第17話 天空の戦士

「君は、彼に恋をしてはいけない」

 再びアルヴェが言いました。

「え? あ、あたし、そんな……恋……?」

 スミアには、まったくアルヴェの言わんとしていることがわかりませんでした。

 それに……。

 スミアが好きなのは、シルヴァではありませんでした。

 確かに村に入るとき、シルヴァと一緒に行きたいと叫びました。帰ってこないシルヴァのことを心配し、何度も口に出しました。

 それは、ほとんど照れ隠しだったのです。

 でも……。

 アルヴェは、そのことに気が付いてくれないのでした。

 今日の出来事を、アルヴェはどう感じたのでしょう? 

 スミアにとっては、夢のような一日でした。

 確かに魚を上げるのも、水を汲むのも辛かったのです。でも、すべては報われた気がしていました。

 アルヴェにも、スミアのうれしい気持ちは充分感じていたはずです。それは、スミアの勘違いだったとでも言うのでしょうか?

 アルヴェが、スミアをどう思っているのかはわかりません。でも、自分の想いは、少しは彼には伝わっているのだと、スミアは思っていました。

 自分の気持ちを察した上で、彼はやさしくしてくれるのだ……。そのことが、スミアの幸せな空想に、羽を持たせていました。

 アルヴェには、スミアの思いが通じていないのでしょうか? 察してもくれないのでしょうか?

「ち、違う! 違う! あたしは! あたしが好きなのは……」

 そこまで言いかけて、スミアの言葉は止まりました。

 アルヴェが、再び指でスミアの唇を抑えていました。

 深い悲しみが宿った遠い目でした。

 焚火のかすかな明かりに、縦長に瞳が締まります。あきらかに、人間のそれとは違いました。

 スミアは、計り知れない深みの中に、自分が越えることのできない高い壁を感じました。

「彼は光戦の民なのだ。君の気持ちに応えることは、けしてないのだよ」

 心が凍りつきました。

 幸せの絶頂から、突き落とされた気がしました。


 ――光戦の民は、君の気持ちに応えることはない。


 それが、アルヴェの言いたいことだったのです。

 光戦の民が、人間ごときを相手になんかするはずがないことを、スミアは、はっきりと宣言されてしまったのです。

 どんなにやさしくしてくれても、アルヴェはスミアのことを相手にしているはずもなく、スミアが成長し、どんなにきれいな女性になっても、彼の心を射止めることは出来ません。

 スミアの初恋は、手を伸ばしても、求めても、けして届かない想いなのです。

 ぽっかりと胸に穴が空き、あたりが真っ暗になりました。

 愚かでした。

 いつかは夢が叶う。

 美しくなれさえしたら、アルヴェとつりあいが取れる。

 今は無理でも、明日は? そして明後日は? いつか遠い将来は……。

 それは妄想という希望のない夢でした。


「あ、あれ? 嫌だなぁ……。恋? あぁ、惚れたはれたってやつ? あたしには無縁だよ!」

 心の中は空虚なのに、スミアの口からは、楽しそうなおどけた声が飛び出しました。

 自分でもなぜ、このようなことを言い出したのか、スミアはまったくわかりませんでした。

 アルヴェが何か言おうとしたことをさえぎって、つまらない言葉が、あとからあとからあふれだしました。

「でも光戦の民が恋……なぁんて、口にするとおかしいや! てんで似合わないや! へへへ……。いらないよ、そんなもの! でも、恋でおなかがいっぱいになるんだったら、もらってやってもいいけどね」

 カラカラと乾いた笑い声が、口から飛び出していました。

 なぜ、面白くもないおふざけが、止まらないんだろう? 

 なぜ、楽しくもないのに笑っているのだろう? 

 スミアの心は虚しくなる一方でした。

「……なにか、食べるかい?」

 無表情のままに、アルヴェが言いました。

「い、い、いや……。おなか減っていないんだ。それよりも……。そう、今日ってこき使われて疲れちゃった! 先に寝せてもらうよ」

 そう言うと、スミアはあわてて立ち上がり、天幕に向かって踊るようにして歩き出しました。わけのわからない鼻歌が、アルヴェの耳に聞こえてきました。



『ずるいやり方だ』

 スミアの姿が天幕の中に消えた時、背後から天の言葉が響きました。

 弓を片手に、なぜか泥まみれになった姿で、シルヴァが立っていました。

『戻っていたのか? 人が悪いな』

『悪いのは兄者のほうだ。よくも私をダシに使ったな』

 そう言いながら、シルヴァはスミアが座っていた場所に、腰を下ろしました。

 背中からおろした矢筒には、一本の矢もありませんでした。

『叶いもしない恋心を、これ以上大きくなる前に摘み取っただけのことだ。私は落陽の乙女とは違う』

 人間との恋にすべてをかけて死んでいった人のことを、アルヴェは口にしました。

 人間にとっては伝説であっても、永久に近い時間を生きる光戦の民にとっては、つい最近の悲しい出来事に思えるのでした。アルヴェの気持ちを追求するのは酷というものでしょう。

 シルヴァはそれに答えることもなく、スミアに使った薬のビンを取ると、アルヴェに渡しました。

 弟の美しい顔に、矢羽で切った傷を見て、アルヴェは顔をしかめました。

 星空の下、焚火の炎の明かりで、兄は弟の頬に薬を塗りました。たいした痛くもないくせに、シルヴァは薬がしみるとでもいいたげに、兄をじっと見つめていました。

 その時星が流れ、鋭い光の矢となって、天空の戦士オリオンの胸を突き抜けました。その夜空の彼方に、アルヴェたちの帰るべき故郷があるのです。

 アルヴェは、胸に手をあてました。

『土鬼を狩ったら、あの子は新しい季節を迎える。成長し、大人になるだろう。そして新しい恋をして、ともに歩む伴侶をみつけ、子供を育てて次世代に夢を託す。それが人間の生き方なのだ』

 長い時を生きてきたアルヴェに比べて、スミアの人生はまだ始まったばかりでした。

『兄者はそれでいいのか?』

『それでいいも……それしかない。あの子を冬に留めておくわけにはいかない』

 焚き火に無造作にシルヴァは薪を放り込みました。火がぱちぱちと音を立てました。

『アルヴェの予言……というわけか? そして我々は?』

 狩るべき土鬼がいなくなった世界。

 燃え立つ憎しみがなくなり、悲しみだけが残る世界……。

 アルヴェは、燃える炎を見つめていました。

『我々は、翼ある船で去るだろう』


 シルヴァは、物思いに沈む兄の姿を見ていました。

 アルヴェは、スミアのことをどう思っているのでしょう? という質問は、まったく意味のないことでした。

 なぜなら、スミアを思う心がどうであれ、アルヴェは同じ決断をするだろうからです。同情や哀れみ、友愛や仲間意識、借りを返すという責任感、そして万が一、恋であってでもです。

 光戦の民と人間の恋は、けして幸せをもたらすものではないことを、アルヴェは知っていました。アルヴェの上に流れた長い年月は、その事実をはっきりと証明するものでもありました。

 物思うことすらないのに、物思う……それだけで充分です。

 シルヴァは、想像する気にもなりませんでした。

 それよりも、今日見た事実を、兄に伝えるほうが大事なことでした。


『アルヴェ、私は今日、土鬼を追っていた』

『ああ、そうだろう。見ればわかる』

 心ここにあらず……という返事でした。

 無理もありません。仕方がないこととはいえ、かわいがっていた少女を傷つけてしまったのです。

 しかし、シルヴァは、さらに伝えたくないことを伝えなければなりませんでした。

『スミアとともに、落陽の命を選ばなくて正解だな。スミアは土鬼だ』

 アルヴェの瞳が、驚きの色に染まりました。

『スミアは、土鬼の血をひいている。彼らと行動をともにしている』

 焚火のおきがはぜました。

『……ありえないな』

 アルヴェは立ち上がりました。

『いや、確かに土鬼の中に、彼女はいた。今日、あの子は何をしていた? ずっと一緒にいたのか?』

 シルヴァの疑問に、アルヴェは眉をひそめました。

『ほとんど別行動だった』

『やはり……』

 シルヴァが、まるで確信したようにつぶやきました。

 土鬼とともにある村。世代が流れる間に、土鬼との混血があった可能性は充分にありました。人間は、どのような種とも交わることができる種族なのですから。

 しかし、アルヴェには、スミアが土鬼であるとはどうしても思えませんでした。

『土鬼が、土鬼を狩るために光戦の民に近づくなんて、ありえないだろう?』

『確かに……。でも、スミア本人、気がつかないうちに、土鬼と人間の二重生活を送っているとも考えられる。人間の心は弱い。辛いことから逃げ出すために、心を善と悪に別つこともある』


 シルヴァの憶測は、かなり説得力がありました。

 人間は、本来、光と闇の両方に属しているものなのです。光と闇の戦いの時代も、人間は両方に分かれて戦いました。

 ゆえに敵味方の区別がつけにくい厄介な存在でもありました。

 そして中にはまったく別の人格を持ち、自分でも気が付かないうちに光戦の民を裏切る者もいたのです。

 二重人ふたえびと――光の中にいるときは、光そのもののように輝き、闇に囚われるときは、暗黒の王のように闇に染まるのです。

 まさに二重人の存在が、兄弟の母を殺したともいえました。ゆえに、光戦の民は、人間に心から信頼を置くことがないのです。

 スミアは、あの村で生きてきたにしては美しすぎます。彼女の悪の部分は、押し隠されていて、土鬼となったときに、一気に現れる可能性があります。

 充分考えられることでした。


『あの子が土鬼であるはずがない』

 再びアルヴェが言いました。

『兄者! 真実はひとつだ。目をつぶるな!』

 理由なき否定に、シルヴァは不機嫌になりました。

 かつての闇との戦いで、そのような人間に苦渋を舐めさせられたことを、彼らは忘れてはいませんでした。

『あの子は、土鬼ではない』

 それでもアルヴェは否定しました。

 間違いなく、弟がスミアを土鬼の中に見た……といっているのに。

 シルヴァは、天空を見上げてため息をつきました。

『土鬼の中にあの子がいたらどうする? 弓で射殺せるか?』

 苦しみ続ける母の姿が、一瞬アルヴェの脳裏によみがえりました。

 冷たい復讐の眼差しで彼は答えました。

『あの子は人間だ。土鬼の中にはいない。たとえどんなにあの子に似ていても、私は土鬼をすべて殺す』

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