第37話
『逃げるぞ』
増田道夫の頭の中にそんなやつの声が響いてきた。その声にはいままで一度も聞いたことがない焦燥が感じられる。
一体なにが起こったのか――傍観者としてあの茶番を眺めていた増田にはまったく理解できなかった。増田の意識はあの工場跡ではなく、ゴミと雑多なもので散らかり、パソコンのディスプレイだけが明かりとなっている自分の部屋に戻っている。
「に、逃げるってどういうことだよ!」
なにが起こったのかまったくわからない増田にはただ喚くことしかできなかった。
『文字通りの意味だ。奴にこちらのカラクリがバレた。ここまで奴の呪いが強いとは思わなんだ』
「な、なに!」
嘘だ。
そんなことが起こるはずがない。
あれは増田の超常的頭脳から生み出された悪魔的なひらめきであった。あのような暴れるしか能のないクズにバレるなどあるわけない。あっていいはずもない。
増田の奥底から激しい怒りがこみ上げてくる。
無能のクズが。せっかく考えてやったプランを台なしにしやがって。なんてことだ。やっぱりさっさと切り捨てておくべきだった。そうしておけばこのようなことは起こらなかったに違いない。
増田はやつに協力するにあたり、ある方法を思いついた。
一卵性双生児である弟を有効活用する方法だった。
遺伝学的には一卵性双生児はまったくの同一の存在――いわばクローンに等しい。であるならば、操られているだけの相手であっても増田自身が力を振るうのと限りなく同じように、弟の身体を利用しても振るうことができるのではないかと考えたのだ。
力を使って操った相手には、この力を扱うことはできない。いや、正確にいえば扱えないわけではない。扱えたとしても、それはかなり限定的なものなってしまう。そもそも、あの力が普通の人間には扱えない力だからとやつは言った。事実として、弟以外では満足に力を扱えなかった。
だが、遺伝学的には同一存在であれば、そのネックを解消できるのではないかと増田は考え、実行し、それは文字通り成功した。
増田によって操られた弟の身体においても、自分が扱うのとほとんど同じように力を使うことができた。
この超頭脳が生み出した悪魔的ひらめきによって、増田はもう一つ自分の自由にできる肉体を手に入れたのだ。
それ以降、自分は一切部屋から出ずにゴミ以下でしかない弟の身体を利用して、王のごとく背後から一連の事件を引き起こしていたのである。仮に万が一、捕まることがあっても、それは外に出ている弟だけだ。埒外の力で弟を操っている増田自身にはまったく影響はない。まさしく王者の行いである。
なのに――
「バ、バレたって、ここにいることがバレたわけじゃないんだろ?」
あってはならないことが起こってしまったことで、増田の声は動揺で上ずっていた。
『……少なくともいまはまだな。奴にこちらを完全に特定される前に、我々と弟との接続を完全に断ち切ったからな』
そう言っているやつの口調には、いままでずっと見せ続けていた余裕が一切感じられなかった。
「な、なら逃げる必要なんてないじゃないか! 下手に動き回ったせいでバレちゃったら意味ないだろ!」
『その意見は尤もだが――そういうわけにはいかん。先ほど起こったことをはっきり言ってしまえば、あの瞬間にこちらの場所がバレなかっただけだ。なにしろ奴が持っていたのは千里眼の類だからな。あそこまで見通せる目や耳や鼻を持っているとは予想外であった。我々は奴の力を見誤った。居場所以外すべて見られたと考えたほうがいいだろう。我々が操っていた弟を通じて、な』
「な……」
……嘘だ。
あり得ない。
どうしてこうも起こってならないことが次から次へと起こるのだ。
増田道夫という人間は過去現在未来すべてを通じて並ぶ者がいないほど、この宇宙における圧倒的な絶対神であるはずだ。
このようなことが起こるのなら、起こることのほうが間違っている。
『である以上、ここを特定するまでそれほど時間はかからないだろう。いま『足』を総動員して邪魔をさせているが、奴にしてみればあれをどう使ったところで脆弱な肉壁にしかならないわけだから、ここを動かずに奴を削り殺すというような籠城戦はできん。
なら、我々は残ったカードを使い切ってしまうまでに、奴の感覚の範囲から逃げなければならない。逃げられなければ、我々は破滅する』
「逃げるだと!」
何故、この至高の存在たる増田がクズ同然の奴から逃げなければならないのだ。そんなゴミみたいなこと、増田がするべきことではないのは明らかじゃないか。
『そんなに逃げるのは嫌かね?』
やつは増田の心情を知ってか知らずか、そんな声を頭の中に響かせた。
「当たり前だろ! どうして俺が逃げるなんてゴミみたいなことしなきゃならないんだよ! 間違ってるのは全部あいつらのほうじゃないか!」
増田が間違っていることなどあり得ない。
いつだって間違っているのは社会であり世界であり他の木っ端のようなクズどもであった。増田は常に正しいはずなのだ。
『おぬしが逃げたくないのなら、私には止める権利はないが――間違いなく死ぬぞ。あの男は容赦なくお前を殺す。我々はいままで、その程度されてしまうくらいのことをやっていたからな』
「な……」
増田はその言葉を聞いて絶句するしかなかった。
『奴らはおぬしが私に積極的に加担していたことを承知しているだろう。であるなら、おぬしは被害者としてではなく私に協力した加害者として扱われるはずだ。そのうえ特殊な力を持っているとなれば、生かして捕まえるというのは少々面倒だ。下手に抵抗され、生きたまま確保するのが難しいと判断すれば、奴は容赦なくお前を殺すだろう。いくぶん甘いところはあっても、彼はプロだ。そのくらいは間違いなくできる。いま我々が相手にしているのはそういう者だ』
「う……う、嘘だ!」
そんなことあっていいはずがない。
この偉大にして究極にしてこの世のすべてを超越した増田を殺すだと? そんなことなにが起ころうともあってはならないし、増田のような至高の存在を失うとなれば、その被害はとてつもなく巨大だ。人類史上で最も大きな損失と言っていい。百年は文明が停滞する。その程度のことすらわからないとは、奴らはどこまで愚かなのだろうか。
『嘘ではない。現実逃避はそこまでにしないか?』
増田の頭の中に諭すような声が響く。その声がさらに増田を苛立たせた。
「なに!」
現実逃避などしていない。これは事実であり真理である。どこが堅実逃避というのか。そもそも間違っているのはすべて自分以外のクズどもなのだ。それなのに何故現実逃避など言われなきゃならないのか。しかも、そこらにいるクズどもと同じようにクズ幽霊に。
『逃げたくないというなら助かる方法は一つだけある』
「なんでそれを早く言わないんだよこのゴミカス!」
増田は近くにあったゲーム機を思い切り蹴飛ばしてそう喚いた。ゲーム機が破壊される空しい音が暗く汚い部屋に響く。
どうしてこうも思い通りにならないのか。すべての頂点に立つ増田の言うことはクズどもなら服従して当然のはずだ。
いや、増田に服従しないというのは物理法則に反するのと同じことである。物理法則に反するものがこの世にあっていいはずがない。ならば、増田に逆らうのはそれとまったく同じことになるのは誰に目から見ても明らかだ。
だが、どういうわけか世のクズどもはそれに堂々と反している。
あってはならないことを素知らぬ顔で繰り返している。
何故このようなことが起こるのだろう。
やはりおかしい。
世界が、人類は間違っているのだ。
間違っていなければ――おかしくなっていなければ、このようなこと絶対に起こるわけがない。
『何故言わなかったかといえば、おぬしが逃げる以上にそれを望まないと思ったからだ』
だが、増田の頭の中に響くやつの声は未だに冷静だ。それがどうしようもないほど癇に障る。あってはならないことが起こっているのにどうしてそのようにいられるのか、増田には理解に苦しむ。
『被害者のふりをして、私を差し出せばいい。ついでに命乞いもしておくと効果が上がるだろう。みっとなく無様に命乞いをすれば多少の同情を見せてくれるかもしれん。少なくとも、合法的にはおぬしがやったことは奴らには立証はできん。逃げるのは嫌だが、命が惜しいのならやってみる価値がある――保証はできんが』
やつは淡々とそう言った。まるで増田に興味がないかのように。
「待て……それをやったら俺は力を失うんじゃないのか?」
『残念ながらその通りだ。いま我々と敵対している奴ならばこちらの世界と接続する要であるあの〈本〉を破壊できるだろうからな。〈本〉の破壊は私の死を意味するわけではないが――失えばこの世界に影響を及ぼすことができなくなる。それはこちらの世界において私の力が完全消失するということだ』
「だ、駄目だ駄目だそんなの!」
無論、命は大事だ。なにしろ増田の唯一無二の絶対神であるのだから増田以外の人類すべての命と比しても、圧倒的に増田の命のほうが大事であるのは天地がひっくり返っても変わることはない。
だからといって、それを守るためにせっかく手に入れた力を失うなどあっていいわけがないのも確かだ。
この力は増田があらゆる存在の王として神としているために必要なものであり、この間違えきった世界をあるべき姿に戻すためにも絶対に必要になる。ここでそれを失ってしまったら、その間違いを正すのがさらに遅れてしまう。
やはりだめだ。
命の惜しさのために力を犠牲するなど、選択としては下の下である。
増田のような天を翔ける圧倒的存在が毛虫のごとく地べたを這いずるようなゼロか一かの選択をするなどすべきではない。
どちらかの選択を同時に行ってこそすべてを超越した王者と言えるのだ。
『だろう? だから逃げるぞと言ったのだ。現時点での最善はそれしかない。奴の千里眼がどこまでのものかは知らんが、地球の裏側まで届くということはないはずだ。一度、奴の千里眼の範囲から離脱さえできれば、反撃の機会はいずれ訪れるだろう。私としてはそれでも問題はないからな。
『いまならばまだ『足』の数も充分だ。いくらあの男が強いといっても、大量の数を押しのけるのは難しい。こちらが逃げ切るための時間稼ぎくらいならばなんとかできるだろう。それにこの力を使えば、言葉が通じぬ見知らぬ土地で一文無しになったとしても生活に困ることはない』
「……く」
表現できないほどの屈辱であるのは確かだが、このクズ幽霊の言う通りであった。
一度身を隠して、姿をくらましさえすれば、今後状況を覆すのも簡単だ。
それにこの力を駆使すれば、たとえアフリカの僻地であったとしても生活には困らないのも確か。
屈辱であるが、死んだり力を失うよりは万倍いい。
「……わかった。いまの状況はどうなってる?」
増田はそう言って、ゴミと雑多なもので溢れた部屋の中から、事典のような分厚さを持つ本を両手で抱えて立ち上がった。
『まだ八割は残っている。奴はずいぶんと疲弊していたようだから、数で押し潰せば我々が逃げる時間くらいは稼げるはずだ』
やはり最後に勝つのはこの増田なのだ。あのクズではない。
これで、こちらが自由にできる『足』は相当数減少してしまうが、『足』以外なにもならないようなクズなどいくらでも補充が利く。逃げて態勢を立て直したのちに数を揃えればいいだろう。この世界はクズにまみれているのだから。
立ちあがって歩き出した増田は、久しぶりに自分の部屋を出た。部屋を出て廊下を歩き、玄関へ。以前履いたのはいつだったかも覚えていない自分の靴を履いて外に出る。まだ外は明るかった。陽が傾きかけた陽射しが眩しい。目が眩む。
仕方ないとはいえ、歩くという無能クズがすればいいことを何故自分のような至高にして究極の存在がしなければならないのか。本当にどこまで間違っているのだろう。やはり一度すべて焼き尽くして――
外を出て十メートルほど歩いたところで、突如として背後から乾いた音が聞こえた。
やけにチープな音だ――そう思ったところで――
「え?」
思わずそう漏らした増田の胸は赤く染まっていた。
それを見て、増田の足は反射的に停止する。
これはなんだ?
自分の胸に広がった赤色はどんどんと拡大していく。
なにが起こっただろう。まるで銃かなにかで撃たれたみたいじゃないか――
どういうわけが痛みはまったくない。
時間がとてつもなく長くなったような気がする。
いつになったら、これが終わるのだろう。
いま自分が立っているのかどうかもわからなかった。
背後から乾いた音が今度は連続で聞こえてきて――
背後から襲いかかった無数の死神は増田に死の恐怖を抱かせることなくその身体を滅茶苦茶に引き裂いて、物言わぬ肉塊へと変えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます