第23話
正しさとは一体なんだろう。
すべてが遠くなった世界で刃はただ一人それについて思索を巡らせてみる。
正しさ――あるいは『正義』と呼ばれるもの――それは一体なんなのだろうか。
誰かは社会の決まりを守ることである――というかもしれない。
確かにそれは正しさの一つだろう。
決まりを守るのは、現代社会において秩序を保つために必要なことである。それは法であったり宗教規範であったり伝統的な価値観であったりと国や地域によって在り方は多岐にわたるが、社会において生活する人々を守るために存在しているモノという点ではそれらはすべて一致しているといっていい。
だが、その社会の決まり事そのものが間違っているとしたらどうなるだろうか。
かつてのナチスドイツやソ連をはじめとした共産主義国家などにように。
特定の民族や宗教を信ずる人々を弾圧し、不当な立場へと追いやり、あまつさえ虐殺するようなことを肯定していた場合なら――
社会の決まりを作る体制側が間違っているとしたら――社会の決まりを守るというのは正しいことではなくなってしまうのではないか?
ナチスドイツの支配下に置かれた国ではユダヤ人を匿うことは罪とされていた。重篤な障害持つ人たちを殺すことが是とされていた。いま考えれば明らかな悪逆であることが、その時代んの法として正しいとされていたわけだ。
それを守ることは正しいことなのだろうか?
それを守らなければ、自分が酷い目に遭うのは間違いない。独裁国家というのはそういうものだ。場合によっては処刑されることだって充分あり得る。自分の身を守るというのは間違いなく正しいことだ。それを否定するつもりはまったくない。それは国や地域や時代ですらも関係なく、ほとんどすべての国と地域で共通しているはずだ。
それでも。
特定の宗教を信じている、特定の人種であるというだけで差別を肯定し、排斥し、虐殺さえするのは正しいのだろうか? それを守らなかった人たちも同じように扱われるとしても。
そもそも、前提が間違っている決まりを守るのは正しいのだろうか?
この問いに答えはあるのか?
倫理哲学にはトロッコ問題というものがある。
暴走するトロッコの進行方向に五人の人間がいる。トロッコをそのままにしているとその五人は轢かれて全員死んでしまう。彼らに声をかけて逃走させるのも間に合わない。
だが、自分がポイントを操作すれば、暴走するトロッコの進路を変更させることができ、その五人を助けることができる。しかし、ポイントを操作した自分が轢かれて死んでしまう。自分を犠牲にして五人の人間を救うのは正しいのかという有名な倫理哲学の問題だ。
これにはもう一つ変形がある。暴走するトロッコが走っており、その先に五人の人間がいるのは同じだ。そのまま放っておくとさっきの問題と同じくその五人は轢かれて死んでしまう。
こちらの場合ではトロッコの上に架かっている橋に自分は立っており、橋にはもう一人別の人間がいる。そして、もう一人いる別の誰かを蹴り落とせばトロッコのポイントを操作することができ、落とされた者は轢かれて死に、五人を救えるとしたらそれは正しいか?
どちらも一人を犠牲にして、五人を助けることに変わりはない。
しかし多くの人間は、前者は正しく、後者は間違っていると答える。
これはどういうことだろう。最終的な結果はどちらも変わらないというのに――少数の犠牲で多数を救っているという点では変わりないのに、である。
結果は変わらないのに前者が正しく、後者が間違っていると思ってしまうのは距離の問題であるとある学者は答えた。
距離。
人間という生き物は距離が遠くなればなるほど簡単に人を殺せるようになる生き物だ。
自分の手で殴って殺すより、ナイフで刺すほうが。
ナイフで刺すより、拳銃で撃ち殺すほうが。
拳銃で撃ち殺すよりライフルで狙撃するほうが。
ライフルで狙撃するより、戦闘機で爆撃するほうが。
戦闘機で爆撃するより、大陸間弾頭弾のスイッチを押すほうが楽になるのである。
物理的な距離だけでなく心理的な距離も重要だ。
戦争で敵国の人間を蔑称で呼び、画一化と非人間化をするのはその代表と言っていい。
そうやって人間を記号の一つとして、同じ人間を殺したという認識を弱くさせて、罪の意識から自身を守る。
トロッコ問題第二のケースではこの距離が関係しているらしい。
自分を犠牲にして誰かを救うのは英雄的行為だが、たとえ結果が同じであったとしても、罪もない誰かを蹴り落とすのは心理的に忌避しているというわけだ。
だから大抵の人は第二のケースは間違っているというのだと。
こういった問題は正しさについて考えさせられる。
そして、絶対的な正しさなど存在しないのだというのを思い知らされる。
この問題のことを思い出すたびに刃は思うのだ。
果たして、指針刃は正しいのだろう、と。
自分は正しくあることができているのだろうか、と。
自分は『正義』などだと言えるだろうか、と。
自問する。
何度も何度も。
でも、未だに答えは得られていない。
どこまでいっても『自分はどこか間違っているかもしれない』と考えてしまう。
何故だろう。
どうしてここまで自分に確信を持つことができないのだろう。
ただずっと揺らぎ続けている。
かつて自分が行った『正義』が幻想にすぎなかったことを知ってしまったからか。
ただ、指針刃の気質がそういうものなのか。
よくわからない。
やはり、この問いには禅問答のように明確な答えを持っていないのだろうか。
それでも。
それでも指針刃は自分に問うのだろう。
自分は正しいのか、と。
自分では正しいつもりになっているだけの邪悪ではないのかと。
得られることのない答えを、ただひたすらに――
愚かしくも問い続けるのだ。
目が覚めた。
暗い部屋の中を数歩進んで、ちゃぶ台の上に置いてあるスマートフォンを手に取る。
時刻は午前三時過ぎだった。
普段なら特になにもせず、再び眠りにつくところだが――今日は何故か目が冴えてしまっている。あまり眠る気にはなれなかった。
気分転換にコンビニでも行ってなにか飲み物でも適当に勝ってこよう――そう思った刃はスマートフォンをちゃぶ台に置き、自分の財布を手に取って、できるだけ音をたてないように部屋の中を歩いていく。適当なサンダルをつっかけて扉を開けて外に出て扉を閉め、一応鍵も閉めておく。
外はそれほど寒くない。これなら上着を着ずに出歩いても問題ないだろう。心許ない街頭で照らされているだけの街を進んで最寄りのコンビニを目指していく。
ふと、空を見上げてみると、曇っているわけではないが星は全然見えない。墨を流したかのように真っ黒だ。
だが、東京の夜なんて大抵どこもこんなものだろう。別段嘆くことでもない。綺麗な星が見たければ、どこかの山にでも行けばいいだけだ。わざわざ東京で見る必要などない。そんなことを思いながら誰もいない深夜の街を進んでいく。相変わらず暗黒に包まれた街は異質なものを感じさせる。
それを悪いものだとは思ったことはないが、この闇が『邪神の本』の異質さを際立たせているのもまた事実だ。早いところなんとか排除しなければ、と刃は思う。
一つ目の曲がり角を曲がり、次の交差点を曲がればコンビニだ――というところで目の前に誰か歩いているのが目に入る。
歩いているのは若い女性だ。
いったいこんな時間になにをしているのだろうと訝しげに思いながら道を進んでいると、ふとあるとき、その後ろ姿を知っていることに気づいた。
誰だ――と思っていると、向こうも背後に誰か歩いているのに気づいたのか、彼女がこちらを振り向く。
刃はしっかりとその女性の顔を目撃した。
してしまった、というべきかもしれない。
それは隣人の星野わかばだったからだ。
何故こんな時間に出歩いているのか――いや、そもそも――
なんだか様子がおかしい。
あれはどこかで見たことがある。
どこで?
自問する刃はそれにすぐ至った。
今日の昼間――刃を襲ってきた大学生たちだ。
いま目の前を歩いている彼女はあれに近い。その目はなにも見ていないのに目的は明確で、だけどまったく生気を感じさせない――
刃がどうすべきか迷っていると、こちらを振り向いたあと、わかばはいきなり走り出して角を曲がっていった。それを見た刃は反射的に走り出す。
こちらに気づいた?
しかし、何故逃げた?
彼女は刃の身体のことを知ってしまったとはいえ、夜中に出歩いているところを見られて逃げる必要性はどこにもない。
刃の中にいくつもの困惑が生まれていく。
刃に見られて困るようなことをやっていた?
まさか。
そんなことが――ある、わけ――
角を曲がると、そこには――
わかばの姿はどこにもなく、その代わり――
コンビニからは死角になる場所に、街灯をスポットライトのようにさせて血まみれに肉塊が鎮座されていた。
顔を潰され、身体中の至るところを刺されて切り刻まれた惨殺死体。夜の街の一角を汚い朱色に染め上げている。かろうじて人間の形を留めているので、その肉の塊が人間の死体であることは認識できるが、それ以上はなにもわからないほど無残なモノ。徹底的に苦痛を与えたのちに殺されたのだろう。死体には慣れている刃ですら、人間はここまでむごいことができてしまうのかと吐き気を催す醜悪さがそれからは感じられた。
あの子がやったのだろうか?
大学生の娘がこれほどまで残虐に人を殺せるのだろうか?
いくら深夜とはいえ、コンビニからこれほど近い場所でこんなことができるわけがない。すぐに夜勤中のコンビニの店員なり、たまたま足を運んだ刃のような客に見つかるだろう。無理だ。どこか別の場所でやった? それはその通りだろうが、人間の死体というやつは思っている以上に運ぶのはとても大変だ。
ならどう運んだ? 深夜だからといって、人間大の大きさの物体をバッグかなにかに入れて運ぶのはとてつもなく目立つ。それを誰かに見られたら、見た奴にその記憶はかなり明確に残る。
このあたりは大学生が多い。深夜でも出歩いている者は他の街より多いはずだ。そんな場所で見つからずにこんなことをするのは不可能に等しい。
見た限りではこの死体はここに置かれてからそれほど時間は経っていないと思われる。肉塊から流れる血はまた新しいし、腐臭も漂っていない。ここに置かれるどころか、殺されてからもそれほど時間が経過していないと思われる。
そんなことが大学生の女の子にできるだろうか?
常識的に考えれば、できるはずがない。
いや。
と、刃はある可能性に思い至る。
その不可能を可能にする方法は一つだけあることに気づいた。
気づいて、しまった。
『邪神の本』の力だ。
あれを使えば、その不可能も可能になるのではないか?
人の身体をあそこまで損壊することも。
殺したばかりの新鮮な死体をここまで見つからずに運ぶことも。
できないという道理はどこにもない。
『邪神の本』はそういったものを捻じ曲げて不可能を可能にしてしまう。
もしも、彼女が『邪神の本』にかかわっているのなら――
できて、しまうだろう。
もう一度刃は死体に目を向ける。人間の中にある悪性を誰の目にも直視させてしまうほど無残に殺された死体。人間であることはわかるが、それ以外はなにもわからないほど、尊厳もなく殺されてしまった誰か。
このまま見て見ぬふりをするのはできなかった。
これほどまでに無残に殺されたのに、見て見ぬふりをされたのではあまりにも殺された誰かがあまりにも浮かばれない――そんな風に思えたのだ。
さすがにこれは警察に連絡するべきだろう。『邪神の本』が関わっている可能性が高いといっても、明らかな殺人事件なのだから。
そこで刃は外に出ていくのにスマホを持ってきていないことを思い出した。
仕方ない。
刃はコンビニに入店した。
やる気のなさそうな夜勤バイトの学生の「っしゃっせー」というやる気のなさそうな声が聞こえてくる。
「すみません」
「はい。なんでしょう」
やる気のなさそうにしていた店員は意外と丁寧な口調で刃の呼びかけに応じた。
「電話を貸してもらえませんか? もしくは警察に通報してくれませんか? ここからは見えないんですけど、来る途中で死体を見つけてしまって」
刃は外を指さしてそう言った。
「……は?」
コンビニ店員はわけがわからないという顔をして刃のことを見ていた。しばらくそうしていたところで、
「……マジっすか?」
と、店員という殻を脱ぎ去って彼は刃に質問した。刃が悪戯のつもりでそんなことを言っているわけではないことを察してくれたらしい。
「マジです。けど、見に行かないほうがいいと思いますよ。スナッフビデオとか好きで仕方ないタイプならいいですけど」
「わ、わかりました。ちょっと待ってください。電話してきますんで」
コンビニ店員はバックルームへと消えていった。
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