第4話 夏祭り 参

「まぁいいにゃ」

 その声を最後になにも聞こえなくなり、俺が安堵したその時だった。空気を切り裂く悲鳴。それは確かにさっき黒い影が逃げていった方から聞こえたのだ。

「キャーッ!」

 俺はすかさず走った。草むらを掻き分け、紫音の元に向かう。紫音は浴衣の土を落としていたお手洗いから、偶然にも俺がいる社の奥に進み、偶然にも俺の近くまで来ていたらしい。そして偶然にも……。

「紫音、大丈夫か!?」

「……」

 紫音は地面に膝をついていた。転んだのだろうか、また尻もちをついている。俺は彼女の手を掴んでまた起き上がらせる。いや、この場合はどこかに座らせておいた方がいいのでは――。

「紫音」

 紫音の反応はなかった。

「紫音?」

 もう一回呼ぶ。紫音は俺と握っていた手を叩き払ってその手を膝に置いた。

「おい、さすがにそれは」

 紫音の前にしゃがんでそう言っても、紫音の反応はない。

「紫音?」

 様子がおかしい。

「まずいにゃ、まずいにゃ!」

「……もしや?」

 俺は彼女だったものから距離を取り、しまってあった竹刀を構えた。

「さっきのやつか」

「そうにゃ! 憑いちゃったんにゃ!」

 だからその猫みたいな喋り方はどうにかならないのか。まぁそんなこと、今はどうでもいい。

「お前は誰だ」

 古来より西洋のエクソシストは、悪魔を祓う時にまずこう聞くという。名前がその悪魔の本体であり、縛る要だとどこかで聞いたことがあるが、それは古今東西、西洋から遠い日本でも同じような言い伝えがある。

 陰陽師、安倍晴明あべのせいめいは「この世で一番簡単な呪いは何か」と聞かれて「いま私が、あの紫色の花に『藤』と付けるとする。すると皆がその花を『藤』と呼ぶ。それがこの世で一番簡単な呪いだ」と言った。

 西洋中世でもそのような話はごろごろあるが、まぁ今の状況、これを考えている暇はない。

「お前は誰だ」もう一度聞く。

「そしてそいつから離れろ」

 俺が一番怒っているのはそれが理由。

「今すぐに!」

 俺が追っていた影はおそらく――。

「出てこい、この化け物が!」

 賢斗は竹刀を振り下ろした。速度はいつも通り。そいつの肩に当たるか当たらないかくらいに寸止めして、避けるか試してみる。紫音の体に潜り込んでいる以上、彼女の外身を傷つける訳にはいかない。

 寸止めしたのはそれが理由で、相手の様子を見るつもりだった。

「……てめぇ」

 そいつは賢斗が振り下ろした竹刀を片手で止めていた。動かせなくなり、その先を見る。

 そいつの口元は緩んでいた。

「ふふっ、試したのか。やっぱりこの娘に入ったのは正解だった」

 そいつはゆっくり立ち上がり賢斗を見た。紫音の背は俺より低いのだから、俺の顔を見上げるに近い。

「最近話に聞いていた。この近辺で憑き物達を成敗している剣士とやら。若い男だとね」

 賢斗は竹刀を相手に向ける。

「それが君か」

 賢斗は黙って聞いていた。そいつは俺の肩に乗っている子狐を見て忌々しそうに顔を歪める。俺もその話は知っていたので、気にせず聞き流す。

「肩に忌々しき裏切り者もいるね。数百年前のその方は悪行高い狐憑きだった。ある時、とある屋敷のお嬢さんの猫に憑いてね。憑いた猫の寿命が終わるまで飼われて、何があったか改心してしまった。それ以来、剣を使うものに頼んで自ら憑き物達を倒していると聞く。最近は真剣を使うものがいなくなったから音沙汰なかったが……なるほど」

 そいつは目の前に出されたそれを見つめた。冷たくて感情がない瞳。

 それが紫音から向けられていると思うとぞっとする。

「剣道という手があったね」

「……離れろ」

「嫌だなぁ何もしないよ?」

「……そいつから離れろ」

「へぇ。大切な人なんだ?」

「ふざけんじゃねぇ! 離れろって言ってるだろうが!」

 そいつはニヤリと笑った。その顔には嫌な予感しかしない。

「やだって言ったら?」

「……ふ」

 なんだろう体の震えが止まらない。衝動と言うべきか、その感情はなんだろう。

 心の底から込み上げてくるというか――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る