第12話

「大丈夫?」


 星野わかばは同じ語学の授業を履修している女子学生にそう言った。あまり顔色がよくない。彼女はつい先ほどまで酔いつぶれていたので、わかばが回復するまで彼女のことを介抱していたのだ。


「大丈夫。ごめんめ。迷惑かけちゃった」


 女子学生は青白い顔色をして申し訳なさそうに言った。顔色は悪いが、意識はちゃんとしているから大丈夫そうだ。


「ううん。そんなことないよ」


 わかばは彼女のことを迷惑などとまったく思っていなかった。それなりの人数で酒を飲めばこれくらいはあるというのは知っている。


 それに。


「あと、気持ち悪くなったら無理しちゃだめだよ。水もたくさん飲んで……えっと、あと」


 自分みたいな奴でも、誰かの心配ができるのはすごく嬉しかったから。


『普通』の人間になれたような気がして。


「そんなに心配しなくても大丈夫だって。もう歩けるくらいにはなったし、心配しすぎだよ」

「そうかな」

「うん。それじゃ、そろそろ電車来るし、あたしは行くね」


 スマホで時間を確認してから、女子生徒はそう言った。彼女はまだは少しふらついていたものの、意識はしっかりしている。家に帰るくらいは問題ないだろう。


 彼女が駅のホームに入っていったのを確認し、その姿が見えなくなってからわかばは踵を返して歩き出した。


 今日はわかばと同じ語学のクラスを履修している者たちで親睦会が行われていたのだ。


 同じくらいの年代の者とこういったことをするのはわかばには初めての経験だった。地元にいたときはこのような集まりに呼ばれることなんてなかったし、そんなものはきっと自分とは関係ないものなのだろうと思ってもいた。


 もしかしたら、意外とそうではないのかもしれない。そんなことを思う。


 果たして自分は上手にできたのだろうか。少し心配だった。こういった集まりに参加する『普通の子』として振る舞えていたのだろうか。


 今日の行動を少し思い出してみる。


 …………。

 よく、わからない。


 どうしてこんなにも自分のやることに確信が持てないのだろう。他の人たちはもっと自分を信用しているように感じる。なんだかんだ言いつつも、自分のことを一番信頼しているのだ。なんでそんなことできるのだろうか――わかばにはわからなかった。


 違う。

 たぶん、そうじゃない。


 わかばが自分のことをここまで信頼できないのは、いままでの自分のことを徹底的に否定しているからだ。


 自己肯定が一切できていない。

 いや、できていないというか、自己肯定を一切しないことでいまの自分をなんとか保っているからだ。


 あらゆる自分を否定して、自分を保つという矛盾。

 それがいまのわかばにある自己肯定感の喪失の原因だ。


 だから――

 そもそものやり方が間違っている――のかもしれない。そんな風に思った。


 しかし。

 いまのわかばには過去を含めて自己を肯定するなどとてもではないができそうにない。

 だって、あんな――


 楽しい。

 なんで、これは――

 こんなにも楽しいのか。


 ――駄目だ。首を振って、急にフラッシュバックしてきた過去の記憶を無理矢理追い出した。それを思い出すのはよくない。忘れてはいけないことかもしれないが、積極的に思い出すべきことでもないはずだ。


 東京まで来たのは、

 それを振り切るためなんだから。

 思い出す、べきじゃない。


 なんで嫌な記憶というのはこんなにもしつこく残るのだろう。楽しい記憶はすぐ消えてしまうのに。


 深くため息をついて、立ち止まり、まわりを見渡してみる。


 自分以外誰もいない。街は暗闇と静寂に包まれている。もしかしたらここには自分以外誰もいないのではないか、と錯覚してしまうほど静かだ。


 自分以外誰もいなかったら、それはそれで楽だったかもしれない――などと思ったりもする。楽かもしれないが、それに耐えられるとは思えないけれど。


 そういえば――と、わかばは増田のことを思い出した。


 始まってから三十分ほど時間が経過してから現れた増田は、二軒目に入ってからしばらく経ったところで用事ができたといって金を支払って帰ってしまったのだ。


 それ自体はおかしいわけではないが、それを言い出したときの様子がなんだかおかしかった。


 なにがおかしかったのか、と問われるとちゃんと答えられない。何故か妙な違和感を感じたのだ。理由はよくわからない。ただの気のせいだと思うが、何故かそうとは思えないのだ。


 昼間聞いた家族のことでなにかあったのだろうか。

 そうだとすると少し心配だ。


 だが、他人の家族のことに口を出すべきではない、とも思う。

 自分の家族は、他人からの必要以上の干渉で嫌な思いをしてきたから。

 それを呼び込んだのは、間違いなく自分なのだけれど。


 それでもやはり心配だ。


 明日、彼と一緒になる授業はあっただろうか。帰ったら確認してみよう。なかったとしても、顔を合わせる機会がないわけではない。それとなく聞いてもいいだろう。


 自分にはなにもできなかったとしても。

 話を聞くぐらいならできるのだ。


 ふと、そこで、百メートルほど先に立つ人影らしきものが目に入った。明かりが少なくてよく見えないが、道路の真ん中に人らしきものが立っている。


 危ない――とわかばは思った。


 昼間でもそれほど車の通りは多くない場所だが、まったく通らないわけでもない。それにいまは夜で暗く、あまり見通しがきかない。ドライバーが気づいたときにはもう間に合わないかも――


 どう、しよう。

 どく、どく、どく、と心音が大きく跳ね上がり、汗がにじみ出してくる。


 ……違う。


 なにを言っている。あんなところに突っ立たせたままにさせては駄目だ。助けなければいけない。


 それが。

 それが『普通』の人間のはずだ――


 これはきっと、私に与えられたチャンスなんだ。そう考え、心を震わせて、わかばは決心した。


 誰かが立っている場所へ向かう前にわかばはあたりを確認する。大丈夫。車は来ていない。わかばは道の真ん中にいる誰かのもとに向かって駆け出した。走るような靴を履いていないから、何度も転びそうになりながらも、人影のもとへと近づいていく。


 近づいていくと、道の真ん中に突っ立っているのは確かに人間のようであることがわかった。なんでこんなところに立っているのだろう。一体なにが――もう少しだ。早くここからどかせないと――


 と、そこまで思ったところで、わかばはその人影に見覚えがあることに気づいた。それに続き、それが誰だったのかも。


 道の真ん中で突っ立っていたのは隣人の指針刃だった。

 どうして――とわかばは思ったが、まず歩道に行かせるのが先だ。話を聞くのはそれからでもいい。


「だ、大丈夫ですか?」


 わかばは刃のそばまで近づいて声をかける。反応はなかった。近づいてみてわかったのだが、明らかに様子がおかしい。目が虚ろだ。薬かなにか盛られて、幻覚でも見ているような――


 肩をつかんで揺すって、反応を確かめようとしたらさらなる困惑に襲われた。

 重い。

 それが一番はじめにわかばの感じた感触だった。

 それも尋常ではない重さだ。


 なんだこれは。わかばの頭の中に大量の疑問符が浮かびあがる。ビルでも押したかのような感覚だ。


 びくともしない。もしかしてここに立っているのは人間じゃなくて建物かなにかなのか?


 そんな馬鹿な。触れているのは確かに人間のはずだ。手にはしっかりとその体温が伝わってくる。


 思い切り力をこめて揺すっているはずなのに、刃の身体はまるで大地に深く根を下ろした大木のように動かなかった。それでも刃は虚ろな表情を浮かべたまま反応がない。


 どうしよう。

 わかばの頭にはとめどなく焦りが生まれてくる。


「指針さん! どうしたんですか? 大丈夫ですか?」


 困惑と焦りでわけがわからなくなりながら、わかばは叫んだ。それでも刃は反応しなかった。誰かに助けを求めようとしても、まわりには刃と自分以外には誰も見当たらない。街はあざ笑うかのように沈黙している。


 どうしよう。

 そう思うと、わかばの焦りはさらに大きくなっていった。


 とにかく、ここから動かさないと危ない。わかばは刃の腕を自分の肩にかけて動かそうと考えた。


 だが、その腕は予想通りあまりにも重く、下から両手を使って思い切り力を込めても全然持ち上がらない。一体何キロあるのだろうか。まるでそれは鉄の塊かのようだ。


 尋常ではないほど重い刃の身体をどうにか動かそうと四苦八苦していると、虚ろだった刃の目に光が戻ったのを察知する。


「だ、大丈夫ですか?」

「……うん。大丈夫」


 今度は、しっかりと刃は言葉を返した。意識は取り戻したようだ。だが、あまり体調がいいようには見えなかった。明らかすぎるほどその顔色は悪い。


「大丈夫、歩けるよ。それに、重いだろ」


 刃は持ち上げようとしていたわかばの手をそっと振り払った。


「……えっと、その……」


 なんと言えばいいのか、わかばにはまったくわからなかった。

 でも――と思う。


 刃は恐らく、自分の身体について、あまり訊かれたくないのだろうというのはわかばにも理解できた。


 いや、わかばだからこそなのかも――しれない。


「あの、私、指針さんの身体のことも、今日のことも、誰にも言いませんから!」

「そんな言い方をされると、僕が無理矢理口封じしたみたいだな……」


 やれやれ、と刃は自嘲するような言葉を漏らした。


「でも、そうしてくれるのはありがたいよ。ありがとう。迷惑かけたね」

「…………」


 そう言った刃の姿は、わかばの心がささくれ立ってしまうくらい、とても悲しそうに見えた。


 しばらく無言の時間が続く。

 なんだか、二人だけの世界になってしまったかのようだ。

 ロマンスめいたものは一切ないけれど。

 何故か、わかばにはそう感じられた。

 向こうがどう思ってるか、わからないけれども。


「えーっと。とりあえず帰ろうか。もう暗いし。最近ちょっと物騒みたいだから。送ってくよ――というか隣なんだけど」

「……そうですね。お願いします」


 なんだか妙な雰囲気に包まれたまま、わかばと刃は歩き出したのだった。

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