――目の前で起こっていることは、そう都合良く展開していってはくれない。


 まりあはアウグストを見た。


「……この儀式をやめると言ったら、どうなりますか」

「どうもせぬ。戦うだけだ」


 無感情な声がまりあに重くのし掛かった。

 つまりは、これ以外に休戦へ持っていく方法がないということだった。


 まりあは一度強く息を止め、それから長く吐いた。

 選択肢は二つ。杯か、戦いか。


(……アウグストはちゃんと説明してくれた)


 まりあの知らない、光杯の作用まで教えた。

 黙って儀式を行い、杯がこちらを攻撃するところを見ていてもよかったのだ。

 だが、そうしなかった。


 ――公平、高潔であることを自分に課すアウグストらしいと感じてしまう。


 まりあは手を持ち上げ、杯の前にかざした。

 アウグストもまた、手を持ち上げて杯の真上で止めた。

 するとその全身が、薄い金色の幕をまとうかのように光りはじめた。

 碧眼の王は口を開いた。


「我、光の守護者たる王アウグストは、《闇月の乙女》との一時休戦を誓約す」


 風に乗って周囲のすべてに響き渡るような、厳然たる王の声が宣言した。

 それに応じて、かざした手に光が集中する。


 光は金に輝く滴となって杯に落ちた。とたん、杯は強い輝きを放つ。

 アウグストが手を引き、無言で促す。


 まりあは動きを真似て杯の真上に自分の手をかざした。


「我……《闇月の乙女》は、光の守護者たる王アウグストとの一時休戦を、誓約す」


 同じ言葉をなぞり、宣誓する。

 自分が《闇月の乙女》だと宣言することにためらいを覚えた。


 ふいに、かざした自分の手が、淡く銀色に光っていることに気づいた。

 アウグストとは真逆の色。

 手だけではなく、体の輪郭が銀の薄衣をまとったかのように発光していた。


 困惑しているうちに、かざした手にほのかに青みがかった銀の光が強くなり、滴るように雫の形になって落ちた。


 杯は、アウグストのときのように輝いたりはしなかった。

 ただ身震いするようにかすかに揺れた。

 銀の滴は杯の中で金色の雫とまざりあう。


 まりあが戸惑いがちに手を引くと、再びアウグストが手を伸ばして杯を取った。

 口元の高さまで持ってくる。


「――女神リデルの祝福あれ」


 そう言って、一息に杯を呷った。

 そして杯を戻し、二者の間に浮かべる。

 喉がかすかに動いて嚥下したとき、端整な顔が一瞬強ばった。

 ゲームのイベント中には見られなかった仕草だった。


 ――自分が《闇月の乙女》などというものになってしまったせいかもしれない。


 まりあは唇を引き結び、杯に手を伸ばした。

 杯を傾けるときはアウグストがしたように女神リデルの祝福を願うのが正しい。だが形だけであっても、リデルに祈る気にはならなかった。


 杯の中には不思議な輝きを放つ液体がまだ残っていた。

 アウグストが唇をつけた場所に意識が行って、反対のところに唇をつけ、一気に傾けた。


 どんな味とも似ていない、ただひんやりとした――あるいは少し熱を感じる液体が舌に触れた。

 嚥下する。喉を通り過ぎていく。


 まりあはアウグストとの間に杯をそっと戻す。

 中身は空になっていた。手を離しても、杯は不可思議な力で浮いている。


 飲んでしまった――遅れてから、毒でも仰いでしまったかのような恐怖と不安がわいてくる。


 だがおそろしい味を感じることも、忍耐強いアウグストが一瞬顔をしかめたような何かも起こらなかった。

 警告されたような、もわからない――。

 ふいに、体の内側に熱を感じた。体温が急上昇したような錯覚。


 ――次の瞬間、それが爆発した。


「い、ぁ……っ!!」


 アウグストの目が見開かれた。


 まりあは自分の体を抱き、その場で膝から崩れ落ちた。

 かき抱いた自分の腕が、手が、土に触れる膝が足が熱い。痛い。

 皮膚の下で血と内臓が燃えるようだった。

 ぱたぱたと雫が落ちるような音がして、体を濡らし土に落ちる。


(痛い……痛い痛い痛い熱い!! 熱い!!)


 まりあの全身が痙攣した。

 体を抱く腕が瞬く間に濡れていき、このぱたぱたと落ちる音は自分の体から流れ出ているもののせいだと知った。


 脳までもが焼けるような感覚の中、震えながら自分の体を見下ろす。

 闇色のドレスをまとっていたはずの自分の腿に、胴に、腕に、白いまだら模様があった。

 その模様の一つ一つが焼け付くような熱を発している。


 わずかに発光するような白い傷痕はあまりに歪で、大きくて、黒の衣装ごと肌を裂く。まるで流星の痕のようだとまりあの頭が遠くで思った。


 全身の至るところが、悲鳴をあげている――肩も背中も、頬や額にすらも。

 両目から涙が溢れた。歯を噛んで堪えようとしても、噛み合わない。

 力が入らない。


「――《闇月の乙女》!!」


 グラーフたちの緊迫した叫びと飛び出そうとする物音がかろうじて聞こえた。

 まりあは立ち上がれず涙を流したまま、声を振り絞った。


「――っ動かないで!!」


 叫びはかすれ、裏返る。だがそれでもグラーフたちを止めることはできたらしかった。


「なぜです!! このままではあなたが……!!」

「だ、いじょうぶ……だから……っ!」


 まりあは反射的にそう答えた。抑えきれない涙が顎を伝って落ちる。

 ――何が大丈夫なのか自分でもわからなかった。

 体に感じる痛みは、いまにも意識を刈り取っていこうとする。

 それでも必死に息の震えを抑え、今度は顔を上げぬまま、目の前にいる相手に言った。


「……これで、誓約、成立だよね」


 アウグストがかすかに息を呑んだ気配がした。

 言葉で確認しながら、まりあはこれで《光滴の杯》は成されたとわかっていた。

 乱れた息の合間に、続ける。


「――退いて。もう、行って……お願い」


 なんとか声を絞り出した間に、また涙が流れて落ちた。

 とめどなく溢れる滴さえ熱を持っていた。


 きっといま、ひどい顔をしているだろう。痛みと涙で引きつれて歪んだ顔。

 立つことすらできず、ただ地面に座り込んでいる。


 アウグストにはこんな顔を見られたくなかった。

 ――早く見えないところに行ってほしかった。

 この痛みに耐えられなくなって泣き叫んでしまう前に。


 甲冑が動く、金属の音がした。白金の足甲に包まれた爪先が近づいてくる。

 アウグストがすぐ側で片膝を折り、まりあは反射的に顔を上げた。


 青い目は、まりあを見て一瞬怯んだように見えた。

 あまりにもひどい泣き顔を見られたからだと思い、まりあは息が詰まった。


 アウグストの手が、どこかためらいがちに伸びた。

 顔の近くに来て、まりあはびくっと肩を揺らし、目を閉じる。


 だが、瞼に光を感じておそるおそる目を開けた。

 滲む視界の中で、輝くアウグストの指が見えた。

 籠手に包まれた手はまばゆい光で空中に文字のようなものを描く。


 とたん、ごく小さな光の泡が弾けてまりあに降り注いだ。

 小さな泡は傷口に集まり、痛みを和らげていく。

 ――見覚えのある魔法だった。


(《癒やしの雫》……)


 聖女ほどではないにしろ、《聖王》たるアウグストにも回復魔法が使える。

《癒やしの雫》は一度かければ持続的に対象を回復し、総回復量に優れる魔法だった。


 アウグストはゆっくりと立ち上がった。

 身を翻し、白い天馬に再び跨がる。そうして自軍のほうへと戻っていく。


「……っ!」


 まりあはとっさに手を持ち上げた。

 だが引き留めようとしたその手も、呼ぼうとした喉もひどく痛んでかなわなかった。


「《闇月の乙女》……!!」


 グラーフたちが飛び出して駆け寄ってくる。

 跪いた《闇の眷属》たちに体を支えられながら、まりあは顔だけを上げて光り輝く軍を見ていた。


 やがて甲冑の重い音を響かせ、《光の眷属》が闇夜を駆け上っていく。

 流星を巻き戻してゆく。

 その輝きの中に、無二の黄金に輝く光が見える。


(アウグスト……)


 光の軍は瞬く間に遠く小さくなり、やがて遙か天の境界面に再び巨大な魔法陣が生じた。

 多くの光がそれに吸い込まれ、もっとも大きな輝きが続き――魔法陣が閉じるまで、まりあは見守っていた。


 深い蒼の空に静寂が戻る。まりあの体から最後の力が抜けた。


「《闇月の乙女》……!!」


 グラーフたちの声がぼやけ、意識を保つのも難しくなる。

 感覚が鈍くなっていく中、無数の小さな光の泡だけが視界に瞬いている。

 自分を癒そうとする聖なる光たち。


「――私の女神……!!」


 青年の、悲鳴のような叫びが耳を打つ。近づいてくる。


(ああ、アレス……)


 もう回復したのかな、と思う。こんな姿を見せたら心配させてしまうかもしれない。

 だが瞼が重くて、体がひどく軋んで動けない――。


 すぐに分厚い闇の幕が下り、まりあは意識を失った。

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