Chap2-3


 白が一転して、色の定まらぬ空間になった。

 落ちている、という感覚さえない。だが構造的には、螺旋牢は地下にあたるはずだった。

 足元が不安定な感覚が続き、やがて止まった。


 踏みしめたそこは広大で、再び白く染まった空間だった。

 いかなる物体も区切りもなく、茫漠とした白い荒野を思わせる。


 だが無を思わせる白の中、一つだけ立っているものがあった。

 大木のように床に根を張り、上へと伸びていく巨大な結晶体。

 純度のきわめて高い透き通った結晶の中に、大きなが閉じ込められていた。


 ――目を閉じて眠る人影。


 立ったまま、少しうつむき加減に閉じられた目。

 短く整えられた黒髪がわずかに顔にかかっているものの、精悍な輪郭に高い鼻筋がはっきりと見える。

 眉はやや太めで形がよく、閉じられた瞼の縁から長く漆黒の睫毛が伸びていた。

 その端整な唇は艶めかしかった。


 目元に落ちるわずかな陰、高い鼻や唇に冷たい気品が滲むのに、それ以上に男性的な色香を感じさせる。

 まりあは立ち尽くし、息も忘れて見とれた。


(レヴィアタン……)


 ――夜の世界の主にして、月の加護を受けし者たちの王。《夜魔王》レヴィアタン。

 ゲーム中最大のボスキャラ。主人公プレイヤーの最大の敵。


 二次元のキャラクターとして、敵の首領として一際華やかにデザインされているが、こうして同じ次元の存在として目の前にすると圧倒される。

 超常の者なのだと強烈に思い知らされる。


 ゲーム画面では全身像が現れることがなかったが、アレスと同じかそれ以上の長身で、肩幅が広く手足は長い。

 その身を包むのは黒を基調とし、紅や紫が映えるコート状の衣裳だった。

 眠っているいまの姿さえ、威厳と存在感は損なわれていない。


「……呑気に眠りおって。愚弟め」


 小柄な王姉がぽつりとつぶやく。


「《闇月の乙女》よ。愚弟を叩き起こせ。いつまでも惰眠を貪らせるな」


 まりあは息を呑んだ。

 ――レヴィアタンを封印したのは他ならぬ自分だ。遅れて、罪悪感のようなものがわいてくる。


《夜魔王》を閉じ込める水晶におずおずと両手を伸ばし、触れる。

 冷たく硬質な感触は一瞬で、ばちっと小さな雷のような衝撃が手を刺した。

 まりあは弾かれたように手をどけたが、すぐにまた触れた。

 一瞬、頭の片隅で強いためらいが起こった。


 このまま、《夜魔王》の封印を解いてしまっていいのか。

 ゲーム中では、悪しき者たちの首領、瘴気をまき散らす元凶などと言われて、何よりアウグストを最も追い詰めた相手だ。


『《夜魔王》レヴィアタンの封印を解きますか?』


 そんな、分岐点が見える気がした。

 だがここまで来ていまさら引き返すことはできない。レヴィアタンがいなければ、自分の命が危うくなるのだ。


(……こうするしか、ない)


 まりあはそう自分に言い聞かせ、触れる手に意識を集中させた。

 壊れろ、と念じる。

 一心にそうしたが、結晶体の硬質な感触がかえってくるだけだった。


(……そんなにうまくはいかないか)


 そんなことを考えた次の瞬間、ピキンと甲高い音がした。


(うわ……!?)


 とっさに手を退かす。

 触れた箇所から大きな亀裂が入り、肥大化し、分化し、増殖していく。

 植物の根が高速で伸びてゆくに似て、結晶体に無数のひびが入った。


 そして刹那の静寂のあと、一気に砕け散った。

 無数の破片は鏡の破片のごとくきらめき、跡形もなく消える。


 中に閉じ込められていた《夜魔王》の長身が傾き、まりあは慌てて受け止めようとした。だが自分より体格も身長も上回る男の体は重く、よろめいて倒れそうになった。


「相変わらず図体ばかり大きくなりおって……手間をかけさせる奴」


 傍らでラヴェンデルがぼそっとつぶやいた。かと思うと右手をひらめかせ、紫がかった暗い光が空中に小さな魔法陣を描く。


 突然まりあにのしかかっていた重みが消えた。

 レヴィアタンの体が消えていた。

 そしてラヴェンデルの白い手に一抱えほどもある闇色の宝石があった。


「これで運ぶ。長くは入れておけんし、その間、私の力は大幅に落ちる。戦闘はお前に任せる」

「こ、これで運ぶって……その、宝石みたいなものにレヴィアタンさんが入ったんですか!?」

「そうしなければ、この無駄に大きな愚弟を運べまい。本来はもっと小さくなるのだがな」


 ラヴェンデルは不服そうに鼻を鳴らした。

 自分よりも大きな男が、一抱えの宝石に入ってしまうというのがまりあには衝撃的だった。

 だが長身の男を背負いながら走る、などといったことにならずに済むのはありがたい。


「わ、わかりました。じゃあ戻ります。はぐれないように気をつけてください」

「言われるまでもないわ!」


 まりあは頭上を見た。

 降りてくるときには何も見えなかった空間に、光の螺旋が渦巻いている。

 まりあの隣でラヴェンデルもそれを見上げ、顔をしかめる。


「なんだあれは。気色悪い」

「出るときはあの螺旋を通るんです。でも正しい順路で通らないと、螺旋の中を迷ってまたここに戻って来ます。壁や通路を壊そうとすると、螺旋がそれを反射して全部はね返ってきます」

「……ずいぶんと詳しいな」


 なぜそんなことまで知っているのかと疑いの目で見られ、まりあはちょっと冷や汗をかいた。


「まあよい。役に立つぶんには結構だ。さっさと出るぞ」


 ラヴェンデルにうなずいて、まりあは螺旋の最初の一歩を探した。

 すぐ側に、床に接していかにも上れそうな先端があるが、無論そこは幻影だ。


 その露骨な幻影を北と見立てて、西の方向へ踏み出す。

 螺旋の一番下の円の陰に入ったとたん、螺旋の内部にいた。

 ラヴェンデルがついてきているのを確認して、まりあは螺旋の中を進む。


 このまま螺旋をひたすらのぼっていけば上に到達できそうに思われるが、それも罠だった。

 正しい道順を覚えなくてはいけないのだが、最終的にまりあは紙とボールペンという絶対にして由緒正しき道具に頼った。

 何度も暗記に失敗して最後には書いたので、皮肉にも道順を覚えてしまった。


 まりあは目印に集中し、ひたすら進む。

 長い時間が過ぎたように思えた。やがて、それは唐突に終わった。

 ひたすらな一本は消え、気付けば螺旋牢に飛び込む前の部屋に立っていた。


「――急げ!」


 ラヴェンデルの叫びを聞くと同時、まりあは駆け出す。来た道を戻って一気に北通路を抜けると、左右に道が広がった。


 大円通路の外側の円に出た。

 庭園に戻ろうと左へ踏み出しかけた時、複数の重い足音が聞こえた。


「――捕らえろ!!」


 騎士たちの姿が目に入るなりまりあは反転し、右側の通路へ走った。

 ラヴェンデルも追走してくる。だが前方からも白の衣に身を包んだ金髪の騎士たちが見え、血の気がひいた。

 たたらを踏むと、すぐ側から怒声が飛んだ。


「止まるな! 突破しろ!」


 ラヴェンデルの鋭い叱責は、それだけ余裕がないことを訴えている。


(そ、そんなこと言われても! 戦うなんて無理……っ!!)


 こんなにまともに遭遇エンカウントするなど思いもしなかった。


「ぐずぐずするな! 挟まれる!」


 緊迫した叫びがまりあを更に焦らせた。通路は円になって繋がっている――後方からも追っ手が来ている。


(ああもう……っ!!)


 まりあは唇を引き結び、ほとんど賭けに出るような気持ちで、手に意識を集中する。自分にはどうやら魔法らしきものが使える。

 それでなんとか隙をつくることができれば――。


 ふいに、まりあの意図を察したかのように右手に快い冷たさが生じた。

 アレスだ。焦りが和らぐ。

 右手を握る。冷たく硬質な感触――顕現した漆黒の剣を確かに握りしめる。

 武器を構えた騎士たちが迫ってくる。


「アレスさん、お願い――!」


 祈りが叫びになって、ほとんど導かれるように右腕ごと薙ぎ払った。

 闇を凝縮したような長剣が、黒い風の刃を放つ。

 騎士たちに直撃し、一撃でその手の武器を砕き、体をなぎ倒す。


 その威力にまりあは一瞬恐怖したが、彼らが体を起こそうとするのを見て、黒の剣を強く握りしめて走る。


 再び前方に阻む者が現れた。先ほどより人数が少ない――否、一人だった。

 だがその青年騎士を見て、まりあは目を見開いた。


 光を象徴するかのような明るい金髪の人間が多い中、目の前の青年は珍しいほど暗い金髪だった。

 長い髪を大きな三つ編みにして後ろに垂らし、襟を一切の隙なく閉じて軍服を着る様はどこか窮屈ささえ感じさせる。

 やや細めで形の良い眉、高い鼻、険しく引き結ばれた唇に、こちらを射るエメラルドの目。どこか繊細さの滲む端整な顔立ち。


(ヴァレンティア……!?)


 見知ったキャラクターにまりあは動揺し、一瞬立ち止まりそうになった。

 だが翡翠の目の騎士は左手を突き出す。


「穢れ払う光よ!」


 ヴァレンティアが鋭く叫ぶと同時に掌から光の矢が飛び出し、まりあに向かう。

 動揺を引きずり、まりあは反応が遅れた。


 だが籠手に包まれた右腕は主の遅さを即座に補い、剣で飛んできた矢を薙ぎ払った。

 アレスがとっさに腕を動かしてくれていた。


 しかしヴァレンティアはその間にも疾走し、一気に距離を詰めていた。

 まりあは反射的に後じさった。白銀の剣が閃く。


 ガキン、と金属が噛み合う音がした。

 まりあの両腕は黒剣を握り、敵の剣を受け止める。

 鍔迫り合いになり、ヴァレンティアの顔が歪むのが間近で見えた。


 翠の目の騎士はそのまま押し切ろうとしてくる。


「ちょ、ちょっと待って!!」


 黒剣を必死に握りしめて耐えながら、まりあは叫ぶ。


「あなたと戦うつもりないです……っ!!」


 ――ヴァレンティアは個別ルートを持っていなかったものの、印象的なサブキャラクターだった。

 彼の個別エンディングを望む声はとても多かったし、まりあもその一人だった。


 だが騎士の美しい目に怒りが燃え上がり、まりあの剣を弾いて距離をとった。


「私を愚弄するか。穢れめ……!」

「ち、違いま――」

「その汚らわしい口を閉じろ!」


 ヴァレンティアは吐き捨て、再び剣をはしらせる。

 まりあは竦んだ。親しんでいたキャラクターに、こんなに生々しい敵意と冷たさを向けられる。


「何をしている《闇月の乙女》!!」


 ラヴェンデルの怒声が頬をはたいた。

 アレスがまりあの腕を支え、再びヴァレンティアの剣を受け止めさせる。


(私は《闇月の乙女》なんかじゃないって……!!)


 とっさにまりあはそう悲鳴をあげそうになった。

 ヴァレンティアと戦うつもりなどない。彼の敵ではない。《闇月の乙女》などではない。


 だが、彼の目は和解するなど不可能だと訴えてくる。――少なくともいまは。


 まりあは漆黒の剣に力をこめた。


「――大きな怪我は負わせないで!!」


 手も足も支えてくれるアレスの力を感じながら懇願する。


(足止めするだけ……!!)


 剣を振るい、再び、ヴァレンティアの剣と衝突する。

 だが拮抗したのは一瞬で、ヴァレンティアの剣が砕け散った。


 目を見開いた騎士の腹部を透かさず黒剣がかすめた。騎士が膝を折る。

 まりあは恐怖した。

 だが青年がよろめきながらも立ち上がろうとするのを見てから即座に駆け出した。


「待、て……!!」


 ヴァレンティアのうめきから遠ざかるように全力疾走する。

 決して振り向かないようにした。奥歯を噛む。


 ――見知ったキャラクターたちに会いたいなどと思った。だが決してこんな形でではない。


 これも《闇月の乙女》なんてものになってしまったせいで――。


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