第22話 月夜

 スミアは、その日の出来事を話しませんでした。

 自分の暗い部分を語らなければならないような気がして、どうしても話す気持ちにはならなかったのです。

 しかし、光戦の民をごまかすだけの器用さを、スミアは持ち合わせてはいませんでした。

 食事の準備は、今はスミアの仕事となっていましたが、すっかり慣れた光戦の民の口糧の扱いも、この夜は一食分無駄にするありさまでした。

 食事の間も、いつもはがむしゃらに食べるスミアですが、時々ぼっとしたりして、手が止まるほどでした。


 食事が終わったあと、様子がおかしいことを察して、アルヴェが話しかけてきました。

「今日、何があった?」

 すべてを読み取るような眼差しに、スミアはびくつきました。

 シルヴァが何気なく立ち上がり、洞窟の外へと出て行きました。そのようすをアルヴェは目で追いましたが、それも一瞬、すぐにスミアのほうへと目を向けました。

 弟は気を利かせたようです。しかし、おそらく洞窟の入り口で耳をそばだてているに違いありません。

 思えば、あの夜から初めての二人だけの会話でした。それがこのような詰問になろうとは……。

「な、何もないよ……。剣の練習をして……それだけだ」

「スミア!」

 スミアが立ち上がろうとするところを、アルヴェは両肩を抑えて留めました。アルヴェの声は、今まで聞いたことのないほど、迫力がありました。

 スミアは「ひっ」と小さな声を上げて、涙目になりました。

 その様子を見て、アルヴェの表情はやさしく悲しげに変わりました。

「我々は同志ではなかったのか? ともに土鬼を狩ろうとしている。君が何か秘密を持つことは、我々の結束を緩めることにもなってしまう。正直に話してはくれないか?」

 心配そうに覗き込む夕闇の瞳に、スミアは逆らうことができませんでした。

「……川辺で顔を洗っていたら、誰かが私を探っていて……」

「! 土鬼か? なぜ、そのような大事なことを!」

 アルヴェの顔が曇りました。

「つ、土鬼じゃないよ! 剣が……剣が白いままだった」

「だが、誰かが我々の動向を探っていたことには違いはあるまい!」

 低い声で怒鳴るアルヴェの言葉に、スミアはついにぽろりと涙をこぼしました。

「どうして黙っていた?」

「わ……わからないよ」

 涙がぼろぼろこぼれました。


 水に映った自分。本当の自分。土鬼のような汚いスミア……。

 それをスミアは、アルヴェにはいえませんでした。

 自分はいったい何者なのか? スミアにはわからなくなっていました。

 水に映った自分の姿は、いったいどちらが本当なのでしょう? 

 今、光戦の民の服を着た自分がいました。しかし、過去は違います。

 泥まみれになっている自分。じいちゃんとばあちゃんに怒鳴られている自分。醜悪な村にいた自分。

 そして、これから、自分はどうなってしまうのでしょうか? 


「どうしてって? どうしてかわからないんだ……。あ、あたし、怖いんだ……。なんだかわからないけど、怖いんだ」

 肩に置かれていた手に引き寄せられ、スミアの体は一瞬軽くなりました。

 次の瞬間、スミアはアルヴェの胸の中にいました。スミアはすっかり驚いて、涙が止まってしまうほどでした。

 痛いほどのきつい抱擁なのに、スミアは奇妙なほどに心地よさを感じました。

 押し寄せてくる不安から守られている安堵感。腕が緩められると、スミアはほっとため息を漏らしました。

 不安を運んでくるものは、けしてなくなったわけではありません。何かがスミアの心を揺さぶり、恐れさせるのです。

 スミアは目をつぶりました。

 先ほどとは違う別の涙が、スミアの頬をつたいました。

 心臓の音が聞こえます。光戦の民にも、ちゃんと鼓動があり、血が流れていることを、スミアは初めて気が付きました。


 アルヴェは、命ある存在なんだ。

 光戦の民も、生きているんだ。

 神様でも空気でもない。ちゃんと存在する人たち――。

 

 アルヴェは、スミアの褐色の髪を撫でながら、耳元でささやきました。

「スミア……。狩りの前は、誰しも不安な気持ちになるものなのだよ。その気持ちを癒してくれるものは何もない」

 まるで小さな赤子に戻ったように、スミアはアルヴェの胸で小さくなっていました。

「光戦の民も?」

「そう……。ただ、我々は常に自分を信じているから、不安に惑わされることはない」

 光戦の民に比べれば、人間は赤子以下でした。

 時に侵食されない外見を持っていても、光戦の民の過ごした時間は人間から見れば、永久に近いものなのです。

「人間って……弱くて情けないね」

「人間はね……成長できる種族だ。善にも悪にも、どうにでも……ね」

 スミアは頭を上げました。

 アルヴェの瞳の中に、光戦の民らしい色が揺らめいています。それは、人間と光戦の民の間にある壁の色でもありました。

 かつて、その壁はスミアを寄せ付けない孤高な壁に思えました。

 しかし、壁は確かにあっても、人間を拒絶する冷たいものではありませんでした。

 アルヴェは、スミアの頬にそっと口づけしました。

「スミアは、どのような人間になるか、自分で選び、決めることができる」

 そう言うと、アルヴェは立ち上がり、洞窟の入り口に向かって歩き出しました。

「君はもう休みなさい。明日は忙しくなるから……」

 スミアは呆然として、口を開いたまま、頬に手をあて固まっていました。

 月光が明るく照らす洞窟の外に、光戦の民の影が消えていきました。



『お見事……』

 天の言葉です。月に照らされて、弟の姿が浮かび上がりました。

 やや眉をしかめながら、アルヴェは弟のほうをふりかえりました。

『冗談を交わしている場合ではない。我々はここに長く居すぎたようだ』

『一刻の猶予もならないな。攻撃は明日の明け方か?』

『そういうことになる』

 満月が西に傾き、太陽が上がる少し前に、計画どおりにことをなすのです。

 シルヴァは、まぶしすぎるばかりの月に向かって矢を射ました。彼が決めている決戦の合図でした。

 アルヴェは、準備を整えるために岩を飛び降りて行こうとしました。その腕をシルヴァが取りました。 

『狩りが終わったら……。あの子をどうするつもりなのだ?』

 月の光の下、かすかな間合いがありました。

『それは……スミアが決めることだ』

 シルヴァは苦笑しました。

『ずるいな』

『ずるくても、我らには決められぬ』

 無表情のまま、アルヴェはシルヴァの手を払い、岩場を降りて行きました。

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