第19話

「はっはっは。相手のほうから話しかけてくれるなんてきみ、なかなか好かれているじゃないか。驚いたよ」


 水谷竜太は軽薄な笑みと声でそんなことを言う。


 奴は普段見せているこの顔はどこまでも仮面だ。ときにはそれがわざとらしくさえある偽りの仮面。


 それが仮面であるとわかっていても、その仮面の奥にある真実は刃に見通すことはできない。いや、ほぼすべての人間にそんなことはできないはずである。竜太の仮面を暴けるのは、奴と同じ場所に立っているものだけだろう。


「そんなことはどうでもいい。ぐだぐだと先延ばしにしてないでさっさと話せよ」


 刃が竜太のことを呼びつけた理由はただ一つ。

 加奈子のことである。


 今日の朝、聞いた話――正確にいえば彼女が話してくれたこと――彼女の父親が『邪神の本』を引きあげた漁船に乗っていた漁師であり、行方知れずになっているという事実を聞いていてもたってもいられなくなったのだ。


 無論、刃にだって彼女が父の敵を取りたいという気持ちは理解できる。家族を理不尽かつ突発的な出来事によって失うというのがどれほど残された者を怒らせ、悲しませるかということは。


 だが。

 この一件は押し込み強盗に殺されたのとはわけが違う。


 相手は超常的な力を持ち、他人を操り人形にし、自分の目的のために人間を捨て駒にする道理から外れた存在なのだ。


 たとえ家族の敵であっても、普通の人間が関わるべきものじゃない。

 そんなこと、竜太にだってわかっているはずだ。

 なのに――


「まあ、そんな風に睨まないでくれよ。きみに睨まれたら心臓が止まっちゃうじゃないか。僕はまだ死にたくないよ」


 にこやかな笑みを浮かべたまま、竜太はやれやれとため息をつく。


「嘘つけ。首をへし折ったって死なない奴がそんなこと言うんじゃない」

「はっはっは。そう褒められちゃうと嬉しくなるね。僕ってば褒められると伸びるタイプだから」

「死ね」


 先ほどからこのような調子である。手早く終わらせてしまうつもりだったのに、一向に話が進まない。こんなことになるのならはした金をケチって大学の学食など使わなければよかった。あまり顔を合わせたくない相手と会ってしまった。まあ、彼女はここに通っているのだから、顔を合わせる確率が高いのは間違いなかったし、あまりにも間が抜けている軽率な行動と言わざるを得ないが。


「いい加減さっさと言え。お前、なんで『邪神の本』の一件に藤咲さんを関わらせた? それがわからないお前ではないだろう」

「僕だって関わらせるつもりはなかったよ。でもね、強く明確な動機を持って動く相手を止められるなんてまったく思っていないんだ。それほど僕は自分の能力を過信していないよ。それに、彼女の父が『邪神の本』を引きあげたのが原因で失踪したのを突き止めたのは彼女自身だ。きみは信じてくれないかもしれないけどね。僕は色々やった結果、彼女の執念を止められなかったわけだ。そんなことすらできない僕に彼女を止められると思うかい?」


 相変わらず竜太は軽薄な笑みを浮かべているが、そこから放たれる言葉には射殺すような鋭さを感じさせた。


 恐らく――

 竜太は、嘘は言っていない。


 少なくとも、自分から加奈子に『邪神の本』の話をしなかったこと、それに加奈子が父の失踪事件に『邪神の本』が関わっているのを自力で突き止めたことに関しては信用していい。


 だが――


「お前が藤咲さんを止めることができなかったとは思えないな」

「僕の能力を評価してくれるのは嬉しいが、それは過大評価ってやつだぜ。過大な評価をされても困るし、なにより面倒だ。過大な評価をしたところで、できなかった過去もできない現在も変わることはない。未来に悪影響を及ぼすことはあるけれどね」

「…………」

「それともきみは、なにも悪いことをしていない有能な部下を軟禁しろとでも言うのかな? 清く正しい正義マンなきみのやることとはとても思えないね。それとも『正義』というのはそれほど歪みをもたらすのかな――おい、冗談だよ。そんな睨まないでくれよ。僕は死なないけど、他の誰かだったら死んじゃうかもしれないぜ」

「……そうだな。悪かった」


 大学の学食に陣取っている部外者である刃と竜太が、訪れた学生たちから避けられているのは理解している。少し頭に血が上っていたかもしれない。


 確かに竜太は並外れた人間であることは確かである。普通の人間が百の労力が必要になることを十の労力で済ませることができるだろう。一で済んでしまうかもしれない。


 だが、それは不可能が可能になるというわけではないのだ。万能で完璧で完全な人間など存在しない。万能でも完璧でも完全でもないから人間は人間なのである。自分を万能で完璧で完全だと嘯く人間は、治しようもないほど馬鹿であるか狂っているか、そのどちらか以外ありえない。そんなこと刃にだってわかっているのだ。わかっているけれど、あの竜太が『できない』というのが信じられないというのもまた事実であった。


 なにかやりようがあっただろうと思う――無論、彼女のことを軟禁する以外に。


 しかし、そこであることを思い出して、いや――と思い直した。


 加奈子の執念がすさまじいものであるのは、彼女がまとめたデータの精巧さ見ればある程度察することができる。はじめ刃の家を訪ねてきたとき、彼女は最近異動があったため名刺を切らしていると言っていた。彼女が父の失踪に『邪神の本』が関わっていることを知って、それについて調べ始め、特殊警備部門に異動して刃のもとに来るまでひと月もかかっていないのではないか。


 それを考えると、竜太が加奈子の執念を止めきれなかったというのも無理はない、と思う。


 人間の執念は、想像以上に強くなる。

 執念によってその内面をすべて塗り潰して、根本から変えてしまうほど強く、そして禍々しく、変えてしまうこともある。


 竜太は普通の人間より遥かに聡明だ。

 聡明であるから、加奈子の執念を邪魔すると、なんらかの害が生じると考えたのかもしれない。


 水谷竜太という男は大局に利があると判断すれば、喜んで自分の命すら差し出すことができる人間だ。


 そんな人間が「止められない」という判断を下した。

 それは無視できるものではない。

 そこに多少の嘘があったとしても。


「藤咲さんのことを止められなかったというのはとりあえず信用する。だが、止められなかったのならどうするつもりだった?」

「無論、言うまでもなく守るつもりだよ。彼女はとても有能だからね。失うのは惜しい。だからきみのところに行かせた。一人でやらせるよりはよっぽど安全だからね」

「だからといっても安全は保証できんぞ」

「わかってるよそんなの。きみにだってできないことはあるし、彼女だって命に係わるかもしれないことは理解してる。彼女の身になにかあったとしても、僕はきみのことを責めるつもりはないし、彼女だって自業自得だと思うだろう。これはそもそも僕が手段を講じて避けるべきだったことだよ。きみが責任を感じることはない」


 竜太のほうからそう言われてしまうと、刃はなにも言い返すことができなくなる。もしかしたら、いいように言いくるめられてしまったのかもしれない。だとしても、刃が納得するだけの根拠はあった。


「ところで、一つ訊きたいのだけれど」

「……なんだ」

「きみにとって『正義』とはなんだろう?」

「…………?」


 その質問の意図がよくわからず、刃は首を傾げる。


「答えられないのなら答えなくてもいいさ。ちょっと気になっただけだからね。次に会うときの宿題とか言うつもりもない。きみが考える『正義』を僕に言う義務はないし、そもそも他人が考える『正義』など知ったところで得はしないからね。それじゃあ僕は行くよ。そろそろ帰らないと可愛い部下たちに怒られそうだからね」


 バーイ、などといって軽い足取りで竜太は学食から離れていった。竜太の姿が見えなくなったところで、ふとまわりを見渡すと学食には人が増え始めていた。そろそろ二限目が終わって、昼休みに入るのだろう。


 先ほど離れていったわかばたちのほうに視線を向ける。彼女たちはまだそこに座って、雑談をしているらしかった。遠いからなにを話しているのかわからないが、それに聞き耳を立てるのは無粋で失礼である。


 変に意識をしても仕方がない。

 知られてしまった以上、どうやったってその事実が変わることはないだろう。


 時間があればここで食事をしていこうかと思っていたが、人が多くなってきたのでやめることにした。刃は立ち上がって歩き出そうとしたとき――


 わかばと一緒に歩いていた男子学生がこちらを見ていた――ような気がした。

 一瞬、そちらに視線を向けてみるが、先ほどと変わらずわかばと雑談をしている。特に変わった様子はない。


 それにしてもあの男は一体なんなのだろう。どう見ても普通の人間のはずなのだが、どこかおかしいと刃の本能が告げている。


 なんとも表現が難しい違和感。

 それは明らかなのに、判別することができないモノ――

 あれは一体なんだろう。


 学食を出た刃は歩きながらそれを考えた。

 しかし、それがなんなのか原因は不明だ。


 なのに――

 なんだろう。

 やけにもやついている。


 よくないものが感じられてならない。

 気のせいであれば、いいのだけれど。


 桜の散った校内を進んで外へと足を進める。

 加奈子はどうしているだろう。彼女の告白を聞いて、いづらくなって思わず出ていってしまったけれど、いまはどうしているだろう。落ち着いているだろうか。


 いや、そもそも彼女を一人にしたのは間違いだったのではないか――刃はそう思って、自分の突発的に取ってしまった行動を悔いた。加奈子に対しては直接的な脅威は出てきていないが、いまの彼女が非常に危険であることに変わりはないのだ。


 なんてことをしてしまったのだろう。

 本当に愚か者だな――と、刃は自らを自嘲する。

 だからいつまでも前に進めないのだ。


 過ぎ去った、どうしようもないことばかりを気にしてなにになる?

 そんなことばかりして。

 そんなことしかできなくて。

 誰かを守ろうとか救おうとか、本当に馬鹿みたいだ。


 そんなの、いままで一度もできたことなんてないくせに。

 くだらない自己欲求ばかり満たして。


 それで満足していればいいのに、それすらもできず後悔ばかりしている――

 それが指針刃という存在だ。


 先ほどされた竜太の問いかけを思い出す。

 きみにとって『正義』とはなんだろう、という問い。


 竜太がどういう意図を持ってその問いかけをしたのか不明だ。奴に訊いたところで口にしないだろう。


 だが。

 竜太は刃がこの問いかけに答えられないことを確信していたに違いない。

 本当に、憎たらしい男だ。


 でも、奴は正しい。

 どこまで行っても正しいと刃には思えるからこそ、あいつのことを憎たらしいと思ってしまうのだろう。


 指針刃が『正しさ』の哲学をまるっきり理解していないから。

 そのように、思ってしまう。


 刃の前方から若い男の三人組が歩いてくる。その様子は明らかにおかしい。目はどこか虚ろでまったく生気というものが感じられないのに、その足どりはしっかりしているようだ。そのうえ、彼らの手には鉄パイプとナイフが握られている。


『邪神の本』の力で操り人形にされているのだろう。

 どうやら自分は本格的に狙われ始めたらしい。


 虚ろな目をした若者たちは刃に向かって突撃してくる。その速度は速くないが、訓練した兵士のように統率が取れていた。上段から振り下ろされた鉄パイプを最小限の動作で横に避けて、その隙に攻撃してきた若者の顎に掌を素早く打ち込んだ。脳を揺さぶられる一撃を食らった若者は一撃で昏倒する。


 続いてナイフを持った若者が向かってくる。刃はナイフを持った若者の手に蹴りを入れて、大振りでいかめしい刃物を叩き落としたのち、先ほどの若者と同じように顎に一撃を加えて昏倒させた。


 ものの数秒で仲間が二人やられたというのに一切ひるむことなく、どこか目を明後日の方向に向けたまま、最後の一人は近づいてきて平然と引きずっていた鉄パイプを刃の頭めがけて振り下ろしてくる。


 それを避けると、アスファルトを叩く甲高い音が響くのと同時に三度目の掌を顎に打ちこんだ。的確に脳を揺さぶられた若者は膝から折れてあっさりと昏倒して道路に転がった。


 暴漢を打ち倒した刃はそこで少しだけ気を抜いた。そのとき――

 刃の右側頭部に強い衝撃が走る。


 気を抜いた瞬間に叩きこまれたせいで、刃は二、三歩たたらを踏んでよろけてしまった。だが、すぐに態勢を立て直し、二メートルほどの距離を一気に詰め、殴りつけてきた相手に自分の体重を思い切り叩きつけた。


 通常の十倍以上ある刃の体重を思い切りぶつけられた若者はゴムボールのように壁まで吹き飛ばされて、昏倒した。


 倒した若者の背後からさらに男たちが近づいてくる。その数は四人。やはり生気のない虚ろな目をしている。倒されて地面に転がっている者たちを踏みつけながら、出された命令を遂行する機械のように統率の取れた動きでこちらに向かってくる。その手には先ほど倒した者たち同じように簡単に手に入る凶器が握られていた。


 油断をしたところを殴られたおかげで、頭が少しふらふらしている。くそ。刃は心の中で悪態をつく。自身の頭に手を触れると、自分の手に赤い液体がついた。久しぶりに見た自分の血。いつぶりのことだろう。それほどひどくないが出血したらしい。刃の身体であっても、頭が出血しやすいことに変わりはない。


 それを認識したことで、刃は緩んでいた気を引き締め直した。

 近づいてきた四人の若者は一斉にその手に持つ凶器を振りかぶってくる。

 だが、油断を捨てきったいまの刃にはその程度脅威ではなかった。二度の攻撃で襲いかかってきた四人全員昏倒させる。


 計八人が地面に転がっている。好きでやったわけではないとはいえ、放置しておくわけにはいかないだろう。警察に連絡するか、それとも竜太に連絡して処理をするか、どちらがいいかと考えたところで、背後からの強い圧力を感じて振り返る。


 三十メートルほど先から爆走する軽自動車が突っ込んでくるのが見えた。どう見ても住宅街の狭い道路を進むスピードではない。刃にとってそれを避けるのは容易だった――が、暴走する軽自動車の進路には、先ほど襲いかかってきて刃に倒された若者が二人転がっていることに気づいた。


 あのスピードで轢かれれば命に係わる――そう判断した刃は転がっていたその若者二人を拾って道の隅に投げ捨てた。車は刃へと向かってくる。もう間に合わない――それが、刃が下した判断だった。気合を入れてどうにかする以外、手は残されていなかった。


「ふざけやがって」


 車は刃に向かってくる。なにが起ころうが知ったことではないという速度だった。

 刃は自らの力を抜いて、突っ込んでくる車を受け入れた。

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