第16話
「それでは、始めましょうか」
朝食を終え、てきぱきとちゃぶ台の上を片づけた加奈子はそう言った。机の上には持ち込んだタブレットPCがある。恐らくこれで議事録を残すのだろう。それ以外、机にはなにも置かれていなかった。
朝食後の後片付けは刃も手伝った。加奈子からは大人しくしていてくださいと言われると思っていたのだが、刃が「手伝うよ」というと、彼女は少し考えてから、「お願いします」といつも通り無表情で言ったのだ。
少しこそばゆいものがある反面、こちらの好意を素直に受け取ってくれたことに刃は嬉しく感じた。目覚ましのシャワーを浴びる前に言った言葉が効いたのかもしれない。ただの気まぐれかもしれないけれど。
まだ朝の八時すぎたばかり。こんな時間に起きたのは久しぶりだ。前に午前中に起きたのはいつだったっけ――などと刃は思った。
二人でやったので片づけはすぐに終わった。洗い終わった食器を乾燥機に入れて、すぐに昨日の出来事についての話し合いの準備を始める。
とはいっても、刃はなにもしてないし、加奈子もタブレットPCを持ってきただけだったが。
刃は加奈子の手前に腰を下ろして、
「うん。それじゃあなにから離したらいいかな?」
と切り出した。
それを聞いた加奈子は顎に手を当てて、いつもと変わらない表情のまましばらく思案し、三十秒ほどそうしたところで、
「そうですね――それでは、最初は接触した相手についてお教えください」
と、綺麗なブラインドタッチで軽快な音を響かせながら素早くタブレットPCに文字を入力しながらそう言った。
「うーん、そうだなあ――なんというか妙だったな」
「妙とはどういうことでしょうか?」
「これまで起こっていた人間消失事件はこちら――いや僕らじゃないかもしれないけれど――誰かをおびき寄せるための餌だった可能性が高いわけだろ? ってことは相当慣れているはずだし、自信だってあるからそんなことをするわけだ。なのに、僕がはじめ接触した相手は明らかに素人だった。わざと見つかりやすくして、誰かをおびき寄せるなんてことできそうにないような奴」
「それは、相手の隠蔽が働いていなかったのでしょうか?」
少しだけ意外そうな顔をして加奈子はそう言う。
「そういうわけじゃない。『邪神の本』が使っている隠蔽能力は僕らが予測していたものに近かったはずだよ。しっかり機能していた。喋っていた相手の声は男とも女とも子供とも老人とも判断できなかったし、そもそも相手の姿だって黒いもやのようなもの包まれていてまったく見えなかった。漠然とその包まれているもやの大きさから体格を予想するくらいしかできなかったから。『邪神の本』の足になっているのが誰かはまったくわからなかった」
「それだとすると、指針さんはその記憶がはっきりしていますね。離れたら記憶が消えてしまうというのはこちらの杞憂だったということでしょうか?」
「どうだろう。判断が難しいな。僕としてもあのときの記憶がちゃんといまも残ってるのは意外だったし、ちょっと時間が経ったら消えてしまうものかと思っていたけれど――考えられるパターンとして、『邪神の本』が持つ他者の記憶に対する影響力にはかなり大きく個人差が出るのか――もしくは、僕だったからこそのイレギュラーかってところかな」
「……ふむ」
加奈子はそこで刃が喋っている間、失踪するように打鍵していた手を止めた。それからしばらく、外から聞こえてくる色々な雑音だけになる。
「いままでの情報を加味して考えると、指針さんに記憶が残っているのは通常起こりえないイレギュラーと判断するのが妥当です。記憶に対して発生する影響力の個人差については否定しません。データを見る限り、確かに消失事件の犯人に対する情報にもばらつきがあるのは事実ですから。
でも、それは無視しても問題のない小さなものです。期待するものではありません。指針さん以外の場合、あとから情報を引き出すのは不可能なものと考えた方がいい」
「そうだね。同感だ」
記憶に対する影響が小さいのは、『邪神の本』が他者の記憶に対してかけている力の一部を、刃の肉体がはねのけているからこそ発生しているのだろう。
それが原因だと考えると、別の誰かに偶然、いまの刃と同じように『邪神の本』に関連した記憶が残るというのは非常に考えにくい。それほど不安定な力だったのなら、向こうも大胆な手段は取らないだろう。『奴』は自信に溢れていたが、決して自信過剰ではない。
「わかりました。次の質問をします。接触した相手が素人だったというのは、具体的にはどういう感じだったのでしょうか?」
「なんていえばいいだろう。自分が手に入れた力に対して対抗できる相手なんているわけがないと思ってるところとか、安い挑発にすぐ乗るところとか、少し脅したらまるっきり動けなくなったところとか――おかしさを感じるところを言い出したら、わりといくらでも出てくるな、そのあたり」
加奈子は刃の言ったことを打ち込みながら、少しだけ眉根を寄せる。
「確かにそれは妙です。あれほど大胆な行動を繰り返し取っていた『邪神の本』に操られているとはとても思えませんね。いくらなんでもボロが出すぎだと思います。なにか狙いがあってのことでしょうか?」
「違うと思う。僕は『邪神の本』の足になっている誰かは、『邪神の本』に操られていないんじゃないかと考えている」
「……それは、どういう」
話し合いが始まってからほとんど澱みなく打ち込んでいた加奈子の手に突如ぎこちなさが生まれて止まった。
「いま『邪神の本』の足になっている奴は、自由意思を失っておらず、なにを考えてるのか知らないけど、自分から積極的に『邪神の本』に協力している可能性がある」
「……!」
その言葉を聞いた加奈子の目に明らかすぎるほど、怒りの炎が舞い上がったのが見えた。タイピングを止めた手は力強く握られている。
それは見ているこちらが、痛々しくなるほどだった。
あまりにも露骨な怒りの感情。
だから、理解できてしまったというほうが正しいのかもしれない。
やっぱり、加奈子は『邪神の本』に対してなんらかの因縁がある。
刃は図らずもそんな確信を持ってしまった。
……なにがあったのだろう。
冷静な彼女を、あそこまで激しい感情を抱かせる原因は一体――
そういうものを見てしまうとやはり――
どうにかしてやるべきではないかという思いが――助けになりたいという願いが強く湧き出してくる。
正義なんて、幻想以外なにものでもないと理解しているはずなのに。
理解させられてしまった――はずなのに。
それを抱かずには、いられなかった。
どうしてこんな気持ちになってしまうのか。
そんな気持ちにならなければ、もっと楽になれるのに――
前に進めるというのに、何故――
「あともう一つある。『邪神の本』の足なっている奴は素人である以上にとんでもなく幼稚だ」
「どういう、ことでしょう」
「どんなふうに育ったのか知らんが、少しこじらせたような選民思想めいたものが感じられた。力を手に入れた自分にはなにをしても許されるとかいう類のやつ。力を手に入れてそうなったのか、もともとだったのか不明だけど」
「なんですか、それは……!」
加奈子は握りしめていた拳をちゃぶ台に叩きつけた。
刃は心中で加奈子のその行動に驚愕していたが、それは表に出さないよう平静に勤める。
その怒りは同時に発した言葉にもにじみ出していた。とても強い怒り。ただごとでは済ませられないほど激しい感情。
「すみません。少し取り乱してしまいました。続けてください」
加奈子はそう言って、先ほどまで表出させていた怒りをしまい込んだ。
「素人だし、そのうえ頭のできもお粗末みたいだから、奴自体はそれほど脅威じゃないけれど――ああいうのはやけっぱちで滅茶苦茶なことをしでかす可能性がある。それに……」
そこで刃は一度言葉を切り、息をついてから続ける。
「昨日、足になっている奴を捕らえようとしたとき、『邪神の本』の意思らしきものと接触した。というか、奴は捕らえられそうだったんだが、そいつが土壇場で出てきたせいで失敗した」
「では、昨夜顔色が悪かったのは……」
「うん。まあ奴が逃げる時間を稼ぐためにちょっとした攻撃を食らった」
「それは……大丈夫なんですか?」
加奈子は不安げな表情を見せる。
「すこしばかり嫌な幻覚を見させられただけ。いまのところ異常はないし、大丈夫だと思う。殺すつもりだったのなら、その程度じゃ済まないだろう。しかし、面目ない」
「いえ、そんなことはありません。足になっている人間が完全に操られていないというのがわかったのですから。
「ですが、足になっている人間が自由で、偏った思想を持つ幼稚な人物となると少し面倒ですね。指針さんの言う通り、追い詰められたときに目茶苦茶なことをして被害を拡大するかもしれない。泳がせて、『邪神の本』の確保を急ぐべきでしょうか」
「どうだろうな。あのタイミングで奴を助けたということは、『邪神の本』はいまの段階では足になっている奴を切り捨てるつもりはないんだと思う。そうなると奴を無視しても、奴のほうからなんらかの妨害をしてくる可能性は高い。
「僕としては協力相手にするような奴じゃないと思うけれど、それでも協力しているとなると、なにか算段があるのかもしれない」
「もしくは、その人物が御しやすいから、でしょうか」
「充分あり得る――直接的に操っていなくても、『邪神の本』が奴に協力しているように思わせて、その裏で奴のことを遠回しに唆して、『邪神の本』の思い通りの行動をさせている、というケースは」
「そうなると、足になっている誰かは被害者になるのでしょうか」
「違うな。奴と接触した限りの印象だと奴は積極的に『邪神の本』に協力している。奴も『邪神の本』の力を自分のものだと思い込んでいる節があった。場合によってはなにを目的に動いているのか知っている可能性もある。そんな奴を被害者にしていいわけがない」
「…………」
刃のその言葉を聞いた加奈子に再び怒りの色がにじみ出していた。
「『邪神の本』の力を自分のものだと思い込んでいる節があり、奴に自由意思を持っているとなると、その力を自由に使うことを『邪神の本』から許されているはずだ。幼稚で身勝手な奴なら、そう遠くない日に『邪神の本』の自分勝手な目的のために力を使い始めるだろう。僕はそれを許すほど甘くない」
それは力を持った者の義務である。
自身を律することができないような奴は力を持ってはいけない。
指針刃はそう考える。
「どう、するんですか?」
「ま、所詮は素人だから、『邪神の本』を引きはがすことができればどうにでもできるだろう。捕まえたら竜太の奴に任せるよ。末端とはいえ、僕も組織に属しているからね」
刃が殺さず捕らえたところで、竜太の奴は殺すだろうが。
竜太はあの手の輩を心底嫌っているから。
なんの感情もなく、ゴミでも処理するかのように、平然と。
始末するだろう。
笑いもせず、怒りもせず、淡々と。
事務作業をこなすように。
だが、それは刃が口を出すことではないし、出すつもりもない。いや、もっというなら出したところでどうすることもできないだろう。
竜太が、刃が所属する組織のトップになるからとそう思っているわけではない。
単純に刃には水谷竜太という男を止めることができないからそう思っているだけだ。
あの男はこちらが思うより遥かに強い人間である。表面上ではへらへらと笑って、そんなことは微塵も思わせないけれど、あいつは他人には想像できないほど苛烈だ。
その信念に、刃はある種の尊敬の念を抱いている。
それは、自分には永遠に持ちえない『強さ』に他ならないから。
「わかりました。その判断については指針さんに任せます。私は現場に行くわけではありませんから」
静かに、だけど強く加奈子はそう言った。
それからタイピングの音も止まり、再び外から聞こえてくる雑音以外聞こえてなくなる。
重い沈黙が部屋を貫く。
しばらく続いた沈黙を破ったのは加奈子の方だった。
「話したいことが、あるのですが」
「……なに?」
「いままでの話とは、関係ないんですけれど……」
「いいよ。そんなこと気にしないで」
刃はそう言って加奈子を促した。
それを聞いた加奈子はしばらく躊躇するようにして、すぐに意を決したように口を開く。
「……私が、この『邪神の本』の一件に首を突っ込んだ理由を」
「やっぱり、なんかあったんだ」
「気づいて、いたんですか?」
少しだけ恥ずかしそうにして加奈子は言った。
「勘みたいなものだよ。そんな感じがしただけ。根拠はなにもない」
加奈子が意外と顔に出やすいタイプであったのは黙っておこうと思った。そのほうがいいだろう。余計なことは言うべきじゃない。
「そうですか。指針さんは『邪神の本』が日本に持ち込まれた経緯を知っていますか?」
「ざっくりとした話なら竜太から聞いた。北朝鮮から逃げてきた人たちの一人が持ち出したあと乗ってた船が難破して海に沈んで、ちょっと前に漁船に引きあげられたんだよね」
「はい。その通りです。では、最近引きあげた人たちがどうなったのかも知ってますか?」
「うん。ここで起こってる事件みたいに全員消失したって聞いたけど――まさか」
嫌な予感が刃の背から這い上がってくるのを感じた。
「そうです。『邪神の本』を引きあげた漁船は私の父が乗っていた船だった」
「…………」
そうか。
それなら、あれほど強い怒りを抱いているのも理解できる。
家族の敵であったのなら、それは当たり前だ。
家族とは完全に縁が切れている刃にだって、それくらいわかる。
わかって、しまう。
「だから私は、いままで積んできたキャリアをすべて捨てて、この件に首を突っ込んだ。自分勝手な目的のために色々な人に迷惑をかけて、現在進行形で自分勝手な行動を続けているんです。指針さんのことも利用しようとしている。私は……私は……」
どこか壊れてしまったかのように溢れ出す激情。それは見ているこちらまで痛くなってしまうほどの――
「落ち着いて、ください」
それ以上の言葉は言えなかった。
そんなことが言えるほど、指針刃という人間は器用でもなければ、語彙もない。
無様で、愚かで、気の利かない――自分はそういう、どうしようもない奴なのだ。
本当に――嫌になる。
「少し、外に出てきます。気分を落ち着けたほうがいい」
刃はそう言って適当な上着取って立ち上がった。
「外に出たいなら出てもいいですよ。鍵なんてかけなくて大丈夫です。どうせ盗まれるようなものなんてなにもありませんから」
「…………」
加奈子は押し黙ったままだ。無言のまま、こちらを注視している。
「ちょっと用があるから、悪いけど昼は適当に済ませてください。よろしくお願いします」
そう言い残して、刃は財布とスマートフォンをポケットに押し込んでから外へと歩き出す。
アパートから少し離れた場所で、ポケットに入れたスマートフォンを取り出して、電話をかけた。
かける相手は決まっている。
「おい。ちょっと話がある。こっちまでこい。忙しいなんて言わせねえぞ」
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