第24話

 ひと通りことが済んで、警察署から外に出ると、すっかり明るくなっていた。

 やれやれ、と思いながら指針刃は大きなため息をついてから歩き出す。


 だが、それも仕方ないと刃は思う。いくら都心からそこそこ離れた場所の郊外といってもここが東京であることに変わりない。そしてその首都で起こった事件は凄惨極まりない殺人だったのだから。


 コンビニで通報したあとは警察署で色々話を訊かれることになった。それが終わったのはつい先ほど。警察署を出た時刻は六時過ぎである。プロである刑事ですら吐いてしまうような凄惨な殺人現場を発見したのに、何故か落ち着いている刃のこと疑ったりもしていたようだがそれはすぐに晴れた。死体の状況などからたまたま通りかかっただけの刃に犯行は不可能だったとわかったからだ。


 それに刃が(一応)水谷総合警備保障の社員であることも関係していたかもしれない。刑事の仕事は疑うことなどと言われたりもするが、疑う余地のない相手を疑っても仕方がない。疑うのが仕事の刑事だって暇ではないのだから。


 とはいっても深夜に目が覚めてしまい、再び寝る気ならなかったのでなんとなく外に出て、コンビニに行く途中でこんなことになったわけだから非常に疲れたのは事実である。


 というか疲れて当たり前だ。刃の身体が他の多くの人たちよりも遥かに無理は利くのは確かだが、それは無制限ではない。睡眠も食事もある程度とらなかったら死んでしまう――たぶん。試したことがないのでわからないけれど。


 図らずも発見してしまった事件について警察には正直に話したわけだが、一つだけ黙っていたことがあった。


 死体を発見する直前に見かけた星野わかばのことである。


 刃はあの殺人を彼女がやったと思っているわけではないし、疑いたいわけでもないが、死体を目撃する前に見かけたあの娘の様子がおかしかったのは事実だった。


 昨日の昼間に襲いかかってきた若者のような状態になっているかと思ったら、こちらを見たあとに逃げるような動きを見せたのちそのまま姿を消してしまい、さらにその先に死体があったのだ。そんなことになれば、誰だって事件と彼女になにか関係があるのではと勘ぐってしまうのは当然だろう。


 わかばのことを警察に黙っていたのは、刃が彼女のことを疑いたくなかったのは確かだが、それと同じくらい彼女と先ほどの事件との関係性が不透明であり、なおかつ死体の状況からして若い女性の細腕でできるようなことではなかったのも関係していた。


 不確かな情報を鵜呑みするほど警察も馬鹿ではないと思っているが、万が一ということもある。誰だって間違いは犯す。それが起きないという保証はどこにもない。それに黙っていたところでたいして問題はないはずだ。夜だったから彼女のことに気づかなかったといえばそれで済む。


 そもそも。

 死体の状況などを考えれば、あれは普通の犯行でない可能性はとても高い。


 であるならば。

 いま現在この街で、そのような普通では不可能な事件が起こったのなら、それは『邪神の本』が関係していると見るべきだ。


『邪神の本』があの事件に関係しているなら、それは警察の領分ではなくなる。

『邪神の本』には人間が作った法律も制度も意味をなさず、意味をなさないのであれば縛ることなどできるはずもない。


『邪神の本』にしてみれば、人間が決めたルールなど知ったことではないのだ。知ったことでないことを守る必要性はどこにもありはしない。

 なら、刃がわかばのことを警察に黙っていたところで大きな問題は起こらないだろう。


 だとしても――

 ぞくり、と刃の背中に嫌なものが伝っていく。


 もしも、わかばが『邪神の本』と関係があるのだとしたら自分はどうするべきか。

 刃がいますべきことは『邪神の本』の確保、もしくは破壊である。

 人間を消滅させ、人間を思うままに操り自らの手先にする『邪神の本』が隣人の女の子と関係しているのだとしたら――


 なにをするのが正しいのだろう。

 当然、彼女が昨日襲ってきた大学生たちのような被害者である確率は非常に高い。


 だが、被害者でなかったのなら?

 利用されただけの被害者でなかったとしたら?

 そうだったのならば、指針刃は彼女を断ずることができるだろうか?

 刃はそれについて歩きながら考えてみる。


 わからない。


 幸か不幸か、いままで近いところにいる人間が自分の『仕事』に関わってくることは一度もなかった。

 わかばと刃は深い付き合いがあるわけではない。ただの隣人である。それ以外の何物でもない。まだ知り合ってからひと月も経っていないのだ。


 しかし、知り合いであることに変わりはないし、知り合いに手をかけるとなったのなら付き合いがどれほどの期間であったとしても気が引けてしまうのは当たり前だ。


 無論、付き合いが深く長くなればそれは大きくなるが、浅く短い付き合いしかなかったとしてもそれが小さくなるわけではない。訓練と経験を積んだプロであったとしても、付き合って生じる感情を完全に拭い去って、手を動かすのはとても難しい。気質などによっては、それがずっとできないことだって充分あり得る。


 指針刃は自分の感情と手を切り離せるだろうか。

 自身の信ずる『理想』のために、自分の感情と手を切り離すということが――

 ――できるだろうか。


 いくら考えてみてもわからなかった。

 刃も自分がプロであるという自覚はある。

 人を殺す――それができないわけではない。

 自分の手と心の分離はできている――はずだ。


 だが――


 それがあるからといって、自分が一度も経験していないことをできると言えてしまうような図太さは持ち合わせていないし、そんなことができるのならばこんなことで悩んだりしないだろうと思う。


 こんな悩みを抱かずに生きていけたのならどれほど楽だろうか。

 なにも考えないで生きていけるというのはある種の特権ではないかと思えてくる。


 本当に――悩ましい。

 いや、とそこで思い直す。


 わかばが『邪神の本』と関係していると確定したわけではない。現時点では関係していたとしても、利用されているだけの被害者である蓋然性はとても高いのだ。どこかおかしなものがあったとしても、だ。彼女が純然たる被害者であったのなら、力を持っている刃は彼女のことを助けるべきであろう。


 力を持っていない弱者が逃げるのは罪ではない。しかし力を持っていながら、やろうとすらせずに逃げてしまうのは罪であると刃は考える。


 力を持つ者は逃げていけないと考えているわけじゃない。逃げることだって必要だ。勝てる見込みがないのに特攻したところでなにか変わるわけではない。

 ただ、力を持っている者には絶対に逃げてはいけない場面というものが訪れるだけのことだ。


 ……お前にその覚悟はあるか。

 あの娘がお前の抱く疑念の通りだったときに――


 違う。

 そうではない。


 その覚悟だけはいまの段階で決めておかなければならない。

 殺そうとするときに殺す覚悟をしていたのではあまりにも遅すぎる。

 いつだって『最悪』のことは頭のどこかに残しておかなければ。

 致命的な間違いを犯してしまわないために。

 それだけは――最低限必要だ。


「ほう、それがこの国に伝わる禅問答とやらか? なかなか滑稽だな」


 突如として背後から聞こえてきた男の声。聞いた覚えのない声だったが、そこの混じる異質な気配は確かに知っている。忘れることなどできるはずもない。

 刃は振り向いた。


 そこにいるのは見知らぬ老人。髪こそ総白髪であるが、その身体つきから健康であることが見て取れる。

 だが、その中にいる『なにか』のことは知っていた。


「他人の身体を奪って朝の散歩とは優雅なもんだな、『邪神の本』」

「邪神ときたか。その名称はなかなか面白い。ヒトに発音できぬ名の私を呼ぶに相応しいな。実に的確な表現である。誉めてやろう」


 見知らぬ老人の姿を借りて、尊大な口調で刃に喋りかけてくる『邪神の本』。


「…………」

「意外に冷静ではないか。顔を合わせたら有無を言わさず殺しにかかるかと思っていたがね。きみにはそれくらいできるだろう? それとも罪のないこの男を殺すのは嫌なのかね?」


 ヒトならざる笑みを浮かべて、老人の姿を借りた『邪神の本』は刃に語りかける。


「そう警戒することはない。きみがやるつもりでないのなら私だってやらんよ。なんといっても私は人間のことを好ましいと思っているからな。無論、きみのことも。私はきみと話がしたいのだ。私は自分が話すのも、誰かの話を聞くのも大好きなのだよ」

「…………」

「多くは語らぬか。いい選択だ。特に相手が得体のしれないものとなればそれは最適解であろう」


 刃のその態度にさも満足しているというようにあざ笑いながら『邪神の本』は言う。


「なにが目的だ」

「先ほど言ったではないか。きみと話がしたいのだよ。戦うつもりなら、このような老いた人間を使うと思うかね? できる限りきみのことを刺激しないチョイスをしたのだが――好みではなかったかな?」

「知るか」

「つれないな。では次に機会があればきみ好みそうなものしよう。そう、例えば星野わかばなどはどうかね」


 それを聞いた刃は身体の中が一瞬で発火した。

 思わず、『邪神の本』に操られた老人に飛びかかってしまいそうになったが、それはなんとか抑えることができた。


「その様子を見ると、きみは結構な激情家のようだ。その感情は実にヒトらしく好ましい。どうした。その手で首をへし折らないのかね? そんなこときみには簡単なことだろう?」


『邪神の本』は露骨な挑発する。


「ここで手を出したところで死ぬのはその爺さんだけだ。お前にはなに一つ被害が出るわけじゃない。なら、そんなことする意味はない」


 やつはこの老人の身体を奪っているだけだ。本質はどこか別の場所にある以上、この老人を手にかけたところでどうにかなるもではない。


「いや、意味はあるぞ。この男を殺せば、私が使える『足』を一つ潰すことができるのだから。身体を持たぬ私にはそれはなかなかの痛手だ。小さくとも確実に被害を与えられるぞ。きみが私の支配下にある人間を片っ端から殺し回ったところで、私が自分勝手な目的のために引き起こすだろう被害のほうが遥かに大きい。


「なら、迷わずそれをすべきではないかな。十を救うのに一を殺すのは人間ができる『正義』のもっとも正しい在りかたであるはずだが――違ったかね?」

「…………」

「なにを遠慮しているのだ? きみは私に訊きたいことがあるはずではなかったのかな? 私はきみと話をしに来ているのだ。話せばよかろう。なにしろ私は寛大で慈悲深い。色々と答えてやるぞ」

「…………」

「これでもなお沈黙を続けるか。よろしい。激情家でありながら非常に冷静でもあるようだな、きみは。そんなことをされてしまうと、私としてはきみのほうから話をしてほしくなってくるところだ。


「では、そんなきみにこんな問いかけをしよう。きみは星野わかばという娘の本質を知っているかね?」

「どういう、ことだ」


『邪神の本』の言葉を聞いて、思い出されるのは先ほど抱いていた疑念。

 こいつは、なにを知っている?


「その通りの意味だよ。きみは星野わかばのことをどれだけ知っているのかねと訊いている。おや、その様子では知らないようだな」

「…………」

「そこまで怒りを抱きながらまだ沈黙を守るか。素晴らしいな。そこまでいくとあまりにも自虐的すぎて心配になってくる。知らないのならいい。どうせ近いうち知れることだ。時間がなくなってしまったな。それではまた会おう」


 そう言うと、先ほどまで老人の身体から発せられていた邪悪な『なにか』の気配が消失していくのを察知する。


『邪神の本』がいなくなった老人はどこもなにも見えていない虚ろな目をしたまま硬直している。刃に気づいている様子はまったくない。身体を乗っ取られていた老人が意識を取り戻す前に刃は離れて歩き出した。


 しばらく歩いても、もやもやと渦巻く苛立ちが消えることはなかった。

 いつまで経っても、『邪神の本』の言葉が心のどこかに引っかかっている。


『邪神の本』はなにをした?

 星野わかばに。


『邪神の本』はなにを知っている?

 星野わかばのことを。


『邪神の本』の目的はなんだ?

 やはり星野わかばと『邪神の本』は関係があるのか?


 なにがどうなっているというのだろう。

 なにもわからない苛立ちのせいで強く拳を握りこんでいた。


 気がつくと、刃は自分の住むアパートの近くまで来ていたが、それでも構わず歩いていく。


 どうする、べきか。

 本当に――

 ここは加奈子に相談すべきだろう。

 彼女は刃の協力者である。彼女の意見を聞いておいて損はないはずだ。頼れるものには頼ったほうがいい。


 刃は足を自分の部屋に向けていく。

 ポケットに入れたままだった鍵を取り出して扉を開けた。

 扉を開けると――

 そこには正座をしている加奈子の姿があった。

 帰ってきた刃のことを無表情で睨みつけている。


「……えっと」


 そんな様子の加奈子を見て、刃はなにも言えなくなってしまった。


「いままでどこに行っていたのですか? 言い訳くらいは聞きましょう。居候している身ですから」


 どうしよう。すげえ怖い。

 下手に言い訳をすると、火に油を注ぐことになりそうだ。

 正直に話そう。


「深夜にコンビニに行ったんだけど――」

「はい」

「その途中で、死体を見つけちゃって。それでついさっきまで警察に」

「…………」


 刃の言ったことは馬鹿みたいだが、事実なのだからどうしようもない。というか、黙っていられるとすごく怖いのだけど。


 もう温かくなっているはずなのになんだか寒い。それは、普段感じるただの寒さとはまったく違う異質なものだった。


 しばらく沈黙が続いたあと――


「そうですか。それは失礼しました」


 と言って、正座している彼女が静かに放っていた怒気が薄れていくのが感じられた。


「あの、自分でこんなことしておいてあれなんだけど、怒らないの?」

「コンビニに行ったらその途中で死体を見つけたなんて阿呆みたいなこと言ったってどうしようもないでしょう。それにあなたはそういう嘘がつけるような人ではないと思っているのですが、違いましたか?」


 面と向かってそんな風に言われてしまうと、刃にはなにも答えられなくなってしまった。


 先ほど部屋に満ちていた冷たさとはまた違う性質を持つ沈黙が部屋を貫く。


 向こうは深夜の外出についてこれ以上追究する気はないのだから普通にすればいいというのはわかっているのだが、なんだか恥ずかしくてできなかった。


「……なにか話したいことがあるのですか?」

「……うん」

「では、あとで聞きましょう」

「あと? なんで?」

 刃は思わず首を傾げた。

「そんなの決まっているでしょう」


 相変わらず無表情のまま、そこで一度言葉を切って、


「いままで警察にいたのなら、どうせ寝ていないのでしょう。寝てください。話はそれからです。なにか文句はありますか?」


 無表情のまま睨みつけるように加奈子はそう言った。

 正直に言ったから機嫌を直してくれたかと思ったけれど、やっぱりすごく怒っているらしい。すごく怖い。


「ありません」


 加奈子の言葉に刃は即答せざるを得なかった。

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