第17話
生まれてはじめて授業をさぼってしまった――大学の中をなんとなく歩きながら星野わかばはそんなことを思った。
まだ一ヶ月も経っていないのにさぼりとはいかがなものだろうか――と思っているものの、いつも通り授業に出る気には到底なれなかった。
かといって家でじっともしていられず、どこに行く当てもなかったので結局大学に足を運んでしまっただけのことだ。我ながら情けないことだと思う。
まあ、いままでの人生でわかばが勇ましかったことなど一度たりともないのだが。情けないのは事実だろう――たぶん。よくわからないし、知らないけれど。
授業をさぼったのにはちゃんと理由がある――そんなことを言うとさぼり癖のついたやる気のない大学生の言葉そのものとしか思えないが、それは確かに事実なのだ。たださぼりたいからさぼったわけではない、ちゃんとした理由がある。たぶん、それなりに。他人がなんと思うか知らないが。
言われるまでもなくそれは昨夜の出来事。
夜の街で遭遇してしまったあのこと――
そのことを思うと、いつも通りの日常を送るなどとてもできなかった。学校に行ってつまらなかったり面白かったりする授業を受けて、知り合いと話しながら昼を食べてまた授業を受ける――というようないつものことを。
したくなかったわけではない。
別にいつも通りすごすことはできたはずだし、そもそもそれを誰かによって禁じられたわけでもなかったのだから。
できたはず――なのだ。
知らないふりをして、なにも見なかったふりをして、現実から目を背けて、自分の都合のいいものにだけ視線を向けることはできた。それは間違いではないだろう。きっとそうしているほうが楽に違いなかったのに。
しなかった理由は明快だ。
ただ、できなかっただけである。
それ以外なにもない。
誰にでもできるはずのことができなかった。
自分はこんなにも無力で愚かで欠陥ばかりなのだろうと思う。
それを思うと、本当に嫌な気持ちになる。
死んでしまったほうがいいのではと思う程度には――そう思う。
校内にある桜は昨日よりも明らかに散っていた。二、三日後にはすべて散ってしまうだろう。儚く、無様に、そして綺麗に。
昨日と同じように散った桜の花びらを踏み潰して歩きながら、これから自分はどうしていけばいいのだろうと考える。
隣に住んでいる、指針刃に対してこれから自分はどうすればいいのだろう、と。
見た目からは想像できないほど重い彼の身体。
そして、なにかとんでもないことが起こったとしか思えない、尋常でない様子で夜の道路で突っ立っていた彼。
一体、この街でなにが起こっているのだろう。
せっかく自分は知らない街で『普通』になれると思っていたのに。
やっぱり、自分はまだ許されていないのだ。誰が自分を許していないのかは知らないけれど。
これは、許されていないのに逃げようとした罰なのかもしれない。
いや、それもきっと――ただ自分には『できない』だけなのだろう。
別に、刃のことが怖いからそう思っているわけではない。多くの人と違った彼の身体に嫌悪感を抱いているわけでもない――それは間違いなく事実だ。確信を持ってそれだけは言える。わかばはなにが本当に怖いのかを充分すぎるほど知っているからだ。
本当に恐れるべきなのは悪意である。
特に自覚なく他者に振るわれ、どんなことをしても簡単に正当化されてしまうモノ――別の言い方をすれば『正義』などと言われるモノだ。それが間違っているかもしれないと微塵も考えず、あらゆることを免罪符にして振るわれるそれが――
――本当に一番恐ろしい。
正義の敵は悪ではなく別の正義である――という言葉はよく耳にする。誰が言ったのか知らないがまったくその通りだ。
多くの人は、自分が理解できないモノに対してそれを振るう。
振るわれる相手のことなど微塵も考えることもなく、自分が相手と同じように考えるかもしれないとまったく考えずにそれを振るえるのだ。
振るえてしまうようにできている――のかもしれない。
そうすれば自分を守れるから。
そうやれば異物を排除できるから。
間違っていても、得られるモノが多ければ――戦略として優れているのなら進化のプロセスはそれを選択する。
進化はどこまでも非人間的だ。倫理も道徳も関係ない。
先を見通すこともなく、ただそのとき生存するのに適した戦略を選ぶだけ。
自分の理解できないものを排除するという行為に原因があるのなら、たぶんそのあたりが関係しているのだと思う。
もしそうなら、それをどうすることなどとてもできない。
まるで原罪のようだ。
きっと、彼もそのことを知っている――わかばにはそう感じられた。
人間の性ともいってもいい、どうにもしがたいその習性を。
その身をもって――嫌というほど思い知らされているのだろう。
自分が多くにとって異物であることを――徹底的に思い知らされたのだ。
はっきりいえば過去の刃になにがあったのか、わかばに知る余地はないし、知ったところどうすることもできない。そもそも知る意味すらないだろう。同情してみたところで起こってしまった過去も現実もなにも変わらない――だから同情しようとも思わない。同情してほしいとも思わないだろう。
だからこそ――
刃の中にあるそれらを中途半端に理解してしまうから、どういう風に接すればいいのかわからないのだ。
知らないふりはできない。
知ったような気になって同情はしたくない。
できないとしたくないばかり。
どこまで自分は馬鹿なのだろうと思う。
『いいではないか。なにを悩むことがある。貴様の好きに生きればいいだろう。何故わざわざ窮屈なほうを選んでいる』
どこかからそんな声が聞こえてくると、視界がぐわんと歪み、いま自分が立っているのか転がっているのかわからなくなる。
誰の、声だ?
聞いたことがあるような気がするが、それが誰のものだったのかよく思い出せない。
『確かに貴様はどこまでいっても不適合者なのだろうよ。少なくとも有象無象どもの社会においてはな。だからといってそこまで自分自身を否定する理由にはならんぞ。所詮は取るに足らない有象無象ではないか。貴様が気に病んだところで勝手に生きて勝手に死ぬ。消耗品とさして変わらん。どこにでもある消耗品を貴様の好きにしたところで、この世界はなにも変わることはないのだ。だから自分を肯定してみるがいい。自身の欲望を、願望を、愉悦を』
この声は、なにを言っている。
ここは、どこだろう。
なんでここはこんなにまわりがぐにゃぐにゃなんだ。
あらゆるものが渦を巻いて、ねじれて、曲がっている。
『なに、難しく考えることはない。すぐにすべてを肯定しろとは言わん。一つ一つやっていけばいい。貴様が自身の願望を肯定することは私が許そう。愉悦に浸ることも、欲望に忠実になることも許そうではないか。迷う必要などない。悩む必要もない。自身の否定しかできない者など、人間として欠陥品だろう。そう思わないか?』
あらゆるものがぐにゃぐにゃで、自分の思考すらも不確かなのに、さっきから頭の中に響く声だけは異様なほどはっきりしているのは何故だろう。
『答える必要はない。貴様が答えるべき回答はすでに決まっている。貴様はただそれを認めればいいだけだ。認めたところでこの世界はなにも変わらん。それが有象無象にとって害になるものであってもな』
そういえば、自分の身体はどこにいったのだろう。自分の身体はまわりの空間と同じようにねじれて曲がって混ざって溶けてしまっている。
なんだか、すごく気持ちいい。
こんなに気持ちいいのなら――
「……おい」
きっと、
あの声が言うことは――
「おい! どうしたんだよ! 大丈夫か?」
声が聞こえる。
誰だろう。
いや、この声は――
ふと気がつくとまわりは見慣れた風景に戻っていた。まわりはぐにゃぐにゃになっていないし、自分の身体も確かにある。
桜が散り続ける大学内の並木道。そこに立つ自分。
自分に話しかけてきたのは――
「……増田くん」
わかばのその声を聞いて、増田は安心したような表情になって息をついた。
「……よかった。大丈夫そうだ。なんだか様子がおかしかったぞ。なにかあったの?」
そういえばなにがあったのだろう。
なにかあったような気がするのだが、よく思い出せない。
「ちょっと立ち眩みをしたというかなんというか」
「なんだよそれ――まあいいや。大丈夫そうだし。こんなところでなにやってるの? まだ授業中だろ? もしかしなくてもさぼり?」
「うん、まあそんなとこ。でも、それを言ったら増田くんもでしょ?」
現在、授業中なのは増田にとっても同じのはずだ。
「今日は昼からなんだ。早めに出て昼を済ませようって思っただけだよ」
「そうなんだ。まあ、昼はすごく混んでるもんね」
「そ。で、星野さんは授業さぼってどうしてこんなところに?」
「授業出る気にはならなかったけど、家にいるのもなんかなーって思って。でも、やることはなにもないから、ふらふらしてただけなんだけど――あれ、首どうかしたの?」
増田の首に湿布が貼られているのにわかばは気づいた。昨日、飲み会にいたときはそんなもの貼っていなかったはずだ。
「なんか寝違えたみたいでさ。それほどひどくないからすぐ治るよ」
「ならいいけど――」
増田の様子を見ればひどくないのは確かだと思うのだが、何故か心がざわついた。
「星野さん、暇なら一緒に昼でも食べに行こうよ」
「昼――」
そういえば今日は水以外なにも口にした覚えがないのを思い出した。食べられなかったのではなく、食べるのをすっかり忘れていたような感じだ。増田にその話をされて、自分が空腹を感じているらしいことにはじめて気づいた。
「やっぱり具合悪いの? 大丈夫?」
増田がわかばの顔を覗き込んでそういった。
「大丈夫だって。なんかお腹減ったの忘れてたなって思っただけ」
「なにそれ。変なの」
増田はそう言ってクスリと笑う。
「そうかなあ」
よく、わからなかった。
でも、腹が減っていることを忘れていたのは事実である。
そういうこともあるんだろう――たぶん。
増田とわかばはここから一番近くにある学食に足を運んでいく。
まだ二限目の授業が終わっていないので学食には人の数は少なかった。混み出すまであと一時間くらいあるだろう。
そんな学食に入ると同時に、異様な空間が広がっているのが目についた。
まばらにいる学生たちもそれを感じているのか、その場所を避けているようだ。なんだろうと思いつつも足を進めていくと、
「あ」
反射的に間抜けな声を出してしまった。
座っていた人物がその声を聞いてわかばのほうを振り向く。
そんな声を出してしまった理由は他でもない。学食の一角に異様な空間を作り上げているのがわかばの知っている人物であり、いまの状態ではできるだけ顔を合わせたくない相手だったからだ。
隣人の指針刃である。
こちらに気づいた彼のほうも少しだけばつの悪そうな顔をしていた。
何故こんなところにいるのだろうと思ったが、近くに住んでいるのだから食事をしに来るくらいはするかと思い直したものの、彼の身から発せられている雰囲気になにか剣呑なものを感じて、ただ食事をしに来たわけではないらしいことを悟った。
刃の前に座っているのは誰だろうと思い、わかばはそちらに視線を向ける。彼と同年代の若い男である。ラフな格好をしているが、身にまとっている雰囲気は明らかにそこいらの学生とはかけ離れすぎている。
それをなんと表現すればいいのかわからないが――なんというか王様みたいだ。どこかで会ったような気がしないでもないがよく思い出せない。
そんな二人が大学の学食というありふれた場所に異様な空間を構築している。わかばも刃と知り合いでなかったのなら、彼らのことを避けていたに違いない。
……すげえ気まずい。
どうして先ほどの自分はあんな声を出してしまったのかと少しだけ後悔する。しかし、向こうもこちらも気づいてしまったという現実はどうしようもなかった。
わかばも刃も声を出すタイミングを失ったままでいると、その沈黙を破ったのは彼の前に座っている男だった。
「こんにちは。また会ったね」
にこやかに男は言う。やはり発せられた言葉にも気品が感じられた。
「えっと、またって――どこかで会いましたっけ?」
「あら、覚えていなかったか。これは失礼。きみが越してきた日、彼の家を訪ねただろ? 僕も同じ日に彼の家に行っててね。そのときすれ違ったのさ。入れ違いというやつだね」
「はあ」
そうはっきり言われてしまうと、何故かそんな気がしてきてしまう。
「おい。適当なこと言ってんじゃねえよ。困ってるだろうが」
「適当じゃないって。本当にあの日すれ違ったんだよ。僕がそんな適当なことを言うわけないじゃないか。生まれてから一度も嘘を言ったことがないのが僕の数少ない自慢だからね」
「嘘つきの言葉そのものだな」
「はっはっは。それは厳しいな」
冷たく言い放った刃の言葉を気にする様子もなく男は余裕のある笑みを浮かべている。
「僕はきみの住んでいるアパートの管理会社の者でね。水谷竜太という。これから顔を合わすこともあるだろうし、よろしくね」
「よろしくお願いします」
この人の言っていることが嘘なのか本当なのかよくわからないが、面倒だしそう言っておくのがいいのだろう――そんな失礼なことを思いながらもわかばは挨拶を返した。
「こいつの言うことなんてわざわざ聞かなくて――」
と言った刃の言葉は途中で止まり、その視線は隣にいる増田に向かう。
「あんた……」
「?」
増田は不思議そうに首を傾げた。
「いや、なんでもない。たぶん気のせいだ。気にしないでくれ」
それを聞いても増田はなんのことだろうという顔をしている。
ただでさえ妙な空間なのに、さらに妙なものが満たされていく。
「……増田くん、行こっか」
なんだかそれに耐えることができず、わかばはそう言った。
「ああ。うん。そうだね」
わかばと増田は刃と竜太のもとから離れていく。
離れても、彼らのことがやけに気になった。
あの二人は、一体なにをしていたのだろう。
それにしても――
偶然、顔を合わせても、やっぱりわかばは刃に対してどう付き合えばいいのかまったくわからなかった。
なんでこうなのだろう。
本当に、ままならない。
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