第8話 汚れ物

 花の話を聞いて、アルヴェは眉を寄せて考え込んでいました。

 この大地に金の輝きをもたらした神の時代は終わりました。そして光戦の民が支配し、光あふれていた銀の時代も過ぎ去ろうとしています。

 光戦の民たちは、かつてこの大地に渡ってきた時も使ったという翼ある船に乗り、天空の王国へ去ってゆくのです。大地に大いなる力は消え果て、鉛の時代と呼ばれる時がきます。

 しかし鉛の時代は、暗黒の時代でもありませんでした。

 光とともに、闇の力も消えゆくのです。

 無数にいると思われた土鬼たちも数を減らし、闇に囚われることで繋がっていた彼らの結束力もなくなりました。

 散り散りになつつある土鬼たちに、何らかの変化が生じているのでしょうか? 

 彼らも、闇の僕と作り変えられる以前は、下賎で矮小ではありますが、人間とさほど変わらぬ生き物だったはずなのです。

 闇が滅びつつある今、彼らもかつての姿に戻りつつあっても不思議はありません。

 しかし、世界はそれほど単純でもなく、都合も良くないことを、アルヴェは知っていました。

 となれば、花のわけはスミアの事情にありそうです。

 おそらく、スミアにもわからない何かが、スミアの村が襲われた時にあるのでしょう。

「スミア、君の村に行ってみよう」

 二つ返事をするかと思えば、スミアはあわてて首を振りました。

「だ、だ、だめだよ! あんな汚いところ!」

 自分の惨めな生活を垣間見られたくなくて、スミアは情けない顔をしました。

「自分の育った場所を、そのように卑下してはいけないよ」

 アルヴェに優しくたしなめられて、スミアはうつむいてしまいました。



 岩を泥でつなぎ合わせただけの簡素な塀が、スミアの村の目印でした。

 馬にはだいぶ慣れたスミアでしたが、その塀が目に飛び込んできた瞬間、アルヴェの服を握りしめました。

 木造の家屋は秋の嵐で泥を被り、灰色に染まっています。冬の間は、井戸さえも凍る厳しい寒さに襲われます。スミアが大嫌いなところでした。

「……本当に行くの?」

 今更ながらに、スミアは念を押しました。

 塀の外に畑が広がっていますが、たいした作物はありません。

 冬小麦が軽そうな穂を風に揺らせていました。すでに収穫が終わった畑に、鍬が置き忘れられていました。

 やせた土地でした。

 どんなに耕しても、たいした作物は作ることができず、人はこの地をあきらめつつあるのでしょう。畑の一部は、もうすでに荒地に飲み込まれていました。

 畑の様子を見ながら、アルヴェは眉をひそめ、やがて馬を止めました。

 長い時を生きてきた彼であっても、人の中に身をおいた時間はけして多くはなく、人々の生活というものを知ることはありませんでした。


 一行は、畑の横にある木立の中にいました。

 おそらく風除けのために植えられたのでしょう。貧弱な低木でした。

 そこから村が見えました。

 数軒の家の煙突から灰色の煙が立ち昇っていましたが、すべてではありません。

 火をたくことができない家もあること、そしてスミアの家もそんな一軒でした。

「我々は長い間、人間とは疎遠だった。そして今も、あまり人の中には入りたくはないのだよ」

 アルヴェが言いよどんでいたことを、シルヴァははっきりと言いました。

 それはスミアもわかっていたことでした。

 村に戻りたくなかった理由のひとつでした。

 スミアの村は光戦の民に言わせれば、土鬼の巣穴と大差はないくらい、居心地が悪いはずでしょう。

「ここに馬と荷物を置いていく。今度は見張りが君で、行くのは私だ」

 アルヴェは村を遠い目で見ながら、弟に言いました。

 その様子を見て、スミアはあわてました。

「いや、シルヴァはチェスに負けたんだよね? だから一緒に行くのはシルヴァだよね? ね? ね?」

 いきなりシルヴァの手を取ると、すがるような目をして見つめましたので、さすがのシルヴァも、目をぱちくりさせました。

 真剣そのもののハシバミの瞳は、シルヴァを真直ぐに見つめていましたが、心は素通りして、スミアの背中を見つめているアルヴェに向かっていました。

 自分の惨めな生活・現実を、スミアは、どうしてもアルヴェだけには見られたくはないのです。

 シルヴァは、その気持ちを察してアルヴェに目を移しました。さすがの兄も、スミアの行動に想像がつかなかったらしく、不思議そうな表情をしていました。

「スミア、確かに私は兄者に負けた」

 シルヴァは美しい銀の髪を翻してスミアに目線を移しました。

「でも、それは順番を決めるだけのルールで、私の番はすでに終わっている。君に付き合うのは、私には正直うんざりだ。今度は休ませてもらいたいな」

 シルヴァはそう言うと、みるみる不安そうになったスミアの肩をぽんぽんと叩き、耳元でささやきました。

「大丈夫だから……」

 シルヴァに突き放されて、スミアは呆然としていました。

 すべては決まってしまったのです。


 アルヴェは、額のサークレットを外しました。

 おそらく、金目の物をキラキラさせて、村に持ち込むべきではないと察したのでしょう。

 サークレットによって押えられていた銀髪が、さらりと額に落ちました。アルヴェは、髪を指で梳き上げて、耳にかけました。

 利発そうな額があらわになった瞬間、スミアの胸は、ちくりと痛みました。

「シルヴァ、服を交換しよう」

 そう言いながら、アルヴェはマントを外し、服のボタンを外しはじめました。

 チリひとつついていないアルヴェの服に比べ、土鬼の巣穴に入ったシルヴァの服は光戦の民らしくないほどに、汚れきっていました。

 ちらりとのぞいた胸が象牙のように滑らかで、思いのほかたくましく見えて、スミアはあわてて後ろを向きました。

 美しさばかりが印象に残る二人ですが、彼らは戦いのために遣わされた戦士でした。

 アルヴェとシルヴァは、スミアが思春期の女の子だということを、まったく理解していないらしく、気にも止めずに着替えました。

 光戦の民にとっての十四歳は、そのようなものだったのです。

 しかし、人間であるスミアにとっては、心臓が飛び出しそうなくらい刺激がありました。彼女はドキドキしながら、後ろを向き、目をつぶって、二人が着替え終わるのを待っていました。

 汚れた服だけでは物足りなかったのか、アルヴェは顔に泥を塗りつけました。

 光戦の民らしからぬ汚れた姿です。しかし、内から煌くような美しさを覆い隠すことは、完全にはできません。

 光戦の民は、神の恩恵を受けている人々で、それゆえに光民とも呼ばれているのです。神の恩恵を捨てない限り、彼らは美しいままなのでした。

 アルヴェがマントを踏みつけて汚している時に、スミアはたまらなくなって怒鳴りだしました。

「し、し、失礼だな! あ、あ、あたしの村に入るのに、何でそんなことするのさ! ど、ど、ど、どうせ、あたしらは汚いよ!」

 一瞬手を止めて、アルヴェは不思議そうにスミアを見つめました。

 夕闇の瞳に見つめられて、スミアは胸が詰まりました。

 たとえ、どんなにスミアの村が豊かであったとしても、光戦の民がそれらしい格好で人間の中にいることは、利口なやり方ではありません。

 好奇の目にさらされるだけならいいのですが、中には危害を加えようと試みる者もいるかも知れません。

 それだけ、光戦の民は少なくなってしまったのですから。

 アルヴェは、しばらくじっとスミアの瞳を見つめていましたが、やがて汚くなってしまったマントをはおり、すっぽりとフードを被りました。


 心苦しさに、スミアはうつむきました。

 アルヴェに、自分たちを見下すつもりなどないことを、スミアにだってわかっています。

 それを怒鳴るなんて、八つ当たりもいいところでした。身だけではなく、心も汚れているのだと、スミアは自己嫌悪でいっぱいになりました。

 でも、どうしても耐えられなかったのです。

 アルヴェが、少しでも村人たちに近づいた姿になろうとして、汚れていくのがとても痛々しく思えて、悲しかったのです。

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