第33話

 満身創痍の指針刃は果てしない焦燥に襲われていた。


 先ほど電話の向こうから聞こえてきた声――以前聞いた通り、隠蔽を施された『邪神の本』の言葉を聞いたせいだ。


『元気しているかね。私だ。いまきみの協力者の電話を借りて話している。このスマートフォンというものは相当に便利なものだな。

 実にいい。


『私が彼女の電話を借りて話しているわけだからなにが起こったのかについて説明するまでもないと思うが、一応言わせてもらおう。きみに協力していた藤咲加奈子を預かった。きみが協力してくれるのであれば彼女は傷一つつけずに返そう。安心したまえ。約束は守る主義だからな、私は。


『む、これはなかなか小悪党じみた台詞だね。まさか私がこのようなことを言う日が来るとは思わなかった。長く生きていると面白いことが起こるものだ。というわけだ。きみのいい返答を待っているよ。場所はまた追って連絡する。じゃあな』


『邪神の本』はそうまくし立てるように言って電話を切った。

 そしてその言葉を聞いた直後、壮絶な悔恨を刃は抱いた。


 なんという失態を犯したのか。わかばを助けられた結果がこれだというのなら、神とかいうやつの首をへし折って殺してやりたい思いであった。


 しかし――

 どうしてこちらの居所がわかったのか? それが刃には不明だった。『邪神の本』に居所が暴かれるようなことなどした覚えは――


 いや――

 そこで心当たりがあることを思い出す。


 昨日だ。


 昨日、加奈子と一緒に夕食の買い出しに行ったときに恐らく、彼女が刃に協力していることがバレてしまった。


 そして、そのあとに刃の住むアパートも割り出されたのだろう。昨日来なかったことを考えれば、特定されてから時間は経っていないはずだ。『邪神の本』が自由に操れる人間の数は数百という規模があると思われる。


 その中の誰かに昨日の刃と加奈子の姿を見られてしまったのだろう。居場所がバレてしまった原因はそれ以外にはまったく考えられない。あのとき確かに尾行は警戒していたし、尾行はされていなかったことは確かである。いまの状況で尾行を許すほど刃は無警戒ではない。


 しかし、数百という『邪神の本』の目が街中のいたるところに広がっているのなら、わざわざ尾行をする必要はないはずだ。


 くそ!


 怒りと、どうしようもない失態を演じてしまった自己嫌悪で死にたくなる思いだった。『邪神の本』に操られている人間が相当数街中に広がっているというのは認識していたはずなのに……それがどのようなものなのか現実としてまったく理解できていなかった。


 本当にどこまでも言い訳のしようがない。

 死んだほうがいいのかもしれないという思いが刃の脳内を支配していく。


 絶対に護らなければならなかった者を護れなかったのだ。しかもその原因は刃の油断と慢心である。『邪神の本』という超常の相手に対して絶対にやってはならないこと――刃はそれをやってしまった。これでは挽回のしようがない。人間という生き物は必ずミスは犯す。


 だが、ミスというものは絶対にしてはならない状況が存在する。刃が犯したこれは間違いなくこれに分類されるものだ。


 ――そうか。


 わかばを追っているときに『邪神の本』が刃の邪魔をしてきたのは、わかばを助けられると困るからではなく、できるだけ長い時間、刃を加奈子のもとから引きはがすだめだったのだろう。そしてその『邪神の本』の企みは見事に成功した。刃が離れた隙をついて加奈子を攫い、交渉の材料とするという悪辣なプランは。


 ――どうする?


 狂ったように脳内を駆け巡る焦燥に襲われながらも、刃はなんとか冷静さを保ちながら次になにをなすべきかを考える。


 ここで自害したところでなにもならない。


 死ぬのだったら加奈子を助けてからだ。第一に考えるのはそれ以外他にない。加奈子を助けないまま死ぬなど、贖罪のような気がするだけの責任逃れだ。そんなことしてはならない。していいはずがない。


 失態の責任を取るために死ねと言われたのなら喜んで死のう。自害の仕方だって選ばせてやる。できるだけ苦しめというのなら徹底的に苦しみを味わおう。刃の失態はそれくらい大きなものだ。


 だが、死ぬのは加奈子をちゃんと助けてからでなければ意味がない。加奈子を助ける前に刃が死んだとなれば、『邪神の本』に加奈子を生かしておく理由はなくなる。そうである以上、いまはまだ死ぬわけにはいかない。なにがどうあっても加奈子だけは助ける必要がある。それに、責任逃れの自死が選択できるほどほど指針刃は無責任でなく、そして強くもなかった。


 しかし――

 果たして『邪神の本』が約束を守るのかという疑念がある。


『邪神の本』の邪悪さ、悪辣さを考えれば、やつが目的を果たしたあと、ちゃんと約束を守ってくれるという保証はどこにもない。直前になって平然とそれを破り捨てるようなことをする可能性はどうあっても捨てられるものではないし、捨てるべきでもないはずだ。


 とはいっても、『邪神の本』に加奈子を殺す理由もないのも事実。殺すつもりだったのなら、襲撃した時点で彼女を殺しているだろう。わざわざ攫う必要などない。人質というのはなにか別の目的があるからこそ取る手段だ。

 やはり目的は――


 ――自分なのか。


 それがよくわからない。どうして『邪神の本』は自分を狙っているのだろう。あれだけの力を持っているなら自分の肉体などなくとも不自由はしないだろうに。


 それとも自分の肉体を持たないというのはあれだけの力を持っていても我慢ならないものであるのだろうか。


 それとも『邪神の本』が強欲だからこそ抱いているだけなのか。

 いや――

 そんなこと考えても無意味だ。


『邪神の本』がなにを目的にしているのか知ったところで状況はなにも変わらない。加奈子が攫われたという事実も、その原因が刃の失態であったことも。この危機を脱するための『なにか』にはなり得ない。


 どうする――

 どうにかして加奈子だけでも無事に救わなければ申し訳が立たない。加奈子自身は当然、刃を信頼して彼女を寄越した竜太にもだ。


 まずは加奈子を救わなければならない。挽回するのはそれからだ。それをやれなくてはなにも始まらない。


 では――

 一番簡単なのは『邪神の本』の要求を飲むことだ。

 それがなによりも手っ取り早い。


 だが――問題は刃が要求通りにすれば、『邪神の本』が約束を飲んでくれるとは限らないことだ。『邪神の本』の目的が達成されたら、刃の要求を一方的に反故するのは充分考えられる。


 いや、それはあって然るべきものと想定しておくべきだ。『邪神の本』の要求を飲むのなら、加奈子を救える算段を整える――もしくは『邪神の本』からある程度の譲歩を引き出せるようにしておくべきだろう。『邪神の本』の要求になにもかも応えるのは危険だ。それをするのは、もう他にどうすることもできなくなった場合にしたほうがいい。


 しかし――

 救う算段にしろ、譲歩を引き出すにしろ、それをどうやればいいのか。

 有効的な一手はまったく浮かんでこない。


 そのうえ、『邪神の本』は刃よりも遥かに騙し合いの心得があるだろう。そのような者を騙せると思えるほど刃の口は達者ではない。


 こちらがなにか有効な手を打てない程度には『邪神の本』は有利な立場にある。加奈子という人質がいる状況では、その優位性は絶対的だ。簡単に脅かすことはできないだろう。そして有利な立場にあるほうが約束の反故がしやすい。


 いちかばちか暴れて加奈子を助ける――だが、『邪神の本』はこちらの力を知っている以上、それに対してなんの対策を取ってないとは思えない。刃がやぶれかぶれになって暴れるのを封殺する手段の一つや二つはあると見ておくべきである。


 ――譲歩はどうだ?


 これもまたなかなか難しい。有効な譲歩を引き出すには相手に対する信用がなければそもそも成立しない。圧倒的に有利な立場にあるほうが譲歩してくれるなどあまりにも虫がよすぎると言わざるを得ない。


 仮に譲歩を引き出せたとしても、相手にその譲歩した条件を守る必要性がなければ守らないものと見ておくべきだ。そして『邪神の本』の悪辣さを考えれば、信用など到底できるはずもない。


 やはり、うまくいくとは思えない。


 ――わかばを見つける際に行った感覚拡張を行って、奇襲をかけるのはどうだ?


 これに関しては可能性があるのは確かだが――あまりいい手とはいえない。

 予想された限界は三回。だが二回使ったいまの段階でかなり消耗してしまっている。三回目を使用したとき、自分の身体がどのようになるのかは不明瞭だ。三回目を使用したら、死ぬことはなくとも、しばらくの間その場からまったく動けなくなるくらいは起こり得るだろう。場所を特定できてもこちらが動けなくなってしまったのではまるで意味がない。


 それにここでこれを使ってしまうのはなんだかよくない気がする。

 そんなものただの勘でしかないはずだが、何故かそのような確信があった。


 すると、ポケットに戻していたスマートフォンが震えた。取り出してみると、通話アプリのメッセージが届いている。送り主は藤咲加奈子――ということは、このメッセージはいま現在彼女の身柄を押さえている『邪神の本』が送ったものだろう。


 送られてきたメッセージには地図が添付されていた。地図の場所は街の外れにある工場跡。普通に歩いていってもいまの場所から十分ほどでたどり着ける。『邪神の本』と加奈子はこの地図の場所にいるということか。そして、『邪神の本』は刃にここへ来いという指示を出している。


 メッセージを確認してスマートフォンをしまおうとすると、通話がかかってきた。スマートフォンの液晶に表示されている名前は当然藤咲加奈子――『邪神の本』だ。加奈子の身柄を確保されているいまでは無視することも危険だと判断し、仕方なく刃はその通話をワンコール目が終わる前にとった。


『私だ。元気しているかな。先ほどのメッセージは読んでくれたようだね。なにか反応があるかと思ったのだが、なにも返ってこなかったものだからまた通話をかけてしまったよ。これが既読スルーというやつか。これはなかなか悲しいものだな。しかし、このように誰かに場所を告げるのにこれほど短時間で済むとはとても便利なものだ。やはり人間という生き物は興味深い』


 電話口から聞こえてくる『邪神の本』は実に楽しそうである。心の底からこの人間社会を楽しんでいると感じられるものだった。だが、刃にとってはその楽しそうな声も勘に障る。


「藤咲さんは無事か? それを確認させろ」


 刃は溢れそうになる怒りをなんとか押しとどめて、そう言った。


『いいだろう。だが、彼女には気を失ってもらっているから話せないが、それでも構わないかね?』

「……わかった。それでいい」


 刃がそう言うと、通話がビデオ通話に切り替わった。『邪神の本』は先ほど手に入れたばかりのスマートフォンをもうすでに使いこなしているらしい。なんとも妙なものを感じざるを得ないが、やはりいまの状況では笑うことなど到底できなかった。


 刃のスマートフォンの画面に相手先の映像が流れ出す。荒い映像であったが、加奈子の生存を確認するにはそれで問題はない。


 映像の角度が変わると加奈子の姿が見えた。


 工場跡の柱にもたれかかった状態で気を失っている。どこで手に入れたのか、ご丁寧にも毛布がかけられていた。映像からはどこにも外傷らしきものはなく、死んでいるようにも見えなかった。


「大丈夫だ。確認した」

『そうかね。ならよかった。では、いまから一時間後に先ほど送った地図の場所に来てくれ。わかっているとは思うが、一人でな。私は臆病者だから、複数人でこられては恐ろしくてちゃんと交渉できなくなってしまうかもしれんからな』


 愉悦に満ちた声を電話口から響かせたのちに通話は切れた。スマートフォンをポケットにしまう。


 あと一時間。それがいまの刃に残された時間であった。対策を考えるのはあまりにも短く、覚悟を決めるには少しばかり長い時間であった。


 誰かの力を借りるわけにはいかない。もし刃が一人で来なかったとすれば、『邪神の本』は加奈子を容赦なく切り捨てるだろう。


 この状況は刃一人で打開しなければならない。

 一人でやらなければ、贖罪はできないだろう。


 ――最悪の場合はどうなる。

 ……。


 それはあまり考えたくないことだったが、追い詰められたいまだからこそ、想定でだけはしておかなければならない。

 一時間というのはなんと不自由な時間なのか、その長いようで短いそれに苛立つばかりだった。

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