第20話

「……どうしたんですか?」


 藤咲加奈子はやけにぼろぼろになって帰宅してきた指針刃に向かってそんな言葉を発した。加奈子の言葉と表情から、いまの刃を怪訝に思いつつも心配しているのが感じられる。


 あまり心配をかけなくないが、黙っているのもあまりいいとは思えない。刃と加奈子は仕事相手である。現段階での関係性は悪くないとはいえ、情報伝達の不備がなんらかの歪みを引き起こさないとも限らない。なにがあったのか言っておくべきだろう――言わなくてもいいことは確かにあるが。


「『邪神の本』に操られているらしい大学生たちに襲われた」

「……大丈夫ですか?」


 加奈子は少しだけ驚いた表情を見せたものの、すぐにそれをいつもの鉄面皮で覆い隠してから冷徹な口調となって言った。


「うん。『邪神の本』に操られていても凶器を持った普通の人間でしかないから――たいしたことはない。……まあ、ちょっと油断した隙をつかれて一発だけ思い切り殴られたけど」


 厳密にいえば、八人の若者を倒したあとに、『邪神の本』に操られた人間によって運転される暴走軽自動車にぶつけられたわけだが、それは言わなくてもいいだろう。実際に大丈夫だったとはいえ、車が相手だったと知れば心配する――いくら刃の身体の特殊性を知っていても。


 自分から言うつもりはないが車のことについて、加奈子のほうからなにがあったのか問い詰められたのなら素直に言うつもりであった。そこまでして隠す必要はまったくないと思っていたし、加奈子から問い詰められたとき、彼女を上手に言いくるめられる自信が刃にはなかったからだ。


「……いまの指針さんの状態を見て、正直なところを申し上げると、武器を持った大学生に襲われただけとは思えないんですが――聞かないことにしましょう。相手の言うこと信頼するのも仕事ですから」


 それは口調こそ冷たいものであるが、どこか温かさ感じられるものだった。それを見て、刃は少しだけ安心する。案外、もともと彼女は感情豊かなのかもしれない――そんなことを刃は思った。


「……ありがとう」

「私に対する礼など不要です」

「そう言われてもね……僕はそういうことできないし、そもそもそういうの嫌だし、だからお礼くらい言わせてよ。当たり前でしょ、そういうのって」


 世間にはその『当たり前』が何故かできないのが大勢いたりするが。


 だからといって刃がそれをしなくていい理由になどならない。自分に対して行われた好意には感謝する。自分が非礼をしてしまったのなら謝罪する――それが当たり前であり、自分以外の者がいる社会において正しい行動のはずだ。


「……そうですね。わかりました。指針さんがどういう人なのか多少なりとも把握しているつもりですから。好きにしてください」


 そんな言いかたをしなくてもいいのに――と思うが、加奈子は自分から突き放すような接しかたをしなければ、自分の感情を分離するのができないタイプなのではないか、という気がした。


 確かに仕事と私情を切り離して考えることは大事だ。余計な私情を挟めば見えるものも見えなくなる。


 それにいま刃と加奈子が関わっている一件は、私情によって目が曇って判断を誤れば、自分たちを含めた命に係わるのだ。


 だから、彼女は刃に対してそのような接しかたをしているのだろう。

 必要以上に肩入れしてしまわないように。

 肩入れした結果、判断を誤ってしまわないように。

 判断を誤った末に取り返しのつかないことをしてしまわないように。


 加奈子のそれは刃にだって理解できる――が、彼女のそれは少しばかり息苦しいように思えてしまうのも事実であった。


 どうにかできないものかと思うが、そんなことができるほど刃の口は回ってくれないのが現実である。


「……なんでそんな顔をしているのですか?」


 加奈子は少しだけ顔を膨らませてそんなことを言う。


「いや、別になんでもないよ」

「……そうですか」


 そう言った加奈子は少し不満そうにしていた。それを見るとやっぱり彼女は表情豊かなのかもしれないと思う刃であった。


「ところで、指針さんに襲いかかってきた大学生はどうしたのですか?」

「最初は警察でもいいかなって思ったんだけど、彼らが『邪神の本』の力で操られていたのは間違いないから、念のため特殊警備部門のほうに連絡をしたよ。事後処理のほうは問題ないはず」


 それに車を運転していたのと、刃のことを金属バットで殴りつけてきたのに関しては、顎に掌底を打ち込んで気絶させた他の者よりも重傷を負っていたこともある。


『邪神の本』に関する事後処理を行ったあとで警察に連絡しているだろう。向こうもプロだ。刃のことが警察に露見することはまずない。


「『邪神の本』から指針さんを攻撃してきたということは、やはり『邪神の本』が狙っていたのは指針さんだった――ということでしょうか?」


 加奈子は真剣な口調になってそんな言葉を漏らす。


「昨日の夜に『邪神の本』の足になってる奴と遭遇したこともあるし、その可能性は高いね。……まあ、あまり考えたくもないし、嬉しくもないけれど。『邪神の本』がなにを目的にして、僕のことを狙っているのか不明だけど――なにかわかってることはある?」

「……いえ。申し訳ありませんが、そのあたりについてはまったく」

「だよね……」


 それに、『邪神の本』が少なくとも人間と同等の知性を持っていることは明らかである。いや、あらゆる面で人間以上の存在であると考えるべきだろう。なにしろ『神』とついているのだ。実際、『邪神の本』がどのような存在なのかいまでも不明であるが、人間と同程度である、と考えるのは咳きこんでしまうほど想定が甘すぎる。


 さらにいえば、人間と同等あるいはそれ以上の知性を持っているからといって、それが人間には理解できるものとは限らない。


 人間の知性は人間のものだ。ある程度重なる部分もあるだろうが、根本的に『邪神の本』は人間とはまったく違う存在である。まったく違う存在である以上、持っている知性が別物であるのは必然といえよう。


 そもそも同じ人間ですら、社会や文化の違いから生じる差異に戸惑うのだ。それを考えれば、『邪神の本』が人間にはまったく理解できないものであっても不思議ではない。


 人間の持つ知性は、数多くある知性の一つに過ぎないのだ。

 知性という概念を人間の尺度だけで測るのは得策ではない。


『邪神の本』の目的がわかったところで、たいした意味はないだろう。

『邪神の本』という存在が人間を脅かすものであり、なおかつ人間のために作られている法は一切意味をなさないのだから。


 だから、排除してしまうのが一番手っ取り早い。


『邪神の本』が人間に対してどのようなものを抱いているのかは別として。

 もしかしたら『邪神の本』は人間に対して好意を持っているかもしれない。充分あり得ることだ。それが理解できないものであったとしても、あり得ないとは言い切れない。


『邪神の本』がいまよりも遥かに人間に繁栄をもたらすことだってあり得る。

 異星人との接触を果たすことで、さらに文明を発達させたSF作品のようなことが起こることもあるだろう。


 だとしても。

 野蛮で残虐で好戦的で愚かな人間にとって『邪神の本』はとても危険だ。

 そこに無限に等しい可能性があるのだとしても。

 場合によれば、核兵器よりもずっと――危険だ。

 少なくともいまの人間が扱えるようなものではない。

 自分の身に余るほど大きな力というのは持つべきではないのだ。


 そんなものなら、ないほうがいい――刃はそう思う。


 無論、これは刃の個人的な考えにすぎない。

 刃の考えに賛同できない人も多かろう。

 考えに賛同できても、それは正しくないという人も多かろう。

 自身と別の考えを持つことは当たり前のことだ。


 絶対的な正しさなんていうものは虚構である。

 そんなもの、少なくとも地球の隅々まで探しても見つかることはない。

 そもそも『間違っている』とか『正しい』とかいう考えが存在しないのかもしれない。


 唐突に、刃はそんなことを思った。

 あらゆる考えは間違っていながら同時に正しい――有名な箱の中の猫のように開けてみるまでその中は不明であり、開ける者によってそれが正しいか間違っているのか決定される。思想というものはそういった不確定なものではないのだろうか。


 なんだか哲学めいている。

 というか馬鹿馬鹿しい。


 だから、『いまの自分は正しいのか』とヒトは自身に問いかけるのかもしれない。

 そんな風に、思う。

 そこで刃は加奈子がこちらに視線を向けていることに気づいた。


「なにかお悩みですか?」


 加奈子はそう刃に質問する。


「私でよければ相談にのります。……あまり力になれないかもしれませんが」


 少しだけ不安そうな表情をして、加奈子は続いて言葉を発した。


「『正義』ってなんだと思う?」


 刃のその言葉を聞いても、加奈子は表情をしかめることはなく、真剣な表情になって思案していた。


 しばらく部屋の中は沈黙で満たされる。

 沈黙はそれほど長く続くことはなく、すぐに破られた。


「色々とあると思いますが、私は『最終的に自分を信じることができる人』ではないかと思います」

「どうして?」


 刃は再び問うた。加奈子はすぐに答える。


「自分を信じるというのは思っている以上に難しいことだから――でしょうか。自分を疑わなければそれでいいというわけではありません。多くを知り、多くに疑問を抱きながらも、多くの間違いを犯したとしても、最後には自分の選択を信頼できる――強くなければ、そんなことはできない。そういったことができる強さを持つならば、その人は誰よりも正しい――そう思えるからです。それを絶対的だとは思いませんけど」

「……そっか」


 その基準で判断すると、刃は――『正義』などとは言えないだろう。

『正義』などというものを持つ資格すらないのかもしれない。


 最終的に下す自分の選択を正しいと思うことなどできず、下した選択を後悔し続けるだけだから。


 やはり自分はどうしようもなく弱いのだ。

 たぶんきっと――どこまでも。


「どうして、そんなことを訊くんでしょうか?」


 その言葉に少しだけ怯えの色を見せながら加奈子は言う。


「さっき、竜太と会ったときにそんなこと訊かれたんだ」

 刃の言葉を聞いて、加奈子が息を呑んだのが感じられた。


「それはその……私のことで、でしょうか?」

「うん」


 刃は素直に肯定した。


「待ってください。副社長が私に強要したわけではありません! この件は私が勝手に――」

「それも知ってる。竜太は藤咲さんのことを止められなかったと言っていた。まあ、あいつの言うことだから全部信用しようとは思わないけど、まるっきり嘘でもないんだろう。僕の個人的な意見を言わせてもらうと、止めてほしかったけれどね」

「…………」

「正直なところ、僕には家族に対する気持ちとかいうのはよくわからないんだ。いい関係じゃなかったし、いまとなっては完全に縁が切れてしまっているから。


「だからそんな奴に、家族を失った藤咲さんにどうこう言う権利なんてないだろうって思ってる。僕は所詮その程度の存在だ。だからあなたに手を退けとは言うつもりはない。その悲しみをどうにかすることだってできない。


「なら、あなたの勝手な目的のために僕を使ってくれればいい。もとより僕は無理の利く身体だ。それ以外、他にできることはなにもない」


 この自分の身体が、誰かのために使えるのならそれは嬉しいことだから。

 それは、かつての自分が持った理想でもある。


「それは……」


 加奈子は口ごもった。


「もしそれが嫌だというなら、お互いのことをお互いのために利用し合いましょう。それなら対等だと思いませんか?」

「……指針さんがそれの望むのなら」

「じゃあ決まりだ。そういうことにしよう。……暗くなり始めてきたし、そろそろ夕食の準備にしない?」


 スマホで時刻を確認すると、もう夕方だった。


 完全に陽が落ちるまでまだ時間はあるが、さっき襲撃されたばかりだ。暗くなってから出歩くのはあまり得策ではないだろう。


「それでは買い出しに行ってきます」

「いや、それはやめたほうがいいと思う。『邪神の本』に操られた人間によって襲撃されるかもしれない。かといって家に一人にするのも危険か――それじゃあ、一緒に行こう」

「確かにその通りですね。では、よろしくお願いいたします」


 加奈子は礼儀正しく頭を下げてそう言った。

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