Chapter 1:最終決戦――真・ラスボス《闇月の乙女》

Chap1-1


 ぐわん、と世界が一瞬歪んだ。

 ひどい目眩に襲われ、体が傾ぐ。乗り物酔いしたかのような感覚。

 それから――。


 昏木まりあは目を開ける。

 目に映るものがぼやけていて、二、三度瞬きをする。

 視界は暗い。

 一面が青と黒の濃淡からなる世界で、星々の光が瞬いている。


(……プラネタリウム?)


 ああそういえば、一度行ってみたいなんて思っていたんだっけ――と半分夢見心地の意識が言う。


「しっかりしろ、《闇月の乙女》!!」


 少女の甲高い、だがどこか老熟した口調の叫びが耳をつんざく。

 まりあの目はそれで完全に醒めた。

 足ははっきりと地を踏み、目が周囲の光景を認識する。


「え……」


 口から、そんな声がこぼれた。

 見渡す限り、そこは奇妙な空間だった。プラネタリウムの中――。

 上下も左右さえもおぼつかない、時間さえもわからない宇宙のような空間。


 だが見覚えがある。ここはプラネタリウムなどではない。

 この宇宙に似た不可思議な空間。

 床であるはずの、足元に広がるのは、青白く発光する魔法陣。


(これって……!?)


 まりあは愕然とし、更に周囲の光景を認識する。

 自分の側にいるのは変わった衣装に身を包んだ小柄な少女だ。

 せいぜい十二歳前後といったように見えた。


 少女は全身が漆黒のドレスに包まれていて、長い袖には紫のレースとフリル、膝上の裾にもフリルという特徴的な衣装だった。

 編み上げになっている細い腰は折れてしまいそうなほどだ。

 歩けないのではないかと思うぐらいに厚底で踵の高い編み上げ靴。

 小さな頭が被っているのは豪奢なレースと紫の薔薇があしらわれた掌大の帽子だ。

 ただでさえ白い肌は不健康なほどに際立ち、形の良い唇は薄紫に塗られている。


 小さな顔の中、小さな鼻と、アメジストのように輝く大きな紫の瞳が目を惹く。

 その印象的な少女が険しい顔でまりあを見つめ、再び叫んだ。


「戦え、《闇月の乙女》!」


 ――

 イヤホンなどとは比べるまでもない、空気を伝い、近くで人間が声帯を震わせて発したもの。


 王姉ラヴェンデル。

《夜魔王》の姉にして、事実上のラスボス。


『太陽と月の乙女』の、ラスボス戦の背景――つい先ほど、まりあがプレイしていたゲーム画面そのものだった。


(夢……?)


 ゲームに熱中しすぎて、そのまま寝落ちでもしてしまったのかもしれない。

 だがラヴェンデルのものではない、怒りと動揺まじりの低いざわつきが聞こえた。


「聖女様は……っ!? 《陽光の聖女》様や陛下はどこに!? 貴様らの仕業か!?」


 まりあはびくっと肩を揺らした。

 現実ではほとんど聞かない、大仰な怒声だった。

 顔を向けると、こちらを睨む白い軍服の騎士たちがいた。


 この藍色の空間でひときわ光り輝いている――実際、彼らは《光の子》を自称する、光の世界に住まう種族だった。

 その後方には巨大な両扉――主人公プレイヤーが通り抜けた、最終決戦場の出入り口がある。


(マジ!?)


 におい、空気まで感じるような生々しさがあるのにきわめてゲームに忠実だった。

 だが、ラスボスを倒すべくやってきた《光の眷属》の中に、聖王アウグストや他のキャラクターの姿がない。

 主人公と一緒になって、この場に突入してきたはずなのに。


 取り残されたらしい王の護衛たちは、構えた。

 まりあは目を見開いた。


「滅せよ汚れの者……!!」


 体から光を放つ騎士たちが突進した。

 剣を構え、槍を構え――その後ろには、呪文の詠唱に入って援護しようとしている者がいる。

 夢――そうわかっているはずなのに、まりあの肌は粟立ち、棒立ちになった。


 その横で、ラヴェンデルが華奢な手を突き出した。

 肘下から広がるような形の袖からわずかに白い手首がのぞき、短い黒の手袋に包まれた手が開く。

 紫に輝く巨大な魔法陣が飛び出した。


「おこがましいぞ雑魚ども!」


 少女とは思えぬ仰々しい言葉が飛び出し、それに応ずるかのように平面の魔法陣から妖しい紫の光を放出した。

 銃弾のごとく、向かい来る敵を穿つ。

 イルミネーションを連想させる光はことごとく直撃し、駒でも倒すように騎士たちを薙ぎ倒す。


「貴様らごときが、《紫暗の麗姫》に触れられると思うな!!」


 鈴を鳴らすような声で少女ラスボスは叫び、更に左手を掲げた。

 二つ目の魔法陣を呼び出す。

 今度の魔法陣は騎士たちの頭上に飛び、今度は真上から光線の雨をまき散らした。


 騎士たちの怒号、悲鳴――。


 まりあの肌はびりびりと震え、腹の底に振動があった。

 ラヴェンデルは敵を圧倒していた。

 ――彼女はラスボスで、《夜魔王》に次ぐ強大な魔力の持ち主であることをまりあは知っている。

 普通なら、この程度の敵では相手にならない。


「――女神の《加護》を!!」


 倒れた仲間の後ろから叫び声をあげて他の騎士たちが次々と突撃してくる。

 二つ目の魔法陣は消えて光線は止み、ラヴェンデルが低い声でうめくのをまりあは聞いた。右手で描いた魔法陣を盾のごとく掲げる。


 極光の銃弾が飛び出す――だがその数が目に見えて少なくなっている。

 飛び出した光弾も、騎士たちの剣に弾かれた。

 刀身が白い光に包まれている。


(補助魔法……!)


 まりあは驚く。

 自分プレイヤーが味方に施したはずの補助魔法だ。

 ラスボスに挑むために――周回を楽にするために手に入れた魔法スキルの一つだった。


「清き力よ! 汚れを戒めよ!」


 光の騎士たちが声をあげると、白銀に輝く細長いものが飛び出す。

 それは光る蛇のように暗い宙を素早く蛇行し、黒の少女を捉えた。


 ラヴェンデルは甲高い悲鳴をあげる。

 目の眩むような光で編まれた縄が縛り付けていた。


 まりあはそれも知っている――対ラスボスのために用意した、敵の力を削ぐ魔法具の一つだった。


 騎士たちの剣先がまりあに向いた。鎧と剣や槍のきらめきが目を射る。


(な、なんで……!?)


 。騎士たちを率いてきた側だ。味方なのに。


「――っばかもの!! そのままやられるつもりか!!」


 プレイヤーまりあの敵であるはずの少女が叫ぶ。

 だがまりあは動けなかった。

 重厚な金属鎧の音、鋭利な刃物の光、現実離れした速さで騎士たちが至近距離に迫る。


「滅びるがいい!!」


 鮮烈な――純然たる殺意の叫び。光り輝く剣が振り下ろされる。

 恐怖に体が反応し、まりあは寸前で横へ転がった。

 だが右腕に火傷のような痛みが生じた。


 目を向けると黒い袖が裂けて、その下の皮膚と赤い血が見える。

 まりあの頭は真っ白になった。


「戦え、《闇月の乙女》!!」


 縄で縛られて倒れたまま、ラヴェンデルが叫んでいる。

 ――戦う。

 まりあには意味のわからない言葉だった。そんなものはゲームの中だけの言葉だ。


 ふらつきながら立ち上がる。

 震える膝で走った。

 白い騎士たちから逃げた。


「逃がすか……!!」


 まりあは振り向きたくなる衝動に駆られ、振り払って走る。


「! うあ……っ!!」


 突然、白く輝く槍が降り注いだ。

 前を阻み、左右を囲い、背を塞ぐ。

 一歩も動くことを許さぬ檻のように、数多の墓標のようにも突き刺さる。


 まりあはとっさに、直立する槍をどかそうと両手で握った。

 とたん、激しい火に触れたような痛みを感じて悲鳴をあげた。


(なにこれ……っ!?)


 両手を見ると槍の柄の形に手が

 唐突に、かすかなくぐもった音と肩に衝撃があった。

 骨まで伝わるような振動――それから、手に感じたものよりも強い熱。

 目を向ける。火よりもなお煌々と燃える、超常の力によって光る矢が見えた。


 肩を射られた――その光景に、まりあの全身から血の気がひいた。


 その場に崩れそうになり、だが槍に阻まれる。動けない。


 震えながら振り向く。

 重々しい甲冑の音とともに迫る光の騎士たちを見る。


「ち、が……っ」


 ――自分は敵じゃない。そちらの味方だ。だが、喉は恐怖で凍りついた。

 肩と掌は鮮烈な痛みを訴え、抜き身の刃の輝きは目を灼く。

 その背後に、こちらに矢を狙い定める騎士もいる。


 


 ただその直感が、脳髄を貫く。

 矢が放たれて間近に迫るのに、一瞬遅くなって見えた。

 走馬燈――減速した時間の中で、まりあは奇妙にもそんな言葉を思い浮かべた。


(うそ……)


 これは夢で、現実であっていいわけはなくて、だから大丈夫死ぬはずなんてない――でもああ、痛い。

 手も肩も、夢とは思えないぐらいに。


「――っ!!」


 叫びは言葉にならなかった。

 ありえない。あっていいはずがない。

 こんなところで。


(死にたく、ない……!!)


 恐怖、戦慄、混乱、怒り――激しい感情が全身を駆け巡る。

 突然、胸の奥がどくんと脈打った。自分のものではない

 束の間、掌の痛みも忘れて胸に触れた。


『――ああ』


 そこから、かすかな声が聞こえた。

 周囲の音がすべて消え、その声だけが世界になる。

 知らない声。なのに少し懐かしい、青年の声だった。


『私の、女神――』


 青年の声は深く胸の奥底で反響し、まりあの身を震わせる。

 酔ったように頭が痺れる。

 心臓が大きく脈打ち共鳴する。

 胎動する。


『喚んでください――私を』


 声は体中で反響し、耳の奥で長い残響となった。

 まりあはかすかなうめき声をもらした。

 何かがこみあげてくる。抑えきれない。

 胸を押さえていた手を、浮かせる。




「《覆え、黒く――全てアレス》」




 自分の喉が発したはずの声は、自分のものとは思えなかった。それから、


 漆黒。


 目に映る何よりも昏い闇が、自分の体から溢れた。


(な、に――)


 黒い血の柱のようなものが胸に噴き出す。痛みはなかった。

 白の騎士たちが怯む。


 まりあの両手は、その黒い塊を握る。

 まるでそうされるのを待っていたかのように手によく馴染んだ。

 ゆっくりと自分の中から引きずり出す。

 長く、長く、自分の体の中には到底おさまりきらないはずの長さ。


 やがてまりあの体の中から現れたそれは全貌を表した。


 ――それは、長大な剣だった。


 両手で握った部分は長い柄で、先端まで一切が鋭利な両刃の剣だった。

 全長はまりあの身長をゆうに超える。

 刀身の端々は青白く、ときに真紅の光を放った。


 だが、柄も刀身も一切が漆黒だった。

 他の色を許さぬ、すべてを拒絶し塗りつぶす暗黒。


『私の月。今度こそあなたを護る』


 耳をくすぐるような熱情と親密さを感じさせる声が剣から響く。


 だが次の瞬間、その声を引き裂くように大きな衝撃があった。

 まりあはとっさに顔を逸らした。

 目を戻したときには、檻のごとく乱立していた光の槍がすべて消えていた。


 腕に、足にほのかな温もりを感じた。

 ――人の肌を感じさせる温度だった。

 無数の銀砂を散らしたような闇が腕にまとわりついていた。


 闇はすぐに形を変え、黒曜石の光を放つ籠手となって腕を包む。

 足にもまた膝上までを覆う漆黒の長靴が垣間見えた。

 重々しく輝くその武具は、だがまったく重みを感じさせない。


『私に身を委ねてください』


 青年の声が耳元でささやく。

 それに意識を奪われ、まりあの体は勝手に動いた。

 籠手に包まれた右手は長大な剣を握り、長靴に庇われた足は悠然と一歩踏み出す。

 今度は騎士たちが目を見開き、一瞬たじろぐ。


 まりあの両手は剣を握り、高く掲げる。

 漆黒の剣が、日食の輪に似た赤い光をまとった。

 そして、まりあの腕は大きく剣を振り下ろす。


 紅い光と闇とが剣から放射され、騎士の集団を直撃した。


 たった一撃で、全身を鎧に包んだ騎士たちが吹き飛び、悲鳴と怒号があがった。

 武器と鎧が一瞬で砕け、藍色の空間の中で、残骸が落ちた星の欠片のように見えた。


「化け物め……!!」


 倒れ伏す騎士たちから呪詛のうめきが谺し、まりあは弾かれたように正気に戻った。

 自分の行動に愕然とする。

 とたんに両手に握った剣の硬質な感触と生々しい重さを感じた。


 動揺するまりあの目の前で、騎士たちがうめきながら後退する。

 負傷した仲間を引きずり、あるいは背負い、まだ力のある者はまりあに剣を向けて牽制する。

 剣を握った手が、まりあの意思に反して再び剣を振り上げようとする。


「! ちょ、ちょっとやだ! やめて!」


 自分の手と剣に向かって叫んだ。

 手と剣は、ためらうように一度痙攣して静止する。

 視界の端で光が閃いた。

 はっとして顔を上げると、一塊となった騎士たちの頭上に白く輝く魔法陣が現れた。

 ――《転移》の魔法陣。


 白い魔法陣は次々と騎士たちを飲み込み、光の微粒子をまき散らして跡形もなく消えた。

 そうして、《決戦の間》にはまりあとラヴェンデルだけが残された。

 一瞬にして、耳に痛いほどの静けさが訪れる。


 まりあは呆然と視線を落とした。妖しく輝く黒の籠手――その手が握る、漆黒の剣。

 だが闇夜の色をした剣は、突然液体のようにうねり、弾けた。

 同時に腕を覆っていた籠手も長靴も消える。


 剣の残滓は再び凝集し、まったく別の形を取った。

 長さはほぼそのままに、横幅と奥行きが生まれ、複雑な稜線を描く。


 そうして――闇色の剣は、人間の姿を象った。


 まりあは息も忘れてそれに見入る。


 刀身と同じ色の、艶やかな漆黒の髪。

 夜を溶かしたような褐色の肌。

 まりあの目線がようやく喉に達するかという長身を包むのは黒い外套で、その下も黒衣に包まれていた。

 精悍さを感じさせながらも優雅な流線を描く輪郭。細すぎず太すぎない眉も黒く、閉じられた瞼の縁に密集する睫毛も漆黒だった。


 完璧な高さの鼻。

 涼やかでありながら艶めかしさもある唇。

 その彫りの深い顔立ちは、彫像でしか見たことのないようなものだった。


 青年は、濃い色の瞼をゆっくりと持ち上げた。

 まりあは抗いがたく身震いした。


 青年の目は――人間とは思えぬ、紅蓮の輝きを宿していた。


 災いの兆しと言われる赤い太陽を思わせる目は、焼け付くようにまりあを見つめる。

 その眼差しのあまりのひたむきさと、隠そうともしない情愛はまりあをうろたえさせ、赤面させた。

 ――なぜ、こんな目で見られるのか。

 こんな人間離れした容貌の青年など、見たこともないし会話したこともない。


 青年はまりあを見つめたまま、微笑んだ。


「私はアレス。女神ヘルディンに生み出されし黒の剣――あなたの第一のしもべ、あなたの剣です」

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