第34話

 私はこれからどうすればいいのだろう、星野わかばは先ほどなにやらぬ雰囲気となって風のようにここを去っていった刃のことを思いつつもそんなことを考えていた。


 もう迷わない。自分がなにを望んでいたのかやっと理解できた。少し遅すぎたかもしれないけれど、あのまま間違えたままでいるよりはいいはずだ。それについては大丈夫。少なくともいまはまだ。いまならば自分の中にある衝動と向き合い、それに負けることなく、付き合いながら生きていける――そう思えた。


 迷いは消えたのは確かだったが、同時に目印も消えてしまったようだ。迷いは消えても、自分の中にある異形に堕ちることはなくなっても、星野わかばという人間が異形であることに変わりはない。異形でしかない自分がどのようにすれば『普通』になれるのかまったくわからないのだ。


 本当に、なにもわからない。

 彼は自分で考えろと言った。

 確かにその通りだと思う。

 自分のことは自分で考えるべきなのだ。それはどこまでも正しい。


 でも――

 どうやれば自分の中の異形と向き合えるのかがまったくわからない。


 それはきっと、自分が自分の異形と向き合ってこなかったから。

 だからわからないのだと思う。


 それに――またいつかなにかをきっかけにして、今日のようになってしまわないかというのはさらに心配だった。


 いままでの人生では、その異形を否定し続けていたわけだが、八年近くそれを続けていてもわかばの異形が変わることはなかった。ただ否定するだけでは駄目だということはわかばの人生が証明していると言っていい。


 わかばの異形はいくら否定しようとも消えることなく常に存在した。長いあいだ否定し続けた結果、その異形はどんどんと巨大になっていったのではないかと思う。巨大になっていった結果、耐えきれなくなってあのような幻覚を見てしまうまでに追い詰められていったのかもしれない。


 その幻覚に最後のひと押しをされた結果、越えてはならない一線を超えてしまう寸前までいってしまったのだ。


 刃のおかげで少しだけ自分を信じられるようになったかもしれない。それは間違いではないと思う。


 それでも、まだわかばは自分のことを信頼していないし、できてもいなかった。


 あまりにも弱く、どこまでも脆弱な自分のことが世界で一番信用ならないものであるのはいまもまったく変わっていない。


 救われたのは確かだ。

 でも、弱い自分がそれで変わってわけではない。

 自分の中の異形も弱さもまだなにも変わっていないはずだ。


 人間はそんなに簡単に変わることはできない。そもそもとしてそういう風にできている。ただ一度の出来事でそのすべてが変わるなどあり得ない。そう思う者は、ただ自分がそうなったと思い違いをしているだけだ。


 だからこそ不安で恐ろしい。


 またいつか、今日のようになってしまわないのかと。自分の中に異形に負けてしまわないなかと、死にたくなりそうなほど心配だった。


 また、『ああ』なってしまったら、今度は戻れるだろうか。

 さっきは刃が助けてくれた。

 どうしようもないところまで落ちかけていた自分を彼はその手で引きあげてくれた。


 お世辞にも、彼がうまいことを言ったとは思えなかったが、その言葉でわかばが救われたのは紛れもなく事実である。


 しかし、それは二度続くことはないはずだ。


 その二度目が起こったときも、彼がなんとかしてくれると考えるのは虫がいいと言わざるを得ない。あまりにも甘えている。もしその二度目が起こったのなら、今度は自分の力でなんとか踏みとどまれなければ駄目だ。本当に自分の異形と向き合って生きていくのならば、それは絶対にできなければならないはずだ。


 そんなこと、この自分にできるのだろうか――と思う。

 どうにも信じられない。

 それができなかったから『ああ』なってしまったのではないか。

 自分は一体どこまで自分を信じられていないのだろうか。

 自分の異形と向き合うと決めたはずなのに、そんなので大丈夫なのだろうか。

 自分の異形と向き合っていればそれも変わっていくのだろうか。


 ……やっぱりよくわからない。


 星野わかばという人間が彼の不器用な言葉で変わったことは間違いない。けれど、それがどこまで変わったのか見当がまったくつかない。濃霧に包まれたまま、その先はまったく見通すことできない。


 でも――

 未来のことなんてわからないのは当然か。


 先のことがわかったのなら誰も苦労などしない。その代わり、先のことがすべてわかってしまったのなら、人生というものにあるその輝きがすべて失われてしまうのだろう。


 それが人として生きるということなのかもしれない。

 ならば、そんなこと必要以上悩んでも仕方ないのだろう。

 それに、案外なんとかなってしまうものなのかもしれない。

 いままでの八年間がなんとかなっていたように。


「彼の様子がなんだかおかしかったから、きみになにかあったのかもと思っていたけど――なんか大丈夫そうだね」


 背後からそんな声が聞こえてきて、わかばはそちらを振り向いた。


 そこには昨日、大学の学食で剣呑な雰囲気で刃と話をしていたあの青年が立っていた。やはり輝くようなオーラをその身から発散している。背後には黒いスーツにサングラスをつけた長身で屈強な男を二人連れていた。


「えっと、誰でしたっけ? 吉田さん?」


 名前がとっさに出てこなかったので適当なことを言ってしまった。吉田って誰だ? 全然違う名前だった気がするけれど。


「違うよ。水谷竜太。女の子に名前を忘れられるのって結構悲しいなあ」


 別段気にしている様子もなさそうに爽やかな笑みを浮かべてそんなことを言う竜太。


「えっと、なにか用ですか?」

「刃にすぐ来てくれって言われたから来たんだよ。なにかあったようだから急いできたけれど――なにかあったのはあっちのほうか。あとで連絡があるかもしれないな」


 竜太は先ほどまで浮かべていたその爽やかな笑みを一瞬だけ消して真剣な表情を見せる。その姿に寒気をわかばは感じた。その一瞬の変わりようを見れば、彼の身になにか重大なことが起こったことは簡単に想像できた。


「あっち?」


 わかばは首を傾げて質問した。


「ああ、別に気にしないで。きみが気にする必要じゃないから。それに、彼ならなんとかするだろうから大丈夫だよ。あとで僕も動くつもりだし。彼から僕が頼まれたのはきみのことだ。時間は大丈夫? ちょっと来てくれるかな?」

「……えっと」


 わかばは思わず口ごもった。


 どうしてそんなことになるのだろう。それを聞いてわかばは不安になった。やはり声をかけてきた青年の股間を蹴り上げて目つぶししたのがまずかったのだろうか。


「そんな顔しないでって。別に食べたりしないし、警察に突き出したりもしないよ。きみがやんちゃした相手についてこっちでなんとかしとくから気にするな。それにきみも被害者であるわけだしね。保護して、検査もしてみないと」

「け、検査って」


 わかばはその言葉になにか不穏なものを感じた。

 もしかして自分は精神病院にでも入れられてしまうのか。まあ、そうしたほうが社会にとってはいいかもしれないのは事実だが。


「違う違う。検査ってのはきみが思ってるやつじゃないよ。最近、変な幻覚を見ていただろ? あれは外部からきみにかけられていた特殊な力によって見せられていたものなんだ。その特殊な力によって、きみの身体になにか後遺症が残っていないか調べようってわけさ。きみが異常な嗜好を持っているから調べようってわけじゃないよ。その特殊な力っていうの説明がなかなかしづらいからいまここで聞かないでほしいところだけど」


 それについては紹介するドクターと話してよ、と竜太は付け足した。

 詳細は不明だが、わかばの抱く嗜好が異常だから調べようとかいうのとは違うらしい。


 でも、なんだか不思議だ。目の前にいる青年はなにもかも胡散臭いはずなのに、何故か信頼できると思えてしまう。これがカリスマ性というものだろうか。

 しかし、あの隣人は変な知り合いがいるなあ、とわかばは思った。


「その、水谷さんは指針さんとどういう関係なんですか?」

「僕と彼の関係を表す言葉は色々あるけれど――やっぱり友達かな」

「友達とかいたんですね、あの人」


 引っ越してきてからの一ヶ月で、彼が別の人間といるのをわかばが見かけたのは二回しかなかったことを思い出す。


「はっはっは。そんな本当のことを言ったら彼が傷つくからやめてあげなよ。あれでも結構ナイーブな男だからね。すっごく落ち込むよ、あいつ」


 ……そうかもしれない。

 けれど、わかばは彼のそういったところが好ましいと思う。


「それじゃ行こうか――あとはよろしくね」


 と、一緒に連れてきていた黒服に竜太はそう言って離れようとする。


「え、あの、どこに行くんですか?」

「ちょっとした野暮用。一緒に行ってあげたいところなんだけど、まだやることが残ってるからねー。面倒なんだけど。面倒はさっさと終わらせておかないともっと面倒になるしね。それならさっさと終わらせて遊びたいし。


「だから僕とはここでお別れ。落ち着いたらまた顔を観に来るからさ。それともどこの誰ともわからない黒服グラサンのマッチョマンが護衛は嫌? 嫌なら――ちょっと待ってくれるのなら変えられるけど?」

「そうじゃありませんけど……」


 正直なところ、そんなことはまったく気にしていない――というかどうでもいい。


「まだなにかあるんですか? 指針さんもなんだかすごい勢いで行っちゃったし……」

「大丈夫だって。そんなこときみが気にすることじゃないよ。きみは自分のことを気にしたほうがいい。自分の問題と向き合うと決めたんだろ。なら気にするのは彼のことではないはずだ。それとも、刃のことが信じられないか?」

「……いえ。そんなことは、ないです」


 その通りだ。

 いまわかばが気にするべきなのは自分のことだ。


 なにか困難に襲われている刃よりも自分のほうがよっぽど危うい。

 それに自分がどれだけ心配をしたところで、いま刃に降りかかっている困難が解消されるわけではない。


 いまのわかばが彼に対してできるのは、彼のことを信じて待つことだけだ。

 それ以外なにもない。

 情けない限りだが、それが事実だ。


「そうそう。しばらく入院することになると思うけど大丈夫?」

「あ……」


 そこでいま自分はなにも持っていないことを思い出した。


「きみが構わないのであれば、あとで誰かきみの家に行かせて持ってこさせるけど。それが嫌なら、入院する前に家に寄ってもらって、ひと通り道具を揃えてから行くといいよ。その二人は自由に使っていいから」


 そう言われてわかばは黒服に視線を向ける。二人の黒服は無表情で突っ立ったままだ。


「……大丈夫です。このまま行きます」

「じゃ、明日の朝までにはきみの荷物を持ってこさせよう。ちゃんと女性に運ばせるから安心してね」


 じゃあねーと軽い言葉を言い残して竜太はどこかへと去っていった。彼の姿が見えなくなったところで、

「こちらへどうぞ。通りに車が停めてあります」


 と、黒服の一人がわかばに向かって言ってから一礼した。

 わかばは二人の黒服に導かれるまま歩き出した。

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