第16話 恋心
木立へ向かう道、夕焼けに枯れ草が燃え立って見えました。
アルヴェは、スミアをマントで覆い隠すようにして歩きました。冷たい水を浴びている服は、風にあたると凍りつくでしょう。
しかし、スミアは少しも寒さを感じませんでした。
アルヴェは、一言も口を開きませんでした。何か考え事をしているようにも見えて、スミアも話しかけることをしませんでした。
それでも風が吹くたびに、アルヴェはマントを気にしたり、時には風をさえぎるようにして、身を挺したりしてくれました。
なぜか物悲しい気持ちと、この村の呪縛から解き放たれた喜びが、スミアを不安定な気持ちにさせていました。
はじめに家を飛び出したときは、土鬼を殺したい一心で光戦の民を見つけようと必死だったので、不安を感じることはありませんでした。
でも、完全に祖母に追い出されてしまうと、留まりたくはない場所だったにもかかわらず、自分が頼るべき場所がなくなったような気がして、スミアは心細くなっていました。
アルヴェにそっと身を寄せると、スミアはほっとするのでした。
果てなく広がる現の大地に、頼れる存在は彼だけのように感じられました。
守られている。
自分を思いやってくれる人がいる。
スミアの人生の中で、今までなかった経験でした。
今までの苦しみをすべて相殺して余りあるほど、アルヴェといると癒されるのです。
幸せな気持ちというものがどのようなものか、スミアは生まれて初めてわかりました。
スミアは、今後のことを空想しました。
土鬼を退治して復讐を遂げたら、その後はどうするのか、スミアは考えてはいませんでした。
アルヴェが予言したような、美しい女性になれるのでしょうか?
アルヴェにふさわしい女性になれるのでしょうか?
空想は、幸せな羽を持っていました。
スミアはいつのまにか、輝くような女性になっていました。
ふりむいた先に、光戦の民のマントをはためかせ、微笑みをたたえるアルヴェがいるのです。服のボタンは、スミアに誓った愛のために失われていました。
――愛のため?
頭に血が上り、汗が噴出しました。自分で考えたシナリオに、すっかり動揺してしまいました。スミアは、ちらりとアルヴェの横顔を見上げました。
彼は遠くを見たままで、何を考えているのか、スミアにはまったく想像がつきませんでした。
少しでも、自分のことを考えてくれていたらうれしいのだけど……。
そう思って、スミアはため息を漏らしました。息が白く輝きました。
シルヴァが待っているはずの木立には、馬と荷物があるだけでした。
彼の姿はありません。すっかり日が暮れ、空には天空の騎士が輝いていました。
凍りつくような寒さです。
マントがふわりと頭の上からかぶさってきました。アルヴェがマントを外して、スミアの上にかけたのです。
「火をおこすから、待ちなさい」
「あ、あたしも手伝う!」
そう叫んで、スミアは歩こうとしましたが、一歩目でマントの裾を踏みつけて、ばったりと倒れました。
結局、スミアは何の手伝いもできず、転んで切ってしまった唇を舐めながら、アルヴェがおこした火を見張っているだけでした。その間に、寒さを感じることがないのか、アルヴェはさっさと天幕を立て、野営の準備をしてしまいました。
食事の準備が整っても、シルヴァは帰ってきませんでした。
なぜか二人だけの時間が息苦しくさえ感じられて、スミアは何度も同じ質問をしていました。
「シルヴァ、どうしちゃったんだろう? どこへ行っちゃったんだろう?」
「弟のことなら心配はいらない。何か気になることがあって、探りにいったに違いない。二人だけの時でも、このようなことは多々あることだから……」
常にアルヴェとシルヴァは狩人でした。敵の偵察はいつものことなのでしょう。そして土鬼を狩るのでしょう。
巣穴の中の骸骨は、アルヴェとシルヴァの仕業なのです。死することのない光戦の民が、土鬼を死に追い詰めてゆくのです。
仇であるはずの土鬼たちの屍が、スミアをぞくっと震わせました。
はるか昔からの話だよ……。
そうスミアは教えられました。
白く輝ける山々の向こうには、光戦の民の隠れ里があり、光の兄弟が住んでいる。
彼等は、土鬼どもに母が苦しめられ、死する運命を選んだことをけして忘れず、しばしば馬を進めて遠征する。土鬼どもを狩るために。
そして十二年に一度、アザミ野を渡っていくよ。悲しみを憎しみに変えるために。
アルヴェのやさしい瞳が、あの屍の山を見つめて微笑むとは、どうしてもスミアには思えません。アルヴェのやさしい温かな手に、冷たい刃が似合わない気がして、スミアは思わず聞いてしまいました。
「……アルヴェのおかあさんって、やさしかった?」
おずおずときいた言葉に、光戦の民であるアルヴェは、すぐには答えませんでした。
それは、本当は聞いてはいけないことだったのです。
やさしく美しい母を知っているからこそ、癒されぬ苦しみにさいなまれている母を、余計に切なく思うのです。死ぬことのない光戦の民が、死を選ぶのは、本当に不幸なことでした。
永久に近い長い時は、忘れることのできない悲しみばかりを降り積もらせて、やがて大地を雪で埋め尽くしてしまうのです。
「言葉では言い表せないほどに……」
悪気のない質問に、アルヴェは辛うじて答えました。
スミアはうつむきました。
スミアには、思い出そうにも思い出す母の姿はありません。
覚えているのは、母が、妹とスミアを仕事の邪魔にならないように、柵の中に押し込んで仕事に出かけることだけでした。
妹が泣き出しても、母の手は抱き上げてもくれず、ばあちゃんの怒鳴り声だけが耳に残っていました。
「……あたし……何も覚えていない。おかあさんのこと」
アルヴェは、この話題をさりげなく打ち切りました。
「おなかがすいたのだろう? 先に食べようか?」
アルヴェの言葉に、少しだけ誘惑に負けそうになりましたが、スミアはつばを飲み込みました。
「ううん、いいよ。シルヴァを待とう」
つんつん火をつつきながら、スミアは答えました。
その手は火に照らされて、アカギレした傷が痛々しく見えました。実際、火照って痛かったのです。
アルヴェは立ち上がると、天幕の中から薬を持ってきました。
薬草のエキスを煮詰めて軟膏にした物で、ややミントのような香りがします。
「手を出してごらん」
アルヴェの言葉に、スミアは逆に手を引っ込めました。
この汚い手を見られたくなくて、スミアは今まで細心の注意を払っていました。それを、すっかり愚かな妄想のせいで、忘れていました。
アルヴェは、引っ込められた手を引っ張り出すと、スミアの手袋を外しました。
さらに血だらけの手があらわになると、スミアはあわてて、再び手を引っ込めようとしましたが、アルヴェは手を離しませんでした。
片手で水桶の中の布を絞り、傷口を軽くふき取ると、薬を塗りました。痛みがすっと和らいだだけではなく、かさついた手が潤って、滑らかになったような気がしました。それもそのはず、この薬には魔力が込められていて、あらゆる物から受けた傷を清めて、本来の姿にする力があったのです。
スミアはうっとりと、自分の手の平を見入ってしまいました。
すっかりきれいになった両手をすり合わせ、スミアはうれしそうに微笑みました。
たったこれだけのことで、スミアは自分がとてもきれいな少女になったような気がしたのです。
「スミア、そのまま……。唇も切れている」
アルヴェの言葉に、スミアは「え?」と小さな声を漏らしました。
スミアの唇は、やはり寒気にさらされてカサカサでした。
先ほど転んだ勢いで、ぶつけたわけでもないのに、裂けて血が噴出し、ずっとぺろぺろ唇を舐めていました。そして、舐めるとますます荒れるのが唇でした。
そのまま……と言われたから、そのままだったわけではありません。スミアは硬直して動けなかったのでした。
アルヴェの指先が、スミアの唇に触れました。
白く細長い指先は、唇の震えを察してしまったでしょうか?
その奥で、カチカチ音を立てている歯に気が付いてしまったでしょうか?
震えは寒さのせいではありませんでした。心臓が高鳴りました。
スミアは思わず目をつぶり、唇をなぞる指の感覚に、身を震わせていました。
指先が唇を離れた瞬間、スミアも恐る恐る目を開けました。
夕闇の瞳が、スミアを見つめて輝いていました。
「あ、あれ? シルヴァ遅いよね? ど、どうしたんだろうね?」
スミアはついに耐えられなくなり、真っ赤になって視線をそらしました。そして、先ほどとまったく同じ言葉を、しどろもどろに繰り返しました。
まだ、心臓がドキドキします。
アルヴェは何も言わず、スミアを見つめているようでした。
何か言ってくれると、この場の空気を吹っ切れるのですが、どうして背中を見つめてばかりいるのでしょう?
スミアは、そっとふりかえりました。
アルヴェは、やや眉をひそめて厳しい顔をしていました。しかし、スミアがふりむくと視線を落とし、薬の蓋を閉めて下に置きました。
焚火の音だけがぱちぱちと響く中、時間が流れていきました。
彼は、髪をさらりとかきあげると、サークレットを取り出して額にはめました。
焚火の炎が額の石に反射して、なんともいえない微妙な色に輝きました。
しばらくの沈黙のあと、アルヴェが口を開きました。
「……君は……シルヴァに恋をしてはいけない」
あまりに意外な言葉に、スミアの心臓が一瞬止まりました。
「……え?」
ややすっとんきょうな声を、スミアは漏らしていました。
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