第38話

「貸してくれてありがとう。いま使った弾はちゃんと経費で落としたうえに隠蔽しておくから安心してね」


 自分がいま現在勤めている会社の副社長である水谷竜太は、今しがた人を撃ち殺したとは思えないほどの明るさで部下であるはずの松永に対して丁寧に告げた。その姿に松永はいままで感じたことがないほどの戦慄を感じている。


「……いえ、ですが……」


 その戦慄は自分の目の前で人間が撃ち殺されたから感じているものではなかった。


 松永は水谷総合警備保障に来る前は陸上自衛隊に所属していた。しかも、過酷な訓練を超えなければなれないレンジャー部隊である。当然、とっくの昔に童貞は捨てている。人を撃つことに抵抗を覚えるような人間がレンジャーになれるわけがないし、そもそも兵士になどなるべきではないだろう。


 それに松永はイラクやスーダンといったこの世の地獄としか思えない紛争地域に派遣されていた身でもある。そのような場所では、いまそこに転がっているような鉛弾でミンチにされた死体など毎日のように見かけるものだ。その日に食べる一個のジャガイモよりも人の命が安いような場所では、その程度の耐性がなければすぐに壊れてしまう。


 だから、この日本ではかつて派遣されたスーダンやイラクで感じたような恐怖を抱くことはないだろう――自衛隊にいたときも、退役して水谷総合警備保障に入社してからも、ずっとそう思っていた。


 だが――


 松永の甥っ子とそれほど歳の変わらない青年に対して、煉獄のごとき死が渦巻くスーダンやイラクでも感じたことのなかった異質の脅威を松永は感じていた。地方の工業高校を卒業して自衛隊に入った松永にはそれを言葉にして表現することはできないだろう。


 それでも間違いないのは、松永が兵士としての二十年間で培った直感が、目の前にいるひと回り以上も歳が離れた青年のことを『危険だ』と警鐘を鳴らしていることだ。松永と同じように連れてこられた二人の同僚もそれは同じだろう。二人とも海外の民間軍事会社で傭兵をやっていたこともあるプロだから、微塵も顔には出していないが、その雰囲気はなんとなく察することができた。


 先ほど竜太が見せた射撃の腕は、プロの兵士ですらなかなかできないレベルである。


 いや、違う。

 あれはもうゴルゴや次元大介とかがやるようなフィクションの世界だ。


 使い慣れていない他人の銃を借りているのにもかかわらず、最初の一発目で狙った相手の心臓を正確に撃ち抜き、そのあととどめを刺すようにフルオートでばら撒いた弾丸をすべてあの青年の身体に命中させていたのだ。


 小銃の命中精度はよくメンテナンスされ、性能のいいものであったとしても四発目以降になると低下する。三点バーストが実戦でよく使われているのはそれが理由だ。


 しかし、目の前の青年はそのようなことは関係ないかのようにフルオートでばら撒いた鉛弾をすべて命中させるというアクション映画の主人公がやるような曲芸をやってのけた。それだけでも、長年兵士であった松永が脅威を感じるのには充分と言えるだろう。


 しかし、松永たちが感じている脅威はそれだけではない。

 それだけだったのなら、そこまで脅威は感じていなかっただろう。

 松永が感じている脅威の根本はもっと別のものだ。


 無論、松永だって竜太がイギリスに留学し、たったの三年で学位を取ったことくらい知っている。


 アメリカほど緩くないとはいえ、日本ほど規制が厳しくないイギリスでは実銃を撃つ機会があったとしてもおかしくはない。


 だが、その機会があったからといって、あのような常識外れの曲芸ができるはずがないのは明らかだ。二十年兵士として前線にいた松永にもあのような曲芸はできない。いくら彼が天才だからといっても説明がつくものではないはずだ。


 あの青年は一体何者なのか。

 それを考えると底知れない恐怖を感じる。

 まったくわからない。

 だからこそとてつもなく恐ろしい。

 もしかしたら、彼は人間ではないのではないか――


「もしかして、僕の手を汚させるべきじゃなかったとか思ってる? その気持ちはありがたいけれど――そんなのまったく必要ないよ。あれは僕が勝手にやったことであって、あなたが気を咎めることじゃない」

「……わかりました」


 松永は素直に従った。竜太が自分の所属する会社の副社長であるから――だけではなかった。目の前にいる青年に逆らうくらいなら、シリアの武装勢力に捕まって拷問を受けたほうが幾分かましであると心の底から思えたからだ。そう思えてしまうほど、松永は竜太に驚異を感じている。


「さて、本命を済ませてしまおうか」


 竜太はそう言って薄手の手袋を取り出して身につけ、三十発の弾丸で無残に引き裂かれた死体を鼻歌まじりで転がしていく。まだ温かさの残る、血に濡れた無残なことこのうえない死体を触れることになんの躊躇もしていない。あの死体が持っていたなにかを取り出そうとしているようだった。そういえば本のようなものを持っていたような気がする。まさか、ポケットに入っているスマートフォンや小銭が目当てというわけではあるまい。


「あったあった。ちょっと血で汚れてるけど大丈夫かな?」


 死体の下敷きになっていたのは、やはり本であった。しかも事典のような巨大で分厚い本である。何故あの死体はそんなものを持っているのだろう――そんな疑問を松永は抱いた。その表紙の半分ほどが血で赤く黒く染まっている。


 表紙にはタイトルが書いてあるらしかったが、松永にはまったく読めなかった。そもそも、どこの言葉なのかすら見当がつかない。少なくとも日本でよく見かける英語や中国語や韓国語などではない。もっと異質なものだ。それを見た瞬間、松永は底知れぬ不安を感じた。


 竜太がそれを手に取って拾うと――


 彼の身体が強力な電気ショックを受けたかのように大きく痙攣したのが見えた。


「ふむ。触れるだけで精神が乗っ取られると聞いていたけど、案外なんとかなるもんだね。意外とたいしたことない」


 竜太は誰かに話しかけるようにそう言った。

 するとその直後――


『貴様……』


 松永の頭の中にいままで聞いたことのない声が響いたのだった。


 松永は思わずまわりを見回したが、自分たち以外誰の姿も見えない。一緒にいた同僚も同じだったようで、まわりを見回したのち、困惑した表情を浮かべていた。


『意思の力のみで私の支配を逃れるとはな。いやはや人間というのは実に興味深い生き物だ。ますます好ましい。私の器として相応しいのは彼しかいないと思っていたが、それは少し狭量にすぎたようだ。考えを改めねばならん』


 その言葉からは竜太とは異質の重圧を放っている。


「それはどうも。でも、僕はあなたの協力者を殺したわけですが――それはよろしかったんですか?」


 このような事態になっても、竜太は一切の動揺を見せていなかった。その声はいたって平静である。


『構わぬ。なかなか面白い輩ではあったが、あそこで死ぬということは所詮その程度だったのだろうよ。ならば執着する必要も意味もない』


 その声にはなんの感情らしきものはまったく見られない。


「なかなか厳しいですね。忠実なしもべを装いながら、あなたはその実、彼のことを騙していたわけだ。さすがは『邪神』というだけのことはある」

『そういうわけではないよ。そもそも奴とはお互いを利用しようという関係だ。それで騙すも騙されるもあるまい。私としては奴の度を越した巨大な自尊心と類を見ないような無能ぶりを眺めているのは、それはそれで楽しいものであったがな。なかなかいい娯楽であった。そう見れるものではなかろう』

「なかなかひどいことを言いますね」


 竜太は柔らかな物腰でそう言ったが、その様子が松永にはとても恐ろしい。


 穏やかな物腰ではあるが、その奥になんの感情も抱いていないのは明らかだ。あの青年は自分が殺した相手に対しても、松永たちの頭の中にも声を響かせている『何ものか』に対してもそれは変わらない。


 宇宙空間のように空虚である。

 どのような生き方をすればあのような空虚さを見出すことができるのか、松永には見当もつかなかった。天才というのはみなあのようなものなのか。


「でも、困りますよ。あなたがなにをしようとしているのか知ったことじゃありませんが、横取りは困る。彼に目をつけていたのはこちらが先なんですから」

『略奪は肯定しないというわけか? 私を前にしてよくそのようなことを言えたものよ。だが、許そう。その歳でそれほどの不遜さはなかなか得られるものではない。大事にするがいい、人間』

「そいつはどうも」


 竜太と謎の声の会話は松永には――いや同僚も同じだろう――まったく理解を超えたものであった。両方とも松永たちに理解できる言語で話しているはずなのに、そこにあるものがなにかまったく理解できない。


『ところで』


 と、そこで謎の声は論調を変えてそんな声を響かせた。


『貴様はいま私と繋がっている。貴様なら私がどのようなものであるか十全に理解できているはずだ。


『ならば、私に協力をせんか?

 私はこの人間社会に大きな興味を持っている。

 だが、自分の身体を持たないというのはなかなか不便でな。身体を欲しているところなのだ。その代わり、私の力を自由に行使して構わぬ。


『当然だが、私が貴様に対して必要以上の干渉をするつもりはない。立場としては対等だ。貴様と私が協力をすれば、人類史に未だ存在し得ない繁栄をもたらせるはずだ。悪い話ではあるまい』


 その言葉は松永には悪魔の囁きとしか思えなかった。


「……確かに、アホでクズな政治家よりもあなたを利用したほうがいい社会を実現できるかもしれませんね」


 松永はその言葉を聞いて、竜太に対してさらなる戦慄を感じた。


 まさか、彼はあの超常の存在すらも利用するつもりなのだろうか。彼ならばできてもおかしくはない、松田はそんな直感を抱いた。


「ですが――」


 そこで竜太は手に持っていた本を持ち替えて、


「お断りします」


 そう言って、素手で敗れるはずがない十センチ近くある分厚い事典のような本を真っ二つに破り捨てた。


『き、貴様……』

「おや、どうかしましたか? 自分の誘いが受け入れられなかったことがそんなに意外ですか?」


 竜太は先ほどから見せている余裕さにまったく変わりはない。堂々たる態度で笑みすら浮かべてその場に立っている。


『……何故だ。貴様が私のことを理解できていなかったとは思えない。なのにどうして拒否する? 私を理解できた貴様に拒否する理由などなかっただろう』


 あの本を破り捨てたせいか、頭の中に響いている声は希薄になったように感じる。

 あの声の主は、消えかけているのだろうか。


「ありますよ。僕があなたを拒否する理由。まあ別にたいしたことじゃありませんよ、邪悪な神様。それとも王様なのでしょうか?」

『両方だ。……いいだろう。その理由を聞かせてみよ、人間』

 消えそうになっても頭の中に響く声はその圧倒的なものは微塵も消えていない。

「ええ。言わせていただきます」


 竜太はそこで一度言葉を切り、


「王は二人も必要ない。ただそれだけです」


 と、実に簡潔に声の主に対して言った。


『ふふ、ふはははははは! そうか! 確かにその通りだ。王が二人いる国など実に滑稽だ。貴様が私を拒否するのには充分すぎる理由だろう! 私にそれが言える貴様は、言えてしまう貴様は間違いなく人間の王たる存在だ! 実に面白い!』


 響く声は、先ほどまで消え入りそうだったとは思えないほど大きかった。その笑い声はいつまでもどこまで響き続けるのではないかと思える。ずっと聞いていたらどこかおかしくなってしまいそうだ。


『いいだろう。此度は私の敗北を認めよう。人間』

「潔いですね」

『こちらとの繋がりが断たれただけのこと。死ぬわけではない。いずれ、同じように私を呼ぶ者が現れるだろう。人間というのはいつだって愚かだからな。である以上、時が経てばそれは必ず訪れる。貴様ら人間の世が続いている限り』

「そうですね。人間というのは学ばないものですから。いつになるか知ったことではないですけれど。できれば僕が死んでから起こってくれることを祈っています」


 竜太のその言葉の直後、この空間に満ちていた異質なものの気配は完全に消え去った。


 残っているのは破り捨てられた本と物言わぬ肉塊だけ。


 竜太は自分が破り捨てた本を拾い集めたのち、その残骸を抱えたまま踵を返してこちらに向かってくる。


「死体の処理をお願い。入念にお願いね」

「……はっ」


 松永を含めた三人は敬礼したのち、用意していた黒い袋に死体を詰め込み始めた。

 死体の運び出しと現場の始末をしていた松永を含めた三人は同じように思っていた。

 この世にはなにが起ころうとも絶対に逆らってはならない者がいるということを。

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