第32話

 藤咲加奈子は自らに問うた。

 果たして自分はいま『正しくあろう』としているのかを。

 ここ最近になって、加奈子は『正しさ』についてよく考えている。


 そうなったのは恐らく、居候先の家主であり、今回の仕事相手でもある指針刃がそれについてたびたび思い悩んでいるからだ。彼はいつも『正しさとはなにか』という答えのない問いを追い求めている。それも見ているこちらが痛くなってしまうくらい強迫的に。あの青年は何故そこまでそれを追い求めるのだろう。加奈子にはよくわからない。そこまでしなくていいのに――と思う。


 無論、加奈子だって『正しくあろう』とすることが間違っているとは思わない。加奈子もそうありたいし、普通の人々なら『正しくあろう』という思いを心のどこかに持って日々を生きているはずだ。


 でも、刃のそれはどこか違うような気がしてならない。

 どこが違うのかと問われると返答に困ってしまう。

 いや、違うというべきではないのかもしれない。


 刃の抱く『正しくあろう』という思い自体にはそれほど違いはない。だが、『正しくあろう』とする彼の姿勢が普通の人たちと比べると異質なのだと思う。それは『正しさ』を求める強迫的な思い――大抵の人はあそこまで自虐的に『正しさ』を追い求めることはできない。


 やはり――

 指針刃があそこまで『正しさ』を追い求めるようになってしまったのは、彼の特異な体質のせいなのだろうか。


 特異な体質――道理を外れたほど強い身体――生まれながらに持ってしまったそれが原因なのだろうか。


 間違いなくそうだろう。


 刃にあのような体質がなかったのならあそこまで自虐的にはならなかったのではないか。


 才能というものはそれを持つ者を歪めてしまうという。


 優れた才能があるせいで、他にあったはずの可能性を選ぶことができなくなってしまう――そうなってしまうのは大抵、その才能を持つ人の選択ではなく、才能を持っている者を褒め称えるまわりの人間によって行われる。しかもそこには悪意はない。悪意なく、才能を持つ人にその才能から生み出される技術や知識を求め続ける。


 ……なんだか残酷だ。

 これでは才能というのは、才能を持つ者にそれ以外の道を選ばせない呪いも同然ではないか。


 彼はどうなのだろう。

 あの青年もまわりから求められた結果、あそこまで自虐的に『正しさ』を求めるようになってしまったのだろうか。


 ……違う、と加奈子は思った。


 加奈子は刃と仕事をするにあたって、彼の経歴にはひと通り目を通している。それを見れば、特異な体質を持っていた彼が孤独な人生を歩んできたことはすぐに理解できた。理解せざるを得なかった。特異な体質を持ってしまった結果、自分の親も含め誰からも受け入れてもらえず、まわりからは異物と排除され続けて生きていくしかなかった彼の人生。誰にも求められなかったゆえに、あそこまで『正しさ』を求めるようになってしまったのなら、それはなんと皮肉なのだろう。


 加奈子はそれに憤りを感じる。


 まわりの人たちが刃を異物と決めつけて排除し続けた結果、無自覚なまま彼を歪めてしまったのが事実であるならば。


 加奈子は激しい怒りを抱かざるを得ない。


 そして同時に嫌な気持ちにもなる。

 人という生き物の無責任さと残酷さ。


 自分が気に入らないものであったのなら、どこまでも無責任にも残酷にもなれてしまう人間という生物。


 ――本当にどこまでも罪深い。


 でも――

 それでも刃はいまのような道を選択していたのではないかとも加奈子は思った。


 異物として排除されることがなかったのだとしても、特異な体質を持って生まれた指針刃はやはり『正しさ』とはなにかという問いを追い求めていたのではないか。


 自分の力がなんのためにあるのだろうと問い。

 自分の力がなんのために使えるだろうと問い。


 その結果、あれほどまでに『正しさ』を追い求めていたのではないか、とも思う。


 どちらであったとしても、加奈子にはどうすることもできないことに変わりない。

 それはすごくもどかしくかった。

 それを考えると、自分は本当に無力なのだということを思い知らされる。

 無力な自分に『正しさ』を持つ権利などあるのだろうか。


 ……やっぱりよくわからない。


 けれど――

 正しくありたいとは思う。


 彼と会ってまだ三日も経っていないのに、それを強く思っている自分がいる。

 身勝手な復讐心だけを持ってこの一件に首を突っ込んだ自分のことがとても恥ずかしくなった。


 いかに自分が無力であろうとも、彼のように正しさとはなにかと問い、さらに正しくあろうとするのはなによりも尊ぶべきことのはずだ。間違いでもないないはずだ。


 それはとても簡単なことなのに、あまりにも多くの人にできないことだから――


 その事実を知ることができただけでも収穫はあったと言える。


 凡人以外の何者でもない藤咲加奈子はこれからも数多く間違いを犯すに違いない。加奈子が人間である以上、間違いというものはどこまでもつきまとう。それからは死ぬまで逃れることはできない。一度も間違いを犯したことがないと嘯く者は救いようのない馬鹿者だ。


 だが、正しくあろうとしていれば致命傷を負うことはない。

 いまのように復讐心に囚われることだってあるかもしれない。

 大きな間違いをしてしまっても、取り返すことができるだろう。


 未来のことなんてなにもわからないのに、加奈子にはそんな確信を持っていた。

 とても不思議な感覚だった。

 だけど不愉快には感じない。

 とても晴れやかな気分だった。


 父が『邪神の本』によって失踪したことを知ってから、このような晴れやかな気持ちを持っていなかったことを今さらになって思い出した。


 無論、父を殺した『邪神の本』が憎い気持ちが消えたわけじゃない。

『邪神の本』を許してはならないという思いが弱くなったわけでもない。


 いまでもそれらは加奈子の中で燃え続けている。

 ただ、陰鬱にならずにいられるようになっただけだ。

 それだけでも加奈子にとって救いだったと思う。

 復讐を遂げても、憎しみに囚われていたら父もきっと悲しいと思うに違いないから――


 ――かた。


 突如、どこから聞こえてきた音に加奈子は背後を振り向いた。なにもない。そこにあるのは奥の部屋へと続く襖だけだ。


 ナメクジのようにぬめりとした嫌な予感が足もとから身体中を駆け上り、身体中を這い回るのが感じられた。


 加奈子は立ち上がる。


 ごくり、と一度唾を飲み込み、躊躇してからそっと奥の襖を開いて、恐る恐る中を覗いてみる。


 奥の部屋にはなにも異常はなかった。


 自分のスーツケースに畳まれた布団、小さなテーブル、そしてその上に置かれたタブレットPC。それ以外なにもない、まだ埃っぽさが少し残っているとても簡素な部屋。朝起きて、この部屋を出てからまったく変わっていない。異常なんてどこにもないはずだ。


 なのに――

 なのに、身体を這いずるぬめりとした嫌な感触が消えることはなかった。

 それどころか、その嫌な感触はどんどん強くなってきている。


 底知れない恐怖を感じながらも、加奈子は奥の部屋に足を踏み入れた。

 部屋の中にあるものをひと通り確認していく。布団、自分のスーツケースの中、押し入れ、なにかありそうなところを確認したが、異常らしいものはなにも見つかることはなかった。


 ……当たり前だ。


 自分はずっとこの部屋にいた。薄い襖で隔てられているだけなのだから、その異常に気づかないなどあるわけがない。


 この部屋を出たのは昨日、刃と夕飯の買い物に行ったときだけだ。そのとき以外、加奈子はここに来てから一度として外には出ていない。


 もし誰かが侵入してきたとしたらすぐにわかるはずだ。

 このアパートは侵入してきた者に気づかないほど広いわけじゃない。


 それに、このアパートは水谷総合警備保障が管理をしている建物で、見た目こそいたって普通だが、他の同じような値段のアパートより遥かにセキュリティは強固である。玄関扉もピッキングでは開けられないタイプの鍵だし、窓ガラスも簡単に手に入る安物のハンマーなどで割ることができないものだ。侵入するのは簡単ではない。


 だが――

 それはあくまでも普通の話だ。


 どこにでもいる空き巣の類であったのならハンマーで割れない窓やピッキングできない扉に遭遇したら早々に諦めるだろう。セキュリティの甘い家やマンションなどいくらでもある。入るのが難しいところにわざわざ侵入する必要はない。


 しかし――

 いまの状況でここに現れるとすれば――


 居間のほうからなにか硬いものを引き千切るような轟音が聞こえてきた。


 それを聞いた加奈子の身は一瞬にして凍りついた。

 まさか――

 加奈子は襖を開き、急いで居間へと戻る。

 そこには――


 全身が黒いもやに包まれた何者か立っていた。もやに包まれた姿は刃から聞いていた通り、性別も年齢もなにも特定できない。チェーンソーかなにかを使わなければ壊すことができないはずの頑丈な扉を引き千切られて破壊され、外に投げ捨てられている。素手で無理矢理千切り取ったらしい。


「きみのその表情を見たところによると、いまは一人のようだな。よかったよかった。彼と私、どちらの方が早く終わるかが勝負であったが、今回は私に軍配が上がったらしい。実に残念だ。すごく悲しい」


 黒いもやの奥から聞こえてくる声からはなにも特定することができない。

 そのわからなさが、加奈子の恐怖をさらに加速させる。


 だが、その声がとても楽しそうにしていること、そして『邪神の本』の力を操っていることはどう見ても明らかだった。


「きみはなかなか素晴らしい。自由の身になってから私を追う者は数多くいたが、そのほとんどは煙に巻かれて追いかけることなどろくにできなかったのに、きみだけは最短で私の居所を見つけ、そしてある程度補足し続けた。それは敵対する立場にあったとしても褒めるべき功績だろう」


 誰のものかもつかない声で黒いもやに包まれた誰かは滔々と楽しそうに語る。

 こいつが、刃が遭遇したという『邪神の本』に積極的に協力していたという『足』なのだろうか?


 いや――違う。

 正体を隠すはずのもやに包まれていながら、その奥からは発散されている圧倒的な存在感と異質さは人間のものとは到底思えない。


 となると――

 いまここに強行突破してきたのは、自分の力で誰かの身体を操っている、『邪神の本』の意思なのか?


 ならば――

 どうする?


「そう身構えるな。きみのことを殺そうというつもりはない。協力してほしいのだよ」


『邪神の本』は柔らかな物腰でそう言った。悪意には満ちているが、いまのところ敵意らしきものは感じられない。

 しかし、なんの力を持たない加奈子が一人になったときに、ここまで『邪神の本』の接近を許してしまった時点で――


 ――もう詰んでいる。


 その事実はどうしようもなく加奈子を恐怖させた。

 南極のように冷たい汗が身体を濡らしていく。


 玄関は塞がれている。奥の部屋から逃げ出すことはできるが、目の前にいる『邪神の本』がそれを想定していないとは思えない。

 間違いなく、奥の部屋から出てすぐのあたりに、いままで刃のことを襲撃していたような者たちを複数人置いているはずだ。


 そちらのほうは『邪神の本』と違って特殊な力は持っていないはずなので真正面を突破するより幾分か成功する確率は高いかもしれないが、それでも三人以上でかかられたら逃げるのはほぼ不可能であることに変わりはない。


 それに街にはまだここにいる何十倍もの兵隊がいるはずだ。『邪神の本』がなんらかの号令を出せば、彼らを一斉に動かすということも可能だろう。


 ――やはり詰んでいる。


 どうあがいてもこの状況を打開する方策は見つからない。


 ――時間を稼ぐ?

 ――無理だ。


 時間が経てば刃がここに戻ってくることは『邪神の本』だって承知しているはずだ。


 いや、そもそも『邪神の本』が一番避けたいのはそれだろう。こちらが時間稼ぎをしていると判断したら『邪神の本』は確実に強硬手段に訴えてくる。『邪神の本』にそれを躊躇する理由はなに一つとしてないし、そうなったら無力な加奈子はなす術がない。


「それにしても彼は美人の女性に恵まれているようだね。羨ましい限りだ。できればきみとはもっと話をしたいところであるが――残念だがいまは時間がない。悲しいなあ。ということで少し手荒な手段を取らせてもらおう」


『邪神の本』がそういうと、その身を包む黒いもやが爆発的な肥大をし始め――


 それが部屋のすべてを包むと同時に、加奈子の意識は一瞬にして暗黒に落ちていった。

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