Chapter 2:天空神殿《イグレシア》――《夜魔王》解放
Chap2-1
まりあが動かしていた主人公――つまり《陽光の聖女》たちのいる天空神殿が《イグレシア》という名称である一方、ラヴェンデルたちがいるこの漆黒の城にも名前がある。
夜の城《パラディス》。
この永遠の夜の世界《永夜界》になお濃く艶やかにそびえる漆黒の巨城――《夜魔王》の居城だった。
(なんか、思っていたのと違う……)
ゲーム本編では、《永夜界》はいかにも瘴気と穢れに満ちた闇の世界であり、おそろしい悪の温床というような説明だった。
だが、今まりあの目に映る風景はひたすら静かな夜――あるいは海の底のような深みがあった。
夜の衣があらゆるものを優しく包んでいる。
「……で、聞いておるのか《闇月の乙女》」
「! あっ、す、すいません、ぼうっとしてました……」
ラヴェンデルの不機嫌な声で、まりあは物思いを中断した。
《パラディス》城の屋上――そこからの眺めがあまりにも神秘的で、意識を奪われてしまった。
「ずいぶんと余裕だな? その余裕が本物であればよいが」
「……すいません。《天上界》に行かなくちゃいけないって話ですよね」
「そうだが、その意味がわかっておるのか? 手勢はなく、乗り込むといってもお前とそこの阿呆剣と私だけだ。戦闘は極力避け、愚弟をさっさと見つけて最速で脱出する。よいな?」
厳しい教師のように説明するラヴェンデルに、まりあは緊張しながらうなずく。
「敵の世界に充満する空気は、我々にとっては毒も同然です。あの世界の歪んだ空気は、《闇月の乙女》、あなたの身に負担を強います。一刻も早く脱出するべきです」
アレスは顔立ちに負けず劣らず端整な声で言った。
形の良い眉をひそめ、気遣わしげにまりあを見つめる。本気で案じているのだと全身で伝えてくる。
その姿にまりあはくらっときた。
どぎまぎしながら、必死に冷静を装う。
「そ、そうですね。向こうの……人たちが、こっちの世界で息苦しいのと感じるのと逆、というので……」
まりあはなんとかそう答えた。
――聖女たちが《月精》を瘴気と呼んで忌み嫌っているように、ラヴェンデルたちからすれば、《光精》のほうが毒ということなのだろう。
「とにかく自分の身は自分で守れ。他人の子守までは無理だからな」
「き、気をつけます……」
「……それで、問題は《イグレシア》のどこに螺旋牢とやらがあるのかわからんということだ。深部のほうだとは思うが、迷って時間を浪費すれば愚弟を取り返すどころではなくなる」
まりあははっと息を呑んだ。
「あの……私、たぶん、わかると思うんですけど」
「何?」
ラヴェンデルが大きな目を見開いた。
「……なぜ、おわかりに?」
アレスが控えめな微笑を浮かべ、穏やかな声で言った。
まりあは口ごもった。
(
ゲーム中主な舞台であったので、何周もしていれば自然と覚えてしまうのである。
第一、《夜魔王》を封印したのはまりあ本人だった。
だがさすがにそんな説明はできなかった。
戸惑っているうち、ラヴェンデルがふうっと息を吐いた。
「まあよい。お主がわかるというなら道案内は頼んだぞ、《闇月の乙女》」
まりあがうなずくと、ラヴェンデルはレースのあしらわれた大きな袖から、青白い指をひらめかせる。指先の描いた軌跡は蛍火のように淡い残光となり、四角と丸が組み合わされた図形を描いた。
次の瞬間、まりあの耳に馬の嘶きが聞こえた。
短く驚きの声をあげると、ラヴェンデルの指が描いた図形から紫色の光が飛び出す。
光は一気に膨張して四つ足の動物を象ったあと、一気に闇色に反転した。
まりあの目の前に黒真珠のような毛並みを持った馬が二頭現れた。
背には鞍もつけられ、あとは乗り手を待つばかりといった様子だった。
ラヴェンデルは、その身長からすると相当な高さであろう鞍にひらりと飛び乗った。
黒いレースの裾から伸びる足は慣れた様子で馬の背に跨がり、奇妙に勇ましい。
そして、呆然とするまりあを見下ろした。
「さっさと乗れ。何を呆けておるのだ」
「え、え……」
まりあは怯んだ。乗馬経験など一度もない。
だがラヴェンデルは手綱をひいてさっさと馬を動かしてしまう。
(えええええー! この一頭にわたしが乗れってこと!?)
まりあはもう一頭の黒馬に目をやった。馬は暇そうに前足を遊ばせ、首を下げている。
それからはっとしてアレスを振り向く。
――馬は一頭。乗るべき人間は二人。となればアレスと一緒に乗るのか。
アレスの返した微笑みは、あたかもまりあの考えを肯定するかのようだった。
「防御は私の得意とするところではありませんが、あなたの身を守る盾にはなれます。どうぞ、お気をつけて」
まりあはえっ、と短く声をあげた。
アレスは一瞬瞼を閉じた。とたん、その姿が闇に消える。
まりあの腕や足、そして胴体に優しく包まれる感覚があった。
思わず腕を上げて自分の体を見下ろすと、肘下から手の甲に籠手――膝下から爪先を覆う長靴――そして胸から胴に、黒曜石のような鎧があった。
艶やかで見るからに重厚なのに、まったく重さを感じない。
腰から下には、元のドレスがなびいている。
まりあは忙しなく瞬きした。
「え、これ……あ、アレスさん?」
答えはなかった。だが、言葉の代わりに防具が淡い熱を発した。
――まるで体温のように。腕に、足に、アレスが自分のそれを絡めてくるような錯覚。
(う、うわわわわ……っ!!)
ひどく恥ずかしい連想をして、まりあは一人慌てた。
いたたまれなくなって忙しなく周囲を見回すが、傍らにいるのは暇そうにしている黒馬だけだった。
やけに熱い頬に手で風を送り、少し冷静さを取り戻す。
(……馬には、自分一人で乗れってことだよね)
こんな夢の世界でも、そのあたりは甘くないらしい。
まりあはおずおずと馬に歩み寄った。
どうせ、これは現実の自分ではない――乗馬はおろか本物の馬を一度も見たことのない、一般人昏木まりあではないのだ。
そっと手を伸ばして体に触れても、馬はまったく動じなかった。
まりあはなんとか
黒い長靴が持ち上げてくれたように感じた。アレスの力なのかもしれない。
ぎこちなく手綱を握る。
そのときにもまた、手の甲までを覆う籠手から淡い力を感じた。
――しっかり握るよう、アレスが手を重ねてくれているようだった。
主を得て、黒い馬は頭を持ち上げた。
滑らかな夜色の
そうして、本当に空へと駆け上りはじめた。
まりあは慌てて手綱を握りしめ、馬にしがみつくように前屈みになった。
だがこれもアレスの防具のおかげなのか、はじめて馬に乗ったあげく空を駆けるなどという強烈な体験をしているにもかかわらず、体は安定した。
空飛ぶ馬は、見えない階段を上るがごとく高度を上げていく。
まりあは手綱を強く握りつつ、おそるおそる顔を上げる。
そして周囲の風景を認めた。
(うわぁ……!)
大きさも色も違う、淡い碧や琥珀色の星々が見えた。
一切を覆い隠すような深い夜でありながら、空は黒、蒼、碧と複雑に揺らめく。
天に海が広がっているかのようだった。
これで月が見えないのが惜しく思われるほどだった。
視線を下に向ければ、この濃い夜の中にあっても不思議と大地が見える。
大きな波のように隆起する山、暗い水底のように見える谷――無数の光が集まり、そよぐ植物の群生地らしき地点や、水面が不思議な輝きを放つ湖。
すべては淡い青色の薄膜を通したように、光の当たる部分は薄青に、あるいは紫に、暗い影は漆黒になる。
その光景すべてが、別世界であることをまりあに痛感させた。涼やかな夜気と同時に、鼻腔から少し甘さを孕んだ空気が流れ込む。
圧倒的な、世界の存在感。まりあは陶然とした。体がこの空気と風景に震えている。――瘴気の満ちる世界、などとはとても思えない。
《永夜界》に目を奪われていると、突然頭上から光を感じてはっとした。
まりあは真上に顔を上げた。夜が明けてゆくときのような光――空の色が変わっている。やがて目を見開き、声を失った。
遥か天には、一転して晴れた空が広がっていた。限界の高度からいきなり青空に切り替わってしまったかのようだった。
見えない境界を境に、昼と夜が隣接している――。
「こじ開ける! 手伝え《闇月の乙女》!」
ラヴェンデルが突如そう声を張り上げ、昼と夜の境界に向かって手を突き出した。
その白い掌から闇色の螺旋が放たれ、渦を巻いて巨大化する。
渦は不可視の境界に直進し、衝突する。
境界面が一瞬、水面が大きな波紋を描くようにたわんだ。
甲高い衝撃音がまりあの耳をつんざき、びりびりと肌が振動した。
ラヴェンデルの放つ黒い渦はそのまま、空を穿とうとするかのように衝突しつづける。
「――何をしているのだ! 早く手伝え!」
「て、手伝えって……! わ、私、魔法なんて使えない……!」
「寝言をほざいている場合か! 早くしろ!!」
そう叫ぶ声は険しく、表情は厳しかった。
(そ、そんなこと言われても……!)
ラヴェンデルを手伝わなければまずいことはわかる。だが何をどうすればいいかわからない。
思わず自分の鎧を見る。
――優しいアレスが教えてくれるのではないかと期待する。
だが鎧となってしまったからか、答えは返ってこなかった。
ラヴェンデルは業を煮やしたように声を荒げた。
「私に倣え! 集中して、想像しろ! 内にある力を外に出せ!」
あまりにも漠然とした指示に、まりあは混乱し、無理だと言いたくなる。
だができない、などとまごつく暇はなさそうだった。
(ああ、もう……!!)
とにかくやるしかない。右腕を突き出し手を大きく開く。
ラヴェンデルの模倣――集中、想像。
ラヴェンデルがこの瞬間にも発している黒の螺旋を、頭の中で思い描く。
自分の掌からそれを放つ想像――雑念が入り込むのを必死に振り払う。
やがて、世界が静寂に包まれた。
そして胸の奥に心地良い冷たさを感じた。
その冷たさは体中に広がり、喉の奥に這い上がる。
まりあの中の、まりあでない何かが声を発した。
「《月よ、応えよ。この手は闇夜の覆い、銀の刃》」
次の瞬間、掌から黒い雷が生まれた。
瞬く間に腕を這い上がり、茨のごとく絡みつく。
そして手から夜色の螺旋が飛び出した。
螺旋は瞬く間に巨大化して漆黒の竜巻と化し、不可視の境界に激突する。
空が大きく歪み、のたうつ。
その反動がまりあの腕を伝い、体全体に衝撃を伝えた。
だがアレスの鎧が支え、体を立て直した。
そしてまりあの視界に、自分が放った雷の威力がはっきりと映った。
空に、大きな穴が穿たれている。
昼の世界に空いた大きな傷口のようだった。
「――急げ!!」
ラヴェンデルが叫び、人馬一体となって空の洞に飛び込む。
その周辺に細い光が葉脈のごとく集まりはじめ、たちまち穴を塞ごうとする。
まりあは慌てて手綱を握り、馬を急かした。
ラヴェンデルに続いて穴に飛び込むと、焼けるようなまぶしさで目が眩んだ。
何度も瞬いて堪え、背後を振り返る。
穴は光の糸によって急速に修繕され、ほとんど塞がっていた。
まりあは顔を戻し、片手で手綱を握りながら、もう一方の手に目を落とした。
――魔法を使った。自分が。
掌から確かに黒い雷のようなものが出て、巨大な竜巻になった。
喉は、どこからともなくわきでた呪文のような言葉を発した。
理性を超え、全身が高揚した。
魔法。
幼い頃に夢見た幻想を、こんな形で、こんな鮮烈に体験できるとは思わなかった。
なんでもできる――そんな万能感と興奮に酔いそうになる。
だが突然、体がひどく重くなって馬から落ちそうになり、慌ててしがみつく。
(あ、あれ……?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます