Chap1-2


 妖艶な容姿に反して、透明な、青年らしい声だった。


「アレス、さん……?」

「はい」


 戸惑いがちにまりあが呼ぶと、青年の顔に一転して喜びが広がった。

 不意打ちの笑顔に、まりあの心臓が飛び跳ねた。


(か、可愛い……!!)


 うっかりそんなことを思い、また動揺した。


(ってそうじゃない!! 夢……にしても、アレスなんてキャラは『太陽と月の乙女』にはいなかった! でもヘルディンっていうのは確か……)


「こら《闇月の乙女》! 何を呆けている!! 早くこれを壊せ!!」


 少女の苛立たしげな声がまりあを引き戻す。

 慌てて振り向くと、事実上のラスボス――ラヴェンデルが白銀の縄に縛られて倒れたまま、こちらを睨んでいた。


「何を愚図ついているのだ!! 早くこれを壊せ!」


 高くよく通る声で怒鳴られ、まりあは慌てて駆け寄った。

 ラヴェンデルの傍らに屈み、輝く縄に手をかけようとする。

 だが、大きな手が優しく重なった。

 どきりとして顔を上げると、いつの間にか左隣に黒衣の青年――アレスがいた。


「こんな汚らわしいものにあなたの手を触れさせてはいけません」

「……おいそこのなまくら! それは、私が汚らわしいものに縛られていることへの嫌味か!?」


 ラヴェンデルはアレスを睨んで噛みつくように言ったが、当の青年は冷ややかな一瞥をするのみだった。

 かと思えばアレスはまりあに顔を向け、またあのひたむきで、気恥ずかしくなるような目で見つめる。


「……これを壊すことがあなたの望みですか?」

「えっ……、ま、まあ、はい、このままにしておくのは忍びないというか……」


 わかりました、とアレスは短く答えた。

 大きな手が無造作に光の縄をつかむ。子供が玩具を握るように力をこめると、脆い土を砕くに似て呆気なく砕けた。


(え、えええ!?)


 まりあは驚く。

 この縄は《払魔の光縄》で、かつて結構苦労して手に入れたレアなアイテムだった。

 一定時間、絶対に敵を拘束する。

《夜魔王》以外の敵では、力ずくでは断ち切れないはずの縄。

 それが、こんなにも呆気なく――。


 解放されたラヴェンデルは素早く立ち上がると、可憐な顔を歪めて腕や足を払った。


「忌々しい……。本来であれば、あんな雑魚どもに後れをとることなどなかったものを……。光の狂母め。澄ました顔をしてずいぶん卑劣な手を使う」


 ラヴェンデルは忌々しげにそう吐き捨て、まりあは思わず萎縮した。


(光の狂母って……主人公の《陽光の聖女》のことだよね……)


《闇の眷属》が、《陽光の聖女プレイヤー》を蔑んで光の狂母などという。

 ――実際、まりあはラスボス戦を楽に進めるために補助アイテム、武具防具はすべて獲得し、惜しみなく投入した。


(で、でもゲームだし、それが正攻法だし……)


 まりあは内心で言い訳する。

 ゲームのキャラクターであるはずなのに萎縮してしまう――。

 ふいにラヴェンデルが向き直って真正面から見つめてきて、ぎくりとした。


「遅いぞ、《闇月の乙女》! 我々がどれだけお前の出現を待ちわびていたと思っている! そのわりに頼りなさそうだが、もっと自覚を持て! 先ほどとて、さっさと敵を薙ぎ払えばよかったではないか! 遊んでる暇などないのだぞ!!」

「えっ、ご、ごめん……あの、《闇月の乙女》って?」

「戯れはやめろ! いまは撃退したが、奴らはすぐにまたやってくる! 悠長なことをしている暇はないのだ!」


 幼く可憐な少女は高い声のまま、厳めしい口調でまくしたてる。

 まりあはその勢いに圧され、忙しなく瞬きをした。


「……え、《闇月の乙女》って……、私が?」

「笑えん寝言はやめろ! 他に誰がいるというのだ!?」


 ラヴェンデルに本気で怒られ、まりあは怯む。


(……って、《闇月の乙女》って敵じゃん! トゥルーエンドではじめて出てくるキャラ!!)


 各キャラのエンディングを全部見てはじめて解放されたもう一つの分岐ルート、そこではじめて出現したキャラだ。

 しかも《闇の眷属》側として。

 それ以外にはほとんどが不明なキャラクターでもある。


 わかっているのは、本来のラスボスのラヴェンデルが待つはずの決戦の間で、玉座に《闇月の乙女》が座っていたこと。

 倒せ、というゲーム内のテロップが出ていたことだ。


 そして、《闇月の乙女》が立ち上がって顔が見えた――。


 思い出したとたん、まりあの背に冷たいものがはしった。

 スマホの画面の向こうにあったのは、だった。

 そんなことがありえるはずはないのに。


(……あれも、夢……?)


 それ以外には考えられない。だがそうならどこで眠りに落ちたのか。

 まりあはふいにかきむしりたくなるような不安を覚え、自分の顔を触った。

 自分の掌の感触。肌の感触。


「何だ?」

「鏡……、ないかな」


 いきなりまりあがそう言ったので、《夜魔王》代理の少女は訝しむ顔をした。

 だが、白い指を虚空にひらめかせる。

 すると、宇宙に似た空間が一部変化し、鏡らしき面が現れた。

 その不可思議な鏡面に、まりあの全身が映った。


 緩いウェーブの黒髪に黒い目、これといって特徴のない、日本人の女の顔――平均身長ほどの体を黒と紫のドレスに包んだ昏木まりあだった。


 ドレスは一見して現実のものではないとわかった。

 腰のあたりから長い裾にかけて、漆黒から銀光の散りばめられた青へと移り変わる。まるで夜空をそのまま閉じ込めたかのようだった。

 それでいて、青い部分は光の加減で濃い紫、赤みの強い紫にも見える。

 夕暮れから夜明けのように絶えず色の変化する裾を包むように、腰のうしろから薄衣が垂れ、鎧をも思わせる銀のベルト状のもので留められている。

 上半身の黒い布地には銀にきらめく刺繍があった。


 ――《闇月の乙女》と呼ばれるラスボスと、まるきり同じ衣装だった。


 まりあは一瞬目眩を覚える。

 ゲームの中のラスボスキャラが、自分の顔にすげかわっている――まるで自分がなりかわってしまったかのような錯覚。


(あ、ありえない……、こんなの夢……!)


 しつこく自分にそう言い聞かせる。記憶をたどろうとする。

 だがたどればたどるほど、いつもと変わらぬ仕事終わりの日常――『太陽と月の乙女』を起動したこと、トゥルーエンドの最終決戦に突入したこと、そのラスボスの顔が自分だったこと――そして、スマホから強烈な光が飛び出して意識を失ったことしか思い出せない。


 どこからが夢で、どこからが現実だったのか?


「……これは?」


 すぐ側で低い青年の声がしたかと思うと、まりあは薄い布越しに肩に触れる指を感じた。

 顔を向けると、アレスが黒い眉をひそめてまりあの肩の傷を見ていた。

 とたん、思い出したかのように傷の痛みがひどくなった。


 まりあはおそるおそる、傷口に手で触れた。

 指に滲んだ血の色は目眩がするほど鮮やかだった。

 アレスの指が気遣うように優しく触れる感覚も、この痛みも脳がつくりだした錯覚とは思えない――。

 圧倒的な現実感が、かえって頭を麻痺させるようだった。


「……盲信の蛮族ども、一人も生かしてはおかぬ」


 端整な顔からは想像もつかぬ低い呪詛の声が青年の口からもれた。


「あ、あの……! この傷! 治してもらえませんか! その、魔法みたいなので……!」

「何を寝ぼけたことを言っているのだ。治癒魔法か? あれはリデルの下僕の技だ。我々はそんな軟弱な技は使わない」


 ラヴェンデルにひどく訝しげな顔をされ、まりあは愕然とした。

 ――主人公プレイヤーだったときは湯水のように使えていたのに。


(そ、そういえば、聖女の魔法の源って陽光だとかなんとか言っていたような……)


 そもそもここには陽光がまったくないようだった。


「じゃ、じゃあ、ラヴェンデルさんたちは大きな怪我とかした場合はどうするんですか……?」

「おい、戯れ事もいい加減にしろ。私を侮辱しようとしているのか? 怪我を負う前に敵を制圧し、殲滅する。それが我々のやり方だろうが」


 冗談でもなくラヴェンデルに本気で苛立った様子で言われ、まりあは更に驚愕する。


(無茶苦茶じゃん……! 治してもらえないの、これ!)


 痛みを意識するとよりひどくなって、まりあは泣きそうになった。

 その側で、アレスは険しい表情になってラヴェンデルを睨む。


「《闇月の乙女》を護れなかったのか」

「戯けめ。こちらは自分の身すら危うかったのだぞ。それにこやつが自分で戦えば、あの程度の敵はすぐに一掃できたはずだ。傷を負うこともなかった」

「……役立たずども」

「おいなまくら!! 消し炭にされたいか!?」


 アレスがぼそっと付け足した一言に、ラヴェンデルが気色ばむ。

 まりあだけが、傷の具合に呆然としていた。もはや怖くて直視できない。


(こ、これ痕とか残るのかな。治る、よね……?)


 すると、その不安を察知したかのようにアレスが目を向けた。


「……痛みますか」

「い、いえ……そんなには」


 反射的にまりあはそう答えてしまった。

 青年の端整な眉がわずかに曇った。

 黒衣の腕が伸び、その手が肩に触れる。

 まりあが息を呑むと、アレスの手がわずかに銀色めいた光を放った。


 ひんやりと冷たい感覚が生じ、次の瞬間、痛みは嘘のようにひいていた。

 アレスの手がゆっくりと離れていく。


「――治癒の技は使えませんが、痛覚を多少鈍くすることはできます」

「あ、ありがとう……」


 痛みを感じなくするというのは少し不穏な表現に聞こえたが、痛いよりはましだった。

 そうして、ようやくはたと我に返った。

 その場の空気に流されている場合ではない。


「……っていうかですね! 私、《闇月の乙女》っていうのじゃ、ないんだけど!」

「は? いきなり何を言い出すのだ!」

「いえ、私、昏木まりあっていう名前の日本人で! ねえ、私おかしいでしょ? あなたたちと全然違うっていうか……」

「おかしいのはお前の頭のようだぞ。戯れ事に付き合う暇はない、しっかりしろ!」


 逆にまともに叱咤されてしまい、まりあはますます混乱した。

 ――いま目の前にいるラヴェンデルやアレスは、元が二次元とは思えぬほどリアルで存在感がある。


 ラヴェンデルの、血の気を感じさせない白い肌。ゆるく巻いた髪の一本一本は、気の遠くなるような描き込みよりもなお緻密だ。


 黒一色という異質な衣装をまとうアレスも、遠い国の王族を思わせる高貴さがあり、彫りの深い顔立ちや浅黒い肌はこの手で触れられるものとしてそこにある。


 自分と同じ人間――だが、二次元のデザインゆえに無慈悲なほどに煌びやかで、美しい。

 そんなキャラクターが存在する世界で、昏木まりあなどという、特別にデザインなどされていない平凡な日本人の女がいて浮かないわけがない。


(目なんか重い一重だし鼻は低いし肌だってそんなにきれいじゃないし!?)


 自分から見てもだというのに、二人はなんとも思わないのか。

 まりあはアレスに振り向いた。


「あ、あの、アレスさん……こういうこと言うのもなんですけど、私の顔おかしいですよね? 《闇月の乙女》とかいうのとは全然違いますよね? つまりその、顔が露骨に残念というか……」


 支離滅裂気味にまりあが言うと、黒衣の青年は眉をひそめた。

 それから、丁寧な口調で答えた。


「あなたは美しい。この世界の何よりも。あなたを一目見た時からその想いは変わりません」


 闇夜の中の炎を思わせるような目がまりあを真っ直ぐに見つめる。

 まりあは固まった。息が止まり、まともな思考力が吹き飛んだ。

 ――想像を絶する超破壊力の返答だった。

 まったく不可抗力に顔が熱くなった。


 胸の内側で、小鳥が忙しなくはためいているように鼓動が乱れる。


(ひ、ひとめぼ……? いやいや、いやいやいやいや!! これ乙女ゲーだから!! 私に言われたんじゃないでしょ!!)


 おそらく《闇月の乙女》とかいうものの設定なのだ。

 そうに違いない。

 だが顔は熱くなる一方だし、アレスの顔を見られない。


 すると、冷ややかな少女の声が割り込んだ。


「そやつの目はまともにはたらいておらんようだな。お前も何を動揺しているのだ。白けるわ」

「すっ……すいません……」


 ラヴェンデルのほうがよほど冷静で現実的に思え、まりあは思わず謝ってしまった。

 いい年をして、と言われたような気がした。


「つまらん戯れをやっている暇はない。よいか、奴らはまたやってくる。一時退けたとはいえ、我々が危機に瀕しているのは間違いない」

「奴らって……まさか《光の子》ら……」

「その虫唾がはしる言い方はやめろ。あんなもの、狂信者の集まりだ。光の狂母をはじめとした蛮族どもにすぎん」


 可憐な容姿と澄んだ声で、《夜魔王》の姉は辛辣に吐き捨てる。

 思わず怯むまりあを後目に、細い腕を組み、険しい顔で睨んだ。


「よいか、状況は最悪も最悪、これ以上ないほどなのだぞ。魔公爵たちはおろか、我が愚弟――レヴィアタンまでもが奴らに封じられた。戦力の差は絶望的だ」

「……」


 まりあは答えられなかった。――その通り、としか言いようがなかった。

 なぜなら、ほかならぬプレイヤーまりあがそうしたからだ。


「このままでは我々は滅びる。《闇月の乙女》、お前がようやく現れたのはいいが少々遅れすぎだ」

「あなたたちが滅びる可能性については否定しませんが、《闇月の乙女》は死なせません。私が護ります」


 口ごもったまりあに代わってアレスが涼しい顔で答える。

 ラヴェンデルは更に苦々しい顔になって黒の青年を睨んだ。


「色ぼけ剣め。ともかく、こうしてはおれぬ。さっさと我が愚弟を引っ張り出すのだ」

「……え」

「呆けた顔をするな。我が愚弟、《夜魔王》レヴィアタンを奴らから取り戻すのだ」

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