Interlude:王と聖女
Interlude1
天空神殿《イグレシア》に来て日の浅い聖女は、広大な神殿を探索中に迷ってしまった。
イグレシアは白亜の壮麗な神殿で、整然とした秩序を保っている反面、どこも同じような見た目になっている。
迷ううちに、ある中庭に出た。
他に見ない大きな庭で、色鮮やかな花々の中に一際瑞々しく果実のなる大木があった。
光の中でひときわ眩しく輝いていた。
「わぁ……!」
聖女は歓声をあげ、そこへ吸い寄せられた。見事な大木を見上げる。そして好奇心をくすぐられて木にのぼりはじめた。
聖女は明るく元気な性格で、しばしばじゃじゃ馬と言われることもあるような、活発な少女だった。
簡素とはいえドレス姿にもかかわらず木をするするとのぼっていくこともわけのないことだった。
立派な枝に腰掛けると、豊かに実った果実に手を伸ばした。
そのまま実の感触を楽しむように撫で、目で楽しむ。
密集した枝葉の天蓋が、透過してくる光を淡い青緑に染めていた。そうして束の間の休息を楽しんでいるときだった。
「――誰か、いるのか?」
木の根元から突然そんな声が聞こえ、聖女は小さく悲鳴をあげた。
反射的に下を見たとき体勢を崩し、そのまま地面に真っ逆様だった。
だが体を強く打ち付けて激しい痛みを覚え――などということはなく、柔らかなものに受け止められてはっと目を開ける。
そして、あっと短く声をあげた。
視界いっぱいに映る、麗しい青年の顔。
忘れがたい鮮やかな蒼があって見上げていた。
「せ、聖女!? 無事か!?」
先に正気を取り戻したのは蒼い瞳の主のほうだった。
聖女の下敷きになりながらも両手を持ち上げ、無事を確かめようと腕に触れる。
そこでようやく聖女は正気に戻り、青年が受け止めてくれたことに気づいて大慌てで身を起こした。
青年も体を起こし、聖女は改めてその人を見た。
高い位置でひとくくりにされた真っ直ぐな金髪。
明るい髪色の多い《光の眷属》たちの中でも群を抜いてまばゆい色だった。
降り積もったばかりの雪のような白い肌、光に透ける長い睫毛――そして、吸い込まれるような蒼穹色の両眼。
引き締まった輪郭と完璧な鼻梁とが見紛う事なき男性らしさを付与している。
しっかりした首に喉仏が薄く浮き、簡素な白の衣は肩幅の広さを浮き彫りにする。
そんな質素な装いでも華があった。
――が、威圧感とも違い、温かな陽だまりを思わせる内から滲むような輝きだった。
あまりに雰囲気が違ったから、聖女は誰だかわかるまで時間がかかった。
ようやく、目の色や顔立ちから気づく。
「……聖王陛下?」
おそるおそるうかがうと、目の前の青年は青い目で瞬き、ためらいがちに答えた。
「……そうだ」
聖女は驚きを隠しきれなかった。
《聖王》。光の世界を統べ、《光の眷属》の守護者である第一の騎士。
当代の王は歴代でも最高の力を持つと言われていた。
その彼は、いまは別人のように見えた。
「それはそうと、なぜここに? ここはあまり……余人の出入りを制限しているはずだが」
ぎこちない口調で《聖王》アウグストは言った。
「わたし、迷ってしまったんです。このお庭を見かけてあまりに素敵だったので入ってしまいました! 特にあの果実をもっと近くで見たくて、触ってみたかったんです……」
聖女が慌てて言い繕うと、若き王は青い目を見開き、二、三度瞬いた。
それから、ややあって軽快な笑い声をあげた。
「はは。聖女殿をも惹きつけるとは、いい木に育ったな」
自然にこぼれた、屈託のない笑顔だった。
思ったよりずっと快活で爽やかな――玉座で見たときより何歳か若くさえ見える笑顔。伸びやかでよく通る声。
それは聖女が玉座ではじめて
『そなたの力が必要だ。穢れを払い、悪しき闇を退け世をすべての光で照らす――予と同胞の光となって照らしてくれ』
――そんな言葉をかけた比類なき王の姿とはまったく違った。
「陛下はこのお庭がお好きなのですか?」
聖女が無邪気に聞くと、《聖王》アウグストはわずかにためらったあと、ささやかな秘密を打ち明けるときのように言った。
「そうだ。わた……予の、趣味というか……、息抜きにこの庭に様々なものを植えては育てているうちに、こうなった」
アウグストはそう言って大きな果樹を見上げる。
その横顔は少し照れているように見えた。
「まぁ! とっても素敵です! 陛下にこんな趣味がおありだなんて……!! それにこの木は特に大きくてよく育っているのですね! 愛情が注がれている証拠です!!」
聖女は熱心に褒め称えた。
青い目の王は面映ゆそうに笑ったあと、悪戯っぽく片目をつぶってみせた。
「確かに、立派に育ったようだ。まさか聖女殿まで実っているとは驚いたな」
からかうような声。初対面のときからは想像もできない軽口だった。
聖女は意表を突かれ、ふいに顔に熱がのぼるのを自覚しながら頬を膨らませた。
後に王と聖女のひそやかな交流の場となった《王の庭》で、ひときわ大きなその果樹には特別な意味があった。
「私が生まれたときに、植えられた木だそうだ。いわば私の片割れ……双子のようなものだな」
「木の双子……ですか?」
目を丸くした聖女に、アウグストは快活に笑った。そして艶やかな木肌に手を触れ、生い茂った枝葉を見上げた。
「私を差し置いて立派に育ったものだ。羨ましくなるときがある」
聖女は無邪気にアウグストの側に行き、大木の影に憩った。
和らいだ光と淡い影の中で、アウグストの輪郭がほのかに発光しているようだった。
「陛下も十分に立派です!」
青年王は静かに微笑した。
「はは、そなたに言われると気恥ずかしくなるな」
「本当です! わたしだけではなくみんなそう思っています!」
なぜか避けようとする気配を感じて聖女が力強く言い募ると、アウグストは一瞬目元を強ばらせ、睫毛を伏せた。
「――やめてくれ」
聖女は驚いた。そして慌てた。
「ご、ごめんなさい! わたしは何かいやなことを言ってしまいましたか?」
「……違う、そなたに非はない。ただ――」
いつもの明朗快活な彼とは思えぬ様子で、言い淀む。
沈黙の後、アウグストはゆっくりと顔を上げた。
それから一歩踏み込む。
突然自分に向かって伸べられた腕に聖女は驚く。
気づけば、聖女は大木を背にしていた。
アウグストの両腕は木に触れ、その腕の中に閉じ込められている。
淡い木陰の中、青い瞳は海の深さを思わせる色をしていた。
「私は、そなたが考えているような男ではない」
低い、切迫した声が言う。その圧迫感に飲まれて、聖女は声が出せなくなった。
「……知っているか。王と聖女の契りについて」
聖女は息を詰めて王を見上げたまま、ぎこちなくうなずく。
王と聖女は、慣例により夫婦の契りを交わす――。
聖女は女神の化身であり、聖王はいわば女神に第一に仕えるものという立場から夫になる。
それは恋愛や家庭を築くといったものとは違った。
王は、聖女を正室としてこれを護り敬いながら、女性としては見ない。代わりに側室を迎え、女性として愛し、子供をもうける――といったことが多かった。
聖女に仕えながらも正室には迎えないという希有な例もあった。
アウグストの唇が、歪な微笑を浮かべた。
「慣例だという。ただの形式だという。だが、それゆえに――王が望みさえすれば、聖女は王の正室にならなければならない」
聖女は目を見開いた。どこか自嘲するようなアウグストの言葉に、心臓がはねあがった。
「そなたが拒もうとも、その意思は無視されるのだ。この意味がわかるか?」
アウグストの手が浮く。その手がふいに、聖女の頬に触れた。
目眩のするほど端整な顔を間近にし、聖女は体を強ばらせた。
「たとえどれほど浅ましい欲を持とうと、命じてさえしまえば――そなたを、私のものにできる」
吐息とともに、そのささやきが聖女の耳を侵した。聖女は躊躇った。
目を伏せ、唇を空回りさせる。
アウグストはその反応を見逃さなかった。
体が、腕が離れていった。
「……すまぬ。少し戯れが過ぎた」
そう笑ったアウグストは、いつもの快活さを取り戻していた。いつもと同じ穏やかな庭、礼儀正しさと親しさを併せ持った距離。
聖女はアウグストの態度に安堵した。
だが速すぎる胸の鼓動はそれを裏切り、先ほどのアウグストの姿が頭から離れなかった。
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