第34話 キッカの受難

 キッカの受難。

 それは、ありがちではあるが、当の本人にはとてもつらい出来事。


 ——腹痛であった。


 それは、頻度はともかく、誰もが経験し、困った目にあったことがある生理的現象だろう。電車の途中で腹が痛い。大事な会議の途中で腹が痛くなった。テストの途中で腹が痛くて気が散って集中できない。小学校の時なんかは、腹が痛くなって学校トイレに行ったならば、それが理由でしばらくからかわれるからと必死で我慢したり……


 誰にでもありえるし、その時と場所を選ばない、タイミングによってはとてもつらい目にあってしまうそれが腹痛である。


 まあ、クラブ来る前に、アナの家で後先考えずに食べすぎたのが原因なので、自業自得な面も多分にあるのだが——クラブで腹痛。それは時にはとても困った事態へとつながる。


 特に女性トイレ。男子トイレにくらべ埋まりがちのその設備では、にっちもさっちも行かない状況が起きがちである。我慢しきれなくても、我慢しないといけない状況であるが、そもそもギリギリまでフロアで耐えてからトイレに駆け込んだのならば、ギリギリが更にギリギリである。


 キッカの場合もそう。食べ過ぎのせいで腹の調子が? の兆候はだいぶ前からあったのであるが、まだ大丈夫だろうとか、こういう場所でトイレに行くのはなんか嫌かなと思って方っておいたら、ついに大ピンチと言うわけであった。


 不幸中の幸いと言うか、Qrionのライブの前に一気に混んだフロアを見て、動くのも難しいくらいになる前に、ここでトイレに行っておかないとと決心したことであった。人の波に逆らって動いてたどり着いたその場所。ほっとして、緊張がとければ、いつの間にか我慢の限界というまで腹が痛くなっていたのだから、これ以上迷っていたら危なかった。


 キッカにしては好判断だったといえる。


 ただ、


「うわ! やばい……」


 トイレ待ちの人たちが五人くらいいて、これじゃ持たない。


 と思うキッカであった。


 持たないと何が起きるかといえば、いわずもがなである。


 今、アニメやマンガ、ラノベなどの分野で、エピソードのスパイスとしてゲロインというのは許されているものの、さすがにゲ◯インはマニア向けエロゲじゃあるまいし……


 筆者としても、それは避けてほしい事態であったが、キッカの前に並ぶのは、その緊急度の大小はあれど、同じようにトイレに行きたくてやってきている女性たちが並ぶ。このままでは、列がは順番が回ってくるまで、自分の忍耐力が保つ自信のまるで無いキッカなのであった。 


 しかし、


「あ、すみません!」

「いえ……ん?」


 キッカの前でトイレを待っていた人が慌ててフロアに戻る。それを見て、もう一人も戻り、トイレのドアが開いてもう一人。そしたらもう一つドアが開いて更に一人。


 その後、何が起きているのかキッカが事情をわからないでいるうちに、トイレに入った二人も、急いで用をすましたのか、なんだか慌てた様子ですぐに中からでてくる。


 ——あっという間にキッカの順番が回ってきたのだった。


「どうしたん……だろ……」


 最悪の結果を覚悟していたのであるが、この幸運に感謝するのだが、なぜこんなことが起きているのか不思議でならないキッカであった。


 もちろん、ものにはタイミングというものがある。混んでいた列がいきなりすっとはけたりするようなたまたまのタイミングなんかはまれにあるだろう。偶然、たまたま、列から離れようと思った人が重なった、トイレから出てくる人も重なった。


 そんなことも無いとはいえない。


 ——でも、あえて確率の低そうな偶然を想定するよりも、


「あれ、音が変わったかな? ああ、始まったんだ……Qrionさんだっけ?」


 何か理由があって物事が起きていると思う方が良い。

 

 今日のメインアクトであり、彼女目当てのお客さんが多いと思われる、この夜のCIrcusTokyoは、ライブの始まりとともに一気にフロアにお客さんが集まる。それはトイレの中にいるものも例外でないと……


 たぶんQrionが始まる前にトイレに来ようと思った人たちであったのだろう。


 それに気づいたキッカは、


「なんかもったいない気がする……」


 一瞬やっぱり、腹痛を我慢してフロアに戻ろうかななんて思うのだが、


「いてて……やっぱり無理だ」


 また激痛に襲われてトイレに駆け込むのであった。


 しかし、


「あれ?」


 思ったより音が聞こえるトイレの個室。低音も響いて、


「これは、これで快適なような……」


   *



「というわけなんだよ」


 ミーネとアナに、二人と別れてからの顛末を話すキッカ。


 腹痛でトイレに入り、その後そのままそこでQrionのライブをしばらく聞いてチルアウト。で、やっと腹痛もおさまったら、酒も抜けたのか、酔いもすっかり覚める。


 なので、飲みなおしするかと、その後は混んでるフロアを避けてラウンジに行ったら、お姉さん飲みっぷり良いねとかいわれてショット奢られたりして……


 ——相手の方が潰れたりして。


 店員と一緒に介抱しているうちにあっという間に時間が過ぎ……フロアに戻ってきたのが今になったということらしかった。


「……で、あの人なんでスーツなの?」


 戻ってくるなり、BUDDHAHOUSEのトレードマークのスーツ姿の理由を問うキッカであるが、


「あ……それは」


 なんで、そうなのかはアナも知らずに口ごもっているうちに、


「キッカ、次のDJが始まりそうだよ」


「あ、ワイパさんだね」


 BUDDHAHOUSEのスーツ姿の理由はうやむやに。


 というか筆者も知らないんだけど。本人の志向とか? 語っていたこと何処かであるのかな?


 まあ、それはともかく、


「……あ、音がまた違って……良いですね」


 始まったのはWildPartyのDJ。


 今晩の流れを引き継ぐ、電子音のハウスミュージック中心であるが、どちらかと言うと内省的、深く染み入るような今夜の音楽から、独特の、楽天的、ポジティブなグルーヴに移り、最後を締めくくるべく人々の心を楽しくさせ……


「終わりましたね……」


 パーティの終了。


 音楽の素晴らしさももちろん、途中の激混みもあり、この一晩をくぐり抜けたことに不思議な達成感で一杯のミーネ。


「ああ、なんかすっきりした」


 音楽の他に、別の意味もありそうなキッカであった。


 でも、いつもならこれで三人で気持ちよく帰宅の途につくはずであったが、


「あの……」


 なんか気がかりなところがある模様のミーネ。


「あ、そういえば!」


 アナの話が途中なのであった。


 音楽は文化に根ざすものであるが、なぜビートルズは文化を超えて伝わったのか?


 という疑問が残ったままであった。


 もちろん、音楽というものが、言葉でも思想信条でもない、もっと人間本来の本質的なところに訴えるからだろうというのはある。文化など関係なく音楽が伝わるにはそれも必要な条件であるのだろう。


 しかし、


「ビートルズが来日した時の話はしたよね……音楽とは座って静かに聞くものだとか批判されたっていうの」


「はい。こんなものは音楽ではないっていわれたんですよね」


「そう言った人って、何が音楽だと思ったのかな? クラシックとか?」


「もしかしたらそうかもね……でも、聞いただけ話だから本当かどうかわからないけど……明治維新のあと、最初にベートベンの曲を聞いた日本の民衆は爆笑をしてしまったらしいわよ」


「え? 私も、正直、ベートーベンとかのオーケストラの良さとかは良くわからないですが……」


「流石に爆笑するはないよね。どう聞いても、コミカルな曲でなく真面目な感じだよね」


「多分、当時の人達は、それまで聞いてた日本の音楽とあまりに違う西洋の音を、意味不明な滑稽なものと思ってしまったんじゃないかな? でも、それも西洋の文化が日本に入ってきて許容されていくと、滑稽だなんて言う人はいなくなって……」


「あ、なんとなくわかったような気がします」


「……?」


 キッカはピンときてないが、


「……つまり、その音楽が作り出された元の文化が許容されて初めて音楽も許容される」


 ミーネはアナの言いたいことがわかったようだ。


「全てが、そうだと言い切りたいわけではないけれど……音楽が純粋に音楽としてやってくることはあまりなく、必ずその音のできた文化とともにやってくるのならば……」


「文化がまず好まれないとだめていうこと?」


「もちろん、入ってきた西洋文化はそのままに許容されたわけでなく、——日本風に改変されたりしながら次第に日本の中での文化として形作られてのだろうと思うのだけれど、もう一つ違う側面もあると思う。それは、その時、新しい民族——文化が誕生した」


「民族? ですか?」


「そう。あたしが勝手に思っているにすぎないのかも知れないけど、音楽って、言ってみればすべて民族音楽なんだと思う」


「民族? ロックも? 民族音楽って、もっと異国感覚があって、泥臭いイメージで……少なくともビートルズはそんな感じはしないな」


 キッカはアナの意見に同意できないようだ。


「うん。そういう・・・・意味でロックを民俗音楽とは言えないとあたしも思うよ。ロックはもともとアメリカの黒人の民族音楽的なブルース、その発展したリズム・アンド・ブルースから出てきたものなので民族音楽的という定義も、元々をたどれば外れてないとは思うけど……でもビートルズとかの白人がやるようになったころには、ロックは別の民族の音楽になっていたのだと思う」


「別? の民族ですか?」


「世界に新しく民族が生まれたの? 20世紀に? そんな話聞いたこと無いよ」


「ええ、そうね。新しく生まれたのよ。でも。もちろん昔ながらの意味で言う民族ではないわよ」


「昔ながらの民族でないとすると……なんでしょう」


「うん。それは……」


 アナは、パーティが終わったフロアに残る、今夜の楽しさの余韻に浸る人々を見ながら言う。


「若者よ」


 しかし、


「「?」」


 一体、アナは何を言っているんだという顔のミーネとキッカであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る