第2話
ゆうちゃんが由為子と言う名前なのを僕はつい先日、彼女の体操服袋の名札を見るまで知らなかった。
油性ペンで書かれた『野嶋由為子』という柔らかで華奢な文字が僅かに滲んでいる。これはゆうちゃん、由為子が書いた文字だろうか。そう思うと僕は何故か背中がむず痒くなるのを感じて、誰に見られているわけでもないのに慌ててその場から立ち去った。
僕の小さい姪は、小さいゆうちゃんはもう『野嶋由為子』なんていう立派な女学生になってしまったのだ。
「ただいま。」
玄関先でゆうちゃんが誰に言うでもなくそう声をあげる。おかえり、とただたった一言返してやればいいものを僕はどうしたものかとてつもなく緊張してしまってぎこちない表情を浮かべたまま立ち尽くしていた。
軽い足音と共にゆうちゃんがこちらへ歩いてくる。
「…叔父さん、ただいま。」
ゆうちゃんは僕の喉元辺りをジッと見つめてそう呟いた。
どういうわけだか昔から僕等は似ていた。お互い、上手く人と接し合えないのだ。
僕は泳ぎそうになる視線を何とか留め、まともな人間のフリをしようと大して大きくもない目を細めた。
「ああ、帰ったの。」
しくじった、と思った。
大概こういう時、他の人ならば失礼な奴めという視線を僕に向けてからふいとそっぽを向く。
だが、ゆうちゃんは僕がしくじった時、何故だかとても嬉しげなはにかんだ笑顔をして僕の事を見上げるのだ。
「ええ。今帰ったの。」
僕等の会話はそれだけだ。
たったそれだけなのだが、僕は何だかそうしてゆうちゃんと会話をした日は一日何とも言えず晴れやかだった。とはいえ、僕は元々性根の暗い性分だから晴れやかと言っても常人にとってみれば普通なのかも知れなかったが。
由為子と言う名前を聞くと何となくだが美人な、少なくとも可愛らしい印象を受けるのだがゆうちゃんはそのどちらでもなかった。女性の顔の事を到底僕なんぞが言える立場ではないが、ゆうちゃんは通りすがりに見ても一度では顔が覚えられないようなそんな風貌であった。
もし、と考える。
もし、ゆうちゃんが由為子と言う名前で想像するような娘なら、僕は一体このひとつ屋根の下正気でいられただろうか、と。
僕の部屋からロッキングチェアが揺れる音がしている。ゆうちゃんが揺らしているのだ。
僕は訳もない溜め息を吐いて、汗ばんだ掌を握り直した。
やさしい死体 @aini_
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