第25話

 一体私は昨日の夜、なにをしていたのだろう――星野わかばはベッドで横になったままそんなことを考えていた。


 昨夜――正確に言えば零時を超えていたはずだから今日なのだが――自分が床についていたはずの深夜に出歩いていたような覚えがある。

 どういうことなのだろう。


 朝、外で目を覚ましたわけではない。目を覚ましたのは自分の部屋のベッドだった。寝ていたはずの時間に起きて行動していたらしいその記憶が何故かはっきりと残っている。それは起きているときと同じくらいと明瞭に。ただの夢遊病とは思えなかった。


 そこで見たのは――

 ――人間の死体。


 人であることしかわからなくなるほど無残に惨殺された醜悪な肉塊。

 かつて自分が動物にやったものよりも遥かに惨たらしいものだった。


 ああ。


 死体の近くは赤い色に染め上げられ、中に詰まっていた血はすべて流れ出していたが、その肉塊はまだ新鮮で体温も完全には失っていなかった。


 あれは――


 夢遊病者のようになったわかばがやってしまったことなのだろうか?

 あれほどまでに残酷なことを、してしまったのだろうか?


 違う――と断定できない自分がいた。

 自分はあれだけのことをやってしまってもおかしくないと考えている。

 あれは自分が本当にしたかったことなのかもしれないと考えてしまっている。


 何年も押し留めて、蓋をして封印していたモノが壊れてしまったのだと確信してしまっている自分がいる。


 本当に――なにをやってしまったのだろう。

 自分はあんなことができるような凶器なんて持ってなかったはずなのに。


 昨日からやけにおかしなことが頻発している。

 昼間と夕方に見たおかしなものもそうだ。

 まわりがすべて歪んだ心地いい渾沌へと飲み込まれていくというあり得ない現象。

 どう考えたってそれは幻覚だ。

 正常な人間がたまたま見てしまうようなものではない。


 やはり――自分は――

 もう、どうしようもないほどの壊れてしまっているのか。


 いや、もしかしたら最初から壊れていたのかもしれない。ただ、いままでそれを自覚していなかっただけだ。


 きっと、自分が壊れているなんていう自覚を持ってしまったら、耐えられない。二度と戻ることができなくなってしまう。一度、電源を落としたら二度と起動しなくなってしまう古い機械のように。それを自覚してしまったら二度と正常であるふりをできなくなってしまう。


 ついこの前まで、わかばはなんとかそれができていた。

 普通の人間であろうと、正常であろうとしてきた。


 それがとても危ういものであったとしても――なんとか崖のふちから落ちないようにいままで続けられることができていた。

 新しい生活が始まっても――いや、これから先もずっとそれができるとも思っていた。


 だが、それはわかばの持つあまりにも愚かな驕りでしかなかった。

 昨日あの幻覚を見てしまったときから、もともといつ壊れてもおかしくなったものが決定的な打撃を受けて破壊された。

 なんの予兆もなく、無慈悲に。

 星野わかばという存在を決定的に壊してしまったのだと思う。


 不可思議で吐き気を催すほど心地よいあの幻覚が。

 幻覚の中に出てきた友人の増田から自分の罪を咎められたことが。


 ――耐えられなかった。


 だから――

 昨夜、夢遊病者のように動き出して――


 輝かしくも汚物のような鮮烈な赤色。

 その赤色を作り出す醜悪で甘美な芸術作品。


 あれを見て、自らの奥底から湧き上がってくるのは底知れぬ歓喜と愉悦。

 あんな素晴らしいモノを作り出したいと強く思っている自分がいる。

 やってしまえ、踏み越えてしまえと耳もとでもう一つの自分が囁いている。

 やはり、私は――


 震える手を自分の顔に当てる。

 口もとはいびつに歪んでいた。

 星野わかばはいま笑っているらしい。


 グロテスクな惨殺死体を見て、自分は心の底から喜んでいるようだ。

 カタカタと身体も心も圧倒的な熱を持って震わせながら笑っている自分がいる。

 あれをやったのが自分の手であったのなら、とても嬉しいと思う最低の愉悦に浸っている自分が実感できた。

 違っていたのなら、今度は自分の手でやってみたいと、いまのわかばは心の底からそう強く願っている。


 違う!


 わかばは強く否定して、拳をベッドに振り下ろした。

 狂ったように何度も何度も振り下ろす。

 乾いた音が響くだけでなにも起こらない。

 自分が最低であるという自覚以外、なにも生まれない。


 違う。

 あんなもの、望んでなどいない。

 あれほどまでに醜いものが自分の願望であってたまるものか。


 星野わかばは『普通』の人間になるのが望みだったのではないのか?

 だから東京に上京したのではなかったのか?


 自分の奥底から強く湧き出す悪しき望みを、醜悪な願望を捨てることを誰よりも望んでいたはずだ。

 それを一番理解しているのは自分だろう。


 どうして、それを肯定できない?


 正しいはずのものをどうして自分は肯定できないのだ。

 望んでいるはずのものを肯定できないのは何故だ。

 否定したいはずのものを肯定するべきだと考えてしまっている。


 否定するべきものに身体を任せてしまえという強い衝動に抗うことができない。

 それに任せてしまったほうが楽になれるという確信を抱いている。

 自分はどこまで不適合者なのだろうか。

 それならば――


 ――死んでしまったらいいのに。


『それは困るな』


 不意に頭の中に響く声。昨日から何度も聞いているそれを忘れることはない。やはりその声は確かに増田のものだった。それとともに部屋の中がすべて歪んで世界と自分の境界が曖昧になって混ざっていく心地よい感覚。


『ここできみが自ら死を選択するというのは、きみが不適合者であること決定してしまうことだ。殺戮を好み、それに愉悦する外れた者として認めるということだよ。死んで決定されたものはどうあっても拭い去ることができなくなってしまう。それでもいいのか? きみはそれを否定したかったのだろう?』


 増田の声は悪魔のような甘さを持って耳もとで囁く。


 それにはわかばのことを唆すのが楽しくて仕方がないというどこまでも深い悪意をまったく隠していなかった。唆した結果、判断を誤ってしまえと言っているかのようだ。


 どのように聞いてもそれは増田のものとしか思えないのに、何故かその声はよく知っている同級生のものとはまったく違う異質なものに感じられる。


『きみがいまの社会には不適合者であるのは確かだが――が、それがなんだというのだ。きみが不適合者だからといって社会が滅びるわけではあるまい。無論、きみがなにかに誰かに害を起こすことは否定しないが――果たしてきみが生きていると起こす害とは一体どれほどのものだろうか?


『そう。たいしたことではない。きみよりも遥かに大きな害を引き起こす者など腐るほどいるのだ。所詮きみは一人の人間でしかない。それにできることなどたかが知れていると思わないかね? きみが好き放題やったところで世界はなに一つ変わったりしないのだ。ならば好きにしたほうが得ではないか。なあに、かつてきみがやったように上手にやればいいだけだ』


 悪魔の誘惑のごとき囁かれる増田の声は、渇いた大地に流した水のようにわかばの中へと滲みこんでいく。

 とても甘く、強いねばつきを伴って。


『きみがなにをしたところで巨大災害のようなことは起こせない。残りの人生できみはどれくらい殺せるだろうか? 百か? それとも千か? 科学を使って大規模かつ効率化すればもっとできるかもしれんな。そこまで金と時間と労力をかけても、車に乗って勝手に死ぬ人間のほうが遥かに多い。きみが悪なら、それよりも遥かに人を殺している車も悪ではないのかね?


『いや、車ではなく、車を操る人間のほうか。その車を操っている人間はきみが望んでいる〈普通〉の人間たちだ。その〈普通〉の者たちが好き放題に死をまき散らしている。これが現実だ。きみが思っているほど、きみは脅威などではないのだよ』


 それは、わかばの中身を徐々に腐らせて犯していく。

 正しいはずのものを――どろどろに。

 自分の身体は強すぎる快感によって壊れていく――ような気がした。


『きみにとって人間は大切なものなのかな? きみが殺して壊して犯しくたくて仕方のないそれはきみが守るべきものだろうか?


『違うな。


『きみが守るべきなのはきみ自身であり、きみの抱く願望だ。いままできみは自分を殺してきた。自分は間違っているのだと考えて殺し続けてきたのだ。それはよくない。そんな風に自分を殺していると、本当に死んでしまうぞ。


『それに――

 この世を支配するその他大勢にとってきみのことなど知ったことではないのだ。きみがどうなろうが奴らがきみを顧みることはない。そんなものを守ってなにになるというのかね? 奴らがきみのことを顧みないのなら、きみだって奴らのことを顧みる必要などない。


『確か人の世の古い法典には〈目には目、歯には歯を〉というものがあるのだろう。それでよいではないか。奴らが好き放題やるというのならきみだって好き放題やればいい。きみによって害を与えられたとしても、それは奴らが自分勝手にやってきた報いにすぎないのだ。


『きみは悪くない。悪いのはきみにそのような異常を持たせたこの世界である。そうすればいい。それだけできみは自分を殺す必要などなくなる。すべてが救われるのだ。素晴らしいとは思わないか?

 まあ、現代社会で好きにやりたいのなら、それなりに手段を弁える必要があるがね』


 呪いかなにかのように、その言葉はわかばの身体のあらゆる部分から滲みこみ、そして反響して際限なく巨大になっていった。

 気がつくと、歪んでいた空間はもとに戻っている。


 増田の声も聞こえてこない。

 最初にあれを見たときはほとんど記憶に残っていなかったのに、いまはそこで起こったことがはっきりと残っている。


 なにを言われたのかも。

 なにを望んでいるのかも。

 とてもとてもはっきりと。

 覚えている。

 楽になってしまいたい。


 ――迷う必要などない。そうすればいい。楽になる自由は誰にだって許されていることだ。


 この衝動に身を任せたい。

 ――それも迷う必要はない。お前が頑張って殺したところで世界が滅びるわけじゃない。それはただの思い違いであり驕りだ。あいつが言っていたように奴らはお前にはなにもしない。なにかするつもりすらないのだ。そんな奴らに遠慮する必要などあるわけがない。上手にやれば塀の中で臭い飯を食わずに済む。


 壊れてしまったほうが、いいのだろうか。


 ――そうだ。壊れてしまえ。イカレた奴がイカレたことをするのは必然である。責任をすべて外に押しつけろ。『私は悪くない。悪いのは世界のほうだ』と言ってしまえ。それがはじめの一歩だ。それは決定的な破壊であるとともにすべてを救う福音でもある。


 その通りだ。

 けらけらという笑い声が自分の口から漏れているらしかった。


 そうすればもう悩む必要はなくなる。

 わかばはベッドから立ち上がった。

 覚束ない足取りで部屋を進んでいき、靴を履いて扉を開ける。

 外はまだ明るい。


 衝動に身を任せてしまえ。

 愉悦を肯定しろ。

 快楽に溺れてしまえ。

 狂気に理性を腐らせろ。

 倒錯に常識を破壊させてしまえ。

 いつだって悪いのは世界なのだと決めつけろ。

 それですべてが解決する。


 必要なのはうまくやる方法だけだ。

 うまくやることができさえすれば、なにをしたって自由なのだ。

 人間にとって、知らないものというのは存在しないも同義なのだから。

 知らないところで人が何人死のうが、知られなければそれは存在しないのだ。

 知られさえしなければ、なにをしても許される。

 これがこの世界を支配する法則の一つ――

 なら――


 自分もそうすればいいじゃないか。

 なんでこんな簡単なことをずっと悩んでいたのだろう――どうしようもない馬鹿だなとわかばは思う。


 まずは見つからないようにする方法を考えよう。

 できるだけたくさん。


 時間がかかるかもしれないが――

 それからでも遅くない。

 自分を殺すのは、もうやめにしよう。

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