第21話

 それはいまとなっては遠い昔の話。


 ある少女の話をしよう。

 その少女は生物を殺害することを嗜好していた。それ以外は別段特別なものはなにもなかった少女である。


 それは遺伝的なものだったのか、彼女にだけ発現した一代限りの突然変異だったのかはわからない。どこでそんなものが生じてしまったのはどこまでも不明だ。

 少なくとも彼女の両親を含めた近い親族にそのような嗜好を抱いている者は誰一人としていなかったし、彼女の家庭にだってなにも問題はなかったのは事実だった。


 彼女の身近にある世界には一切の問題はなかったはずなのに、現実として彼女は異常な嗜好を発現してしまった。


 何故だろう?

 生物学的な異常も、自分が暮らす身のまわりの世界の異常もなにもなく、異常というのは発生するものなのだろうか。


 よくわからない。

 彼女も自分の異常がなにによるものなのか、子供なりに調べてみたことがあった。


 図書館に行って、遺伝学や心理学や脳科学や犯罪学などの文献に目を通してみたことがある。自分の異常にはなにか原因があるのではないのかと。それらのすべては子供が読むものではなく、子供だった彼女がそれらの内容をどれほど理解できていたのか想像する以外ほかにない。


 だが、彼女がそれらの読み物と真摯に向き合い、理解しようとしていたのは疑いようがない。


 それでも、大人でも苦労する難解な文献を必死になって読んでも、どうして自分がこのような異常が発生してしまったのかわからずじまいだった。


 あのときはまだ小さかったから、内容を理解できていなかっただけで、本当はちゃんと原因が書かれていたのではないか――と思って、再び文献に目を通してみたこともある。


 しかし、結果は同じだった。

 自分に異常が生じた原因は不明のまま。


 幼く、理解力が発達過程にあったから不明だったのではなかった――その事実にはかなりの驚愕と――絶望を抱いた。


 自分の異常には原因らしきものがない。


 原因がどこにも存在しないのなら、それをどうにかすることはできないのではないか。

 それに気づいてしまったからだ。


 恐らく――

 一番楽だったのは狂ってしまうことだったのだろう。


 狂ってしまえば、自分を全肯定できる。

 壊れてしまえば、自分の異常を誰かのせい、なにかのせいにしてしまうことだってできる。


 でも、彼女にはそれもできなかった。

 どうしてできなかったのかと問われると、返答に困ってしまう。


 彼女が弱かったからかもしれない。

 あるいは彼女が強かったからかもしれない。


 実際にはどちらであったとしても、彼女は壊れることを――狂うことを選択することができなかった。

 異常を異常であると認識しながら生きる――それはなによりも過酷ないばらの道だった。


 いまの彼女は問いかける。

 何故壊れようとしなかったのか、と。

 何故狂ってしまおうとしなかったのか、と。

 それが一番楽なはずだったのに、と。


 その問いかけに対して彼女はこう答える。

 ただ、それをしたくなかったのだと。

 きっと私は正しくなりたいのだと。

 異常を克服したいのだと。


 それがなによりも厳しくつらい道であったとしても、そうありたいと願うのが彼女の本心であった。

 本当に――

 ――どうかしているとしか思えない。



 星野わかばは見慣れた天井が目に入ると同時に、いつの間にか自分は寝てしまっていたんだなということを認識した。

 結局今日はなにもしなかった。


 ただ家にいるのも嫌だったから、授業に出るわけでもなく学校に行きふらふらして、増田と一緒に食事をして、それからなにもすることなく家に帰ってきてしまった。


 なんだかどうしようもないな、と自分でも思う。

 惰眠をむさぼってみたところで、いまのわかばの中に渦巻くものは昨夜からなに一つとして変わっていない。

 困惑――いまの自分を支配しているのはそれだ。

『普通』の青年だと思っていた隣人の秘密を知ってしまったこと。


 そして――

 大学の中をふらふらしているときに起こった――


「あれ?」


 そういえばなにが起こったのだろう。

 大学の中にいるとき、なにかとてもおかしなことが起こったような気がするのだが――何故かそれが思い出せない。


 目に見えるすべてがぐらぐら揺れて、ぐにゃぐにゃ歪んで、すべてが混ざりあって形を失った――そんな場所にいたような――

 そこで――なにかを、聞いたような――

 思い出そうとしても、頭の中に霧がかかっていて、思い出すことができなかった。


 ……白昼夢でも見たのか。

 生きていたら、そんなものを見ることだってある。


 それが、大学の中を歩いているときにたまたま起こったのだ。

 きっと、たいしたことでは――

 そんなことを思ったところで、自分の部屋が急にぐわんと歪み出した。

 すべてが混ざって歪む混沌とした空間。

 そこには『自分』と『世界』の境界などない。『自分』は世界の一部となり、『世界』もまた自分の一部となって存在する。


 秩序など一切存在しない。

 ここは、そんな場所だ。

 何故こんなにも混沌としているのだろう。

 でも、その混沌が心地よく感じられる。


 殺した。


 突如として、混沌とした空間に広がった光景。

 それは、過去の自分が行った映像記録。


 そう。

 殺した。


 学校の飼育小屋にいたウサギを一匹殺して解体して、白くて可愛らしい生き物を醜悪な肉塊に変貌させて、色んな生徒の目につく場所に置いた。

 きっと驚いてくれるだろう、と。

 そんなことを思いながら。


 楽しく。

 とても楽しく。


 夜にこっそり家をぬけ出して、毎日一匹ずつ。

 殺した。

 できるだけ記憶に残るように。


 それを見た教師も生徒も恐怖していたらしかった。

 本当に愉快だった。

 恐怖に駆られている姿を見るのは。


 再びまわりの空間が歪んでいく。

 あらゆるものが溶けて混ざり合った世界が少しずつ色と形を取り戻していく。

 ふと気がつくと、わかばは自分の部屋に戻っていた。


 なにが――起こった?

 そもそもなんであんなものを――

 見ていたのだろう。

 あれは、もう――


『自分には関係ない、か? なにを言っている。あれがお前の本当の姿じゃないか』


 そんな声が突如として部屋の中に響く。

 どこかで聞いたことがある気がする声。

 部屋のどこを見渡しても、自分以外見当たらないはずなのに、それはあまりにも明確に聞こえてくる。


「違う」


 無意識にわかばは声を出していた。震える声で、否定の言葉を。


『違わない。あれが本当のお前だ。お前の本質だ。なにかを殺戮することを嗜好し、それに愉悦を感じてしまう鬼――それがお前だよ、星野わかば』


 聞こえてくるその声は、今度はわかばが知っている声に変貌していた。

 それは、同級生の増田のもの。

 わかばの過去のことはなにも知らないはずの――同級生の声。


 自分のまわりには黒いなにかが侵食してきていた。

 それはわかばを犯すように、汚すように、潰すように、匂いもなにもなく、ただ不気味な触感だけを感じさせてわかばの身体にまとわりついていく。

 その黒いなにかに触れている部分は感覚が消失する。まるではじめてからそんなものがなかったかのように。


「違う!」


 わかばは黒いなにかに溺れそうになりながらも、否定の言葉を強く発した。


『違わない』


 増田の声がわかばの言葉を無慈悲に否定する。


「違う!」

『違わない』

「違う……!」


 黒いなにかはわかばの首を超えてもまだ這い上がってくる。止まらない。止めることなどでない。わかばは黒いなにかによってそのすべてが塗り潰されて溺れていく。


 声を出すこともできなくなった。


 自分はもう死ぬのかもしれない、最後に残った意識でそんなことを考えたところで、先ほどまですべてを埋め尽くしていた黒いなにかが消失していることに気づいた。


 増田の声も、聞こえてこない。

 身体にはじっとりと冷たい汗がにじんでいた。

 呼吸が乱れる。

 なんだかうまく呼吸ができない。

 どうやれば呼吸ってできるのだっけ? 息苦しいのに、そんなことを他人事のように考えていた。


 どうしていいのかわからなくなったわかばは裸足のまま外に出た。


 申し訳程度に取りつけられている手すりに身体を預ける。

 落ち着け。呼吸なんて誰でもできることじゃないか。落ち着けばそれで済む。余計なことなんて考えなくていい。あんなものは――

 そこで背後から音が聞こえてきて、そちらに身体を向けた。


「……大丈夫か?」


 ドアを開いた先には隣人の指針刃がいた。その後ろには何故か綺麗なおねえさんがいる。


「……なんでもありません。持病のシャクです」

「そう言うなら無理に訊き出さないけどさ」


 少しだけ気まずそうに刃は言った。彼に続いて、綺麗なおねえさんが続いて部屋から出てくる。おねえさんも心配そうな視線をわかばに向けていた。


「……なんというか、意外とやることやってたんですね」

「誤解を招くような言いかたをするんじゃない」

「一人で暮らしてる部屋から女の人が出てきたら、普通そういう関係なんだと思いませんか?」

「う……まあそうだな。でも、本当に違うんだ」

「そうですよね。そんなチャラ男みたいなことができる人じゃないですもんね、指針さん」

「うるさいな。それだけのことが言えりゃ大丈夫だな。心配して損した」


 少しだけ不満そうにして刃は離れていった。おねえさんもそれに続いていく。一瞬だけ、おねえさんがわかばに視線を向けているのがわかった。心配そうなのは確かだったが、わかばの様子のどこか怪訝なものを感じている――ようだった。


 アパートの手すりに身体を預けたまま、わかばは呟いた。


「ほんと、どうすればいいんだろ」


 わかばのか細い呟きはまだ肌寒さの残る春の空に消えていった。

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